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「水道橋博士のメルマ旬報」第五回

フランスの厨房に立った初日のことは、今でも鮮明に覚えている。オーナーシェフとの面談を終え、「やる気があるなら今夜試しに働いて見る?! 」と言われ、15分後にはコックコートに着替えて厨房に立った。

お店にもよるが、だいたいフランスのビストロの営業時間は19時からが多く、18時の面接が終わったあとは、ちょうど営業前の賄い飯の時間と重なり、誰一人知らない人達と軽い自己紹介をしながら僕は賄い飯を食べた。とても緊張していて、正直何を食べても味がしなかった。サービス前のなんとも言えない慌ただしい雰囲気と熱気に押し潰されそうになる不安な心と、このチャンスを何がなんでも逃したくないという思いとで、もう頭の中がぐちゃぐちゃで普通の精神状態ではなかったと思う。それが周りにバレないように心の奥に隠し、人生初めて、フランスのビストロの厨房で、夜の営業に臨んだ。

僕は日本のフランス料理店では主にホールでサービスとして働いていたので、厨房での経験はほぼゼロに等しかった。今考えるとそのレベルでよく「今日から働きます。」と言い、コックコートに着替えたなあと思う。今も時々この時のことを思い返しては、無謀すぎる自分に、ハッタリの極みだったなあと恐ろしくなる。

色々と分かるようになればなるほど、あの時の僕がどれだけ何もできなかったかがわかる。救われたのは、同じ厨房に日本人女性が働いていたことだ。僕のフランス語は今よりも本当に酷く、良く聞き取れず、話せず、物の名前もフランス語で分からない物が多かったが、彼女には随分と助けてもらった。それは今でも感謝している。ちなみに彼女は今ではビストロのオーナーシェフとして自分のお店をパリで開いている。

ビストロの規模にもよるが、厨房で働く人は大抵2〜3人の料理人と洗い場の人で構成されていて、規模が小さくなればその人数は少なくなる。僕が働き始めた当初、このビストロはオーナーシェフであるフランス人と日本人女性、洗い場にマリ人という体制で営業していた。

営業が始まる前から緊張で口の中はカラカラ、何がなんだか分からない、ただ言われたことをするしかなく、全く主体性がなくその場にいることは、とてもしんどい。

営業中、できないなりになるべく俊敏に丁寧に、言われたことをこなすように心がけたが、邪魔になっていたことも否めない。全く仕事の順序がわかっておらず、全体像や完成図が見えない人に指示を出すことは時間のロスだし、頼んだことをきちんとできない場合、二度手間になる。初日で色々と店の勝手がわかっていないことを差し引いても、本当に酷い働きぶりだったと思う。そして営業中の早口のフランス語は全く聴き取れないということにショックを受けた。

あっという間に3時間30分の夜の営業が終わり、片付けと厨房の掃除をしてから再びオーナーシェフと話して、フランス語を学ぶ学生という身分だった僕はアルバイトとしてとりあえず夜だけ働き始めることになった。嬉しかった。憧れのパリのビストロの厨房に立てたこと、働けたこと。夢のような気分で少し早足で帰り、その日の営業のことを妻に話した。

学生という滞在身分でフランスに来ていた僕は、午前中はフランス語の学校に行き、午後も曜日によっては授業を受け、火曜日から土曜日の17時からお店で働くことになった。何もできない僕は、初日こそ営業に参加させてもらえたが、すぐに仕込み係になり、営業中もずっと地下にある仕込み場で働くことになった。仕込み場には僕以外にももう一人マリ人がいて、その彼に色々と教えてもらった。

当たり前だが、実力ないものは決して営業には参加できない。いても邪魔なだけだ。とにかく、調理場にある器具、野菜、肉、魚など、最低でもこれぐらいのフランス語が分からないと仕事にならない。料理人としての経験がある人なら、状況から推測して対応できることもあったかもしれないが、僕にはその経験もなかった。地下の仕込み場で働く僕は、厨房で働く人が必要な物を上に持っていくこともしなければならず、言われた物が何なのか分からなければ、全く話にならないのだ。今でこそ、厨房で分からないフランス語はほとんどないが、当時の僕はほぼゼロに近いと言ってもいいぐらいフランス語の物の名前が分からなかった。「Pied de moutonを持ってこい」と言われ、奇跡的に指示が聞き取れた僕は、仕込み場ではりきって羊の足を本気で探した。「Pied de mouton」、直訳すれば「羊の足」。だが「羊の足」はどこにもない。当たり前だ。これは「羊の足」ではない。今ならわかる。「Pied de mouton」はシロカノシタというキノコだ。相手の言っていることも理解できず、しかも営業中などはみなの早口が聴き取れず、本当に全く使えないやつだった。そして、そんな頼んだものが分からないような奴には、いつしか誰も仕事を頼まなくなり、ほとんどいてもいなくてもよい存在になっていった。

そしていつしか、分からないことはそのままにして、なるべく話しかけられないように、頼まれないように、仕事に対しての積極性を失っていった。分からない時はすぐに何が分からないかを聞き、分かるまで食いつくべきなのだが、その当時の僕はもうすでに自信を失くしており、もうこの場から逃げたいという思いになっていた。その状態で職場にいるのが本当に辛かった。何かしたくても、何もできない。焦る気持ちばかりで、本当に空回りしていたと思う。

自分は一体何がしたかったのか。あれほど厨房で働きたいと思っていたのに。うまくいかない理由は全て僕にあった。誰のせいでもない。努力を怠った。分からないことを放置し続けた。それだけだ。そして妻に昔言われた「なりたい自分になってください。そのための努力をしてください。」という言葉を思い返し、もう一度自分で自分を奮い立たせて、そこから、本当に少しづつだが職場でもメモ取るようにした。物の名前をフランス語で覚え、話していて分からない時は分からないと正直に言い、どんなに相手が面倒くさそうな顔をしても聞き返すことを始めた。その時ぐらいからだったと思うが、少しづつだが状況が改善していったように感じていた。

環境が人を育てるとよく言うが、その環境が辛くしんどい場合、そこに身を留めつづけることは、容易ではない。フランスと日本での調理場での大きな違いは、仕事は見て覚えろという日本に対して、フランスはどんどん教えてくれるとうところだ。僕が仕事を覚えれば、そのぶんビストロのような小さな店では仕事が分担できるし、僕のオーナーシェフなどは自分の仕事の量が減るという考えだ。だからやる気のある人にはどんどん仕事をくれるし、覚えさせて、任せてくれる。このことが僕のやる気に火をつけた。先輩であるとか後輩であるとか、外国人であるとか、そういうことは全く関係なく、できる人から順に重要な仕事が任される。失敗することや恥をかくことを恐れていた以前の僕はどこかに行ってしまったのか、積極的に仕事を覚えて行き、それとともに少しづつ仕事の信頼をオーナーシェフから得ていった。

そんな時、僕に転機が訪れる。学生の滞在身分から給与所得者の滞在身分に変更にすることでフランスでずっと働いていけることを知ったのだ。給与所得者は学生のように労働時間の制限はなく、フルタイムで仕事ができる。僕にもその手続きを進める条件が整い、変更できる可能性があると知った。しかしその身分変更には雇用主の協力が必要だ。その旨をオーナーシェフに話し、給与所得者の身分に変更することを打診して承諾を得て、学生から給与所得者に外国人としてフランスに滞在するための身分を変更した。こうして僕はフルタイムの料理人として働けることになった。

フランスの飲食業は僕も含めた外国人で成り立っていると言っても過言ではない。様々な人種の人が働いていて、厨房ではフランス語の他にも色々な言語が飛び交う。フランスの厨房にはフランスの縮図が垣間見れると思う。時にそれは、衝突を産み、口論になる。人それぞれ、働くモチベーションや目的が違っていて、本当に一筋縄ではいかない。国に残した家族に送金するためになんでもいいからいい給料で働きたいという人もいれば、給料は安くてもいいからパリで経験を積みたいという日本人もいれば、オーナーシェフのようにおいしい料理をお客様に提供するだけでなく、利益をあげることを考えなければならない人もいる。

そういう意味では日本の厨房のように、調理学校を出た人達がほとんどであるほうが統率が取りやすくて効率がよいだろう。でも自分とは全く違う色々な価値観に触れることが、僕にとってはとても興味深く面白く、大変なことなど忘れてしまう。話せばわかる。それはフランスに来る前の僕の考えだった。でもフランスに住み、違う国、違う言語、違う価値観、違う環境で育った人と働くようになり、肝心な事は分かり合えないとしても、違う考えや価値観を認め、その中でお互いの接点を探って働く環境が担保されている事が重要だと言う事に気付いた。

価値観の多様性。これをお互いに理解できずとも尊重し共存できる環境が、好ましいと僕は考える。2008年に初めてフランスの厨房で働くようになってから、幾度となくサービスをこなした。できることもたくさん増え、視野も広がり、オーナーシェフの信頼を少しづつ積み上げられたように思う。そして2020年、ようやくシェフとしてお店を任せてもらえることになった。今ではメニュー作りから、食材や備品の注文など、全て僕が行っている。

今は現在の自分の仕事が当たり前のように思えるが、初めてパリのビストロの厨房に立った12年前の僕には現在の自分など想像もできなかった。それでも諦めずに続けて、失敗も成功も積み上げてきたから、少しずつ見える景色が変わって、ここまで来られた。なりたい自分を少しでも思い描けたら、可能性はゼロではなくなる。

今年で47歳になる僕が、あとこれから何年料理人として働けるかは分からない。今のようにバリバリ働けるのは頑張ってもきっとあと10年ぐらいだろう。その期間がなるべく長く続けばと、日々、体幹トレーニングをしたり、犬の散歩も兼ねて意識的に歩くようにして、体調を整えている。夢とか大げさな話ではなく、なりたい自分になるために努力することは誰にでも必要だ。もしもなりたい自分になれないとしても、その努力は僕にとって全て生きていく糧になり、また他のことに活きていくような気がしている。これからも、新たに思う、なりたい自分になるために努力をしていく。それだけだ。

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