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「水道橋博士のメルマ旬報」第四回

2021年6月19日。フランスではコロナの影響で7ヵ月半以上ずっと営業ができなかった飲食業が再開された。その反動はやはり大きく、テラス席のみの営業だったが、連日お客が押し寄せ、満員御礼。久しぶりに働いたということもあり、僕はすぐに疲労困憊となった。まあ、それは置いておいて、兎にも角にも仕事が再開できたのは良かったし、嬉しかった。

現在、自分がシェフを任されているお店はビストロと言われる店だ。ビストロでは気軽にリーズナブルな金額で食事が楽しめる。ドレスコードもなく、子供も気兼ねなく連れてこれるようなお店だ。ミシュランの星をもらうような店はもちろん素晴らしいが、僕はこの気軽な雰囲気のビストロが気に入っている。

僕がフランス料理に携わるようになったきっかけは、30歳の時にワーキングホリデーでフランスのトゥールーズに一年間滞在してい時に遡る。そこで、和風サロン・ド・テでアルバイトをし、簡単な軽食を作ったことが、料理の楽しさに気づかせてくれたきっかけとなった。

ワーキングホリデーの期間を終え、日本に帰って来た僕は無職。本格的にフランス料理店で働き始めたいと思っていたが、もうすでに年齢は31歳。そして料理学校も行っていない。僕はど素人もいいところだ。そんな人を一体誰が雇ってくれるのだろか?だが、ワーキングホリデーで一年間、ずっと絵を描きつづけ、念願の個展開催や、自分の絵を売ることができた経験もあってか、その気で行動すればなんとか形になって行くのではないかと、ずいぶん楽観的に考えていた。思い立ったら動いてみるという行動力は、今思い返してみても、今までの人生の中で最も高まっていた時期だったのではないだろうか。

フランス料理店で料理人として働くなら、本来は料理学校に行き、技術を身につけてから働き先を見つけるべきだろう。でも31歳で無職の僕には時間もお金もなかった。いまさら料理学校に行こうという選択肢ははなく、給料は本当に安くても、レストランで働きながら料理を学ばせてもらおうと思っていた。

まずは就職活動。働かせてもらえる店を探さなければならない。事前に電話をして面接をお願いしても、どうせ断られるだろうと思った僕は、以前フランス語を勉強していた時に通っていた神楽坂に、たくさんフランス料理店があったのを思い出し、アポなしで直談判すべく、履歴書を持って何軒かのレストランを訪ねた。今考えたら、本当に迷惑な話だ。

まず最初に決まって言われるのは「31歳かあ、今からだと厳しいよ。給料は本当に少ししか払えないし、多分続かないと思う。」ということだった。普通、料理業界は高校を卒業してすぐに調理学校に行き、卒業してすぐに働き始める人が大半を占めている。なんの経験もなく、30歳を超えてから料理を始める人は珍しいのだろう。

そして、ある店では「働いたら、あなたより年下が先輩になり、その先輩に敬語を使い、こき使われる。それにきっと耐えられないと思う。」と言われた。これに関しては、僕は年齢など最初からどうでもよく、自分より経験があって仕事ができるのであれば、歳下だろうがなんだろうが、当たり前のように敬語で話すべきだし、指示に従うべきだと思っていた。でもそんなくだらない考えの人の店では働きたくないと思い、その店を後にした。

もうきっとどこも僕のことなど雇ってはくれないのだろうなあと思いながらも、諦めずに
また何軒か回った後に「うちでは今人は募集していないが、埼玉県浦和市にある「ビストロやま」というお店が人を募集しているから、話を通してあげる。」と言われ、すぐに電話してもらうことにした。そしてその翌日に面接の機会を与えてもらった。

その当時、埼玉にある妻の実家に住まわせてもらっていたので、同じ路線にある浦和はむしろ僕には好都合だった。願ったり叶ったりだ。面接はオーナーシェフである山田正三さんと山田さんの奥様と僕の三人で行われた。ワーキングホリデーでフランスに行っていた時に、語学を学びながら絵をずっと描いていたこと、フランス料理に興味を持ったこと、調理学校には行っておらず、何も料理はできないこと、そのくせ年齢は30歳を超えている、そんなむちゃくちゃなことを話したと思う。でもやる気はあるので雇って欲しいと話をした。

少し間が空いた後に、山田さんもその昔フランスで料理の修行をしていた時期の話を語り始めた。そして僕がフランス帰りだということを気に入ってくれたのか、「給料は本当に安いけど、それでも良いなら働く?」と言われ、食い気味ですぐに「はい。是非、よろしくお願いします!!」と僕は返事をした。そして、その翌日から働き始めることになった。

全く料理の経験がない僕が、一番最初に何が辛かったというと、単純に一日中立っているということだった。朝の8時に出勤して、営業が終わり、お店を出るのはだいたい23時。15時の拘束時間中に食事の時間と休憩を除いても、ゆうに12時間は立ち続けていることになる。今でこそ慣れてなんとも感じないが、全く経験がない僕にとっては、出勤初日に足がパンパンになり、その日の夜は疲れ果てて倒れこむように、すぐに眠りについた記憶がある。長時間の立ち仕事に慣れるまで、二週間はかかったと思う。立ち続けて同じ姿勢で作業することは、やればわかるが、本当に大変なことなんだと身を持って感じた。

料理の経験がない僕は、サラダの下処理や、簡単な切り物を任され、営業中は皿洗いをする日々が続いた。何もできない人は、当たり前だが雑用から始め、先輩の料理人がする作業を横目で見ながら少しずつ覚えていく。

僕は厨房で料理をさせてもらいたくてレストランに雇ってもらった。しかし、人には向き不向きがある。同じレストランの仕事でもホールでのサービスに向いている人と、厨房で料理をするのが向いてる人。数ヶ月働いて、僕がオーナーから言われたのは、僕にはホールの方が向いているということだった。厨房に入って料理人として色々な料理を作る夢は絶たれた。先輩に聞いて、新品の包丁もいいものを購入した矢先だったので、ショックは大きかった。

でも、気持ちを切り替え、与えられた仕事を頑張ろうと思い直した。僕にはもう残された道もない。午前中はランチの営業まで、今まで通り調理の雑用をやらせてもらい、少しづつ包丁の使い方など習得していった。ホールでの仕事は、厨房と同じように、わからないことだらけ。せっかく何ヶ月か働き慣れてきたと思ったら、またゼロからスタートといった感じだった。

サービスの仕事は、まず、メニューを隈なく説明できるように、全てを理解してわかりやすく話せるようにならなければいけない。野菜の名前、肉、魚の名前など、使われている材料、調味料、調理法の工程もきちんと把握する必要がある。そしてワインの銘柄とぶどうの品種。覚えなければいけないことは山積みだった。

料理を運んでお客様と接する。レストランの最前線はホールだ。サービスがお店の雰囲気を左右するといっても過言ではない。お客様にとっては、僕がまだ仕事を始めたばかりだという裏事情は全く関係はなく、ホールに立っている以上、先輩と同じように見られるので、本当に毎日神経をすり減らして働いた思い出が蘇る。そして、ある晩の営業中にお客の白いワイシャツに赤ワインをこぼしてしまうという大失態も犯してしまった。

今となれば、ホールで働いたことはとても良い経験になったと思える。お店の全体の流れを把握できるようになったと思うし、それは後に厨房に入った時にとても活かされた。ホールを経験していない料理人には、ホールで働く人の気持ちがわからない人もいる。独りよがりになりがちだと思う。そういう意味でも、ホールでの仕事は料理人は経験しておいた方が良いと僕は考える。

ホールでの仕事の楽しさは、お客と一番近い距離にあることだと思う。直接お客と接して話して、料理を食べながら誰かと楽しそう会話する声や表情がダイレクトに伝わってくる。そして僕も、できることならば、その楽しい時間を壊さないように、心地よく過ごせるように尽力したいと思うようになった。このあたりから、経験は浅くとも、プロとしての意識が芽生えてきたような気がした。

そんなふうに毎日精一杯働いていた矢先の2008年、妻が仕事でパリへ赴任することになった。妻の単身赴任という選択肢もなくはなかったが、僕は迷わず妻と一緒に再びフランスに行くことを決めた。そして三年間半働いたお店を辞めることになる。僕のフランス料理店での経験はたったの三年半。あまりにも短い。パリではフランス料理のレストランで仕事をしてみたいと思っていたので、せめて日本の調理師免許を取得しておこうと思った。そして試験を受け、無事合格して、渡仏前に調理師免許は取得することができた。

パリでの生活が始まると、今度こそ厨房に入り料理人として働きたいと思う気持ちがますます強くなった。最初はフランス語を学ぶ留学生として大学のフランス語講座に通いながら、何か仕事ができればと思い、パリの日本人向けの情報誌の求人広告を毎回チェックしていた。そしてある日、パリ15区にあるビストロが、料理人を募集しているという情報を見つけた。しかも問い合わせ先には日本人女性の名前が書いてあった。僕は迷わずすぐに電話をかけた。その電話番号は、求人広告をだしていた店で料理人として働く日本人女性のものだった。

その女性は、すぐに僕の話をフランス人オーナーシェフにまわしてくれ、よほど人手不足だったのか、オーナーシェフはすぐに面接をしてくれると言ってくれた。僕は履歴書を持って、約束した土曜日の夕方にそのレストランに向かった。何を隠そう、もしもフランス語が全然わからず面接が上手くいかなかったらどうしようと不安を感じていた僕はその面接には妻にも同席してもらおうと思っていた。しかし妻は、「面接は一人で行くべきだ」と言う。でもやはりどうしても不安で、僕は妻と一緒に家を出発し、二人でレストランに向かった。

お店に向かう途中も、「あなたは子供ではないのだから、下手なフランス語でも自分で一生懸命話した方がいい」と妻は歩きながら僕を説得する。妻の言う通り、確かに、奥さんに付き添われて面接にくるような人は一人の大人として頼りなさすぎる。僕は一人で面接を受ける決心をした。ということで、一緒に家を出た妻には、面接が終わるまで近くのカフェで待っていてもらうことにした。

フランスでは約束した時間より先に行くことは、礼儀としてあまり好まれない。だから早めにレストラン付近についていたにも関わらず、僕は約束の時間が来るまで周辺をうろうろして緊張を紛らわせていた。そして約束の時間を少し過ぎたぐらいに、意を決してレストランの扉を叩いた。

そこには、最初に窓口になって話をしてくれた日本人女性とフランス人のオーナーシェフがいた。約束した時間は土曜日の18時だったので、ちょうど夜の営業時間が始まる1時間前。店には慌ただしい空気が流れていた。オーナーシェフの第一印象は、体格がガッチリしていて、自信と覇気に満ち溢れていているパワフルな人。年齢は、その当時43歳ぐらいだったと思う。今の僕より歳下だったということになるが、初めて会った時から、とうていそうは思えないような、貫禄のある男だった。

緊張していてあまり細かいことは覚えていないが、シェフが僕の履歴書を受け取って、彼がそれに目を通し終わると同時に「めちゃくちゃやる気があります。ここで働かせてください!」みたいなことを、僕はひどい発音のフランス語で言ったと思う。その直後、なんとシェフは「そう、じゃあ今夜、試しに働いてみる?」と言ってくれた。そして僕は迷わず「はい!」と二つ返事。そしてとりあえず妻を待たせていたカフェに向かって、事の次第を妻に説明した。彼女は「ほら、やっぱり一人で面接に行ってよかったでしょう?じゃあ、がんばって。私、帰るわ。」と言い、すぐに家に帰ってしまった。

妻と別れた僕は、店に戻った。面接に呼ばれてからここまでの時間はたったの15分程度。シェフから手渡されたコックコートに袖を通し、僕はパリのビストロの厨房に初めて立った。

僕の料理人としての第一歩は、こんなあっけない始まりだった。しかし、ここから本当に辛い経験をすることになる。

しかし今日はここまで。その辛い経験の続きは、またこの次に書こうと思っている。

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