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「半自伝的エッセイ(25)」チェスと将棋どちらが難しいか

ある時、チェス喫茶「R」にいた何人かでチェスと将棋のどちらが難しいかという話になった。男性陣はほとんどが将棋もできたし、なかにはアマチュア高段者の人もいた。

結論は、チェスだった。理論的に考えれば、枡目と駒の数が多く、取った駒が使える将棋のほうがはるかに難しいはずであり、実際にそうに違いないのだが、実戦感覚としてはほとんどの人がチェスのほうが難しいと感じていた。

おそらく時代背景もあったのだと思う。当時は今のように将棋の序盤の研究がそれほどは精緻にはなっておらず、まあ矢倉で行くか、だったらこっちは慣れ親しんだ振り飛車で、みたいな感覚で多くの人は指していたはずである。その駒組みの過程で恐ろしい悪手を指してしまう可能性は限りなく低かった。

ところが、チェスの場合、3手目、4手目で形勢を損ねてしまう可能性があり、あるいは3手目、4手目で相手が悪手を指すかもしれず、一旦対局が始まってしまうと息を抜く暇がない。もっといえば、2手目で失敗したと思わされることもある。それがチェス喫茶「R」に集う多くの人の感覚だった。私もそうだった。

チェス喫茶「R」に集う人は、最近チェスを始めたごく初心者を除いて、おそらくほとんどが1800から2000ぐらいのスコアの棋力があったはずである。だから、人にもよりけりではあるものの、ほぼ誰も例外なく初手から20手あるいは30手ほどまでは、慣れた戦型であれば自分なりに定跡化していた。そんな相手と対局するのだから、どんどん事前研究を深化させないといけない。そのことも将棋よりチェスのほうを難しく感じる理由のひとつだったかもしれない。

忘れられないのが、里見君のことである。彼は私と同様に大学生だった。チェスに夢中になっている点においても共通するものがあったから、波長が合う同士だったとお互いに感じていたと思う。チェス喫茶「R」で顔を合わせれば必ず盤を挟み、お互いの研究をぶつけ合った。里見君は私との前回の対局を材料にして定跡を崩したり深化させたり多彩なプランをいつも用意してきたし、私も私でそれなりに研究していたから、里見君との対局は自分の研究が通用するかどうかの試金石となり、里見君の研究に自分が対応できるかどうかも愉しみだった。

そんな里見君の姿を数ヶ月見ないことがあった。それ以前にはそんなことはなかったから、私はマスターに里見君のことを尋ねた。もしかしたら私が来ていない時に来ていたかもしれないからである。マスターは、店内を目だけで見回してから、小声で、「あとで」と囁いた。他のお客さんが帰ってしまってから、マスターは「ちょっと」と言って、カウンターの席を指差した。
私がスツールに座ると、マスターは冷蔵庫からハイネケンの瓶を二本取り出して蓋を開けてからそのうちの一本をカウンターの上で滑らせるようにして私の前に差し出した。
「実はね」とマスターは話を始めた。

マスターの話を要約すると次のようなことだった。

しばらく前に里見君の親御さん(お母さん)が店にやってきた。まだ開店前のことだった。里見君のお母さんは最初から喧嘩腰だった。
「なんでチェスなんて教えてくれたんですか!」と里見君のお母さんはいきなりすごい剣幕でマスターを問い詰めた。マスターも他の誰も里見君にチェスを教えたことはなく、チェス喫茶「R」に初めて来た時から里見君は相当の腕前だったから、お母さんの訴えは事実と異なっていたが、マスターはお母さんの話の続きを聞くことにした。
里見君のお母さんによれば、里見君は学校にも行かなくなり、アルバイトも止め、ある時は食事さえすることなく、チェス盤に向かっているのだという。そして、お母さんはカウンターに叩きつけるように大学ノート数冊を置いていった。

マスターはその大学ノートを私の前に置いた。その一冊のページをめくると真っ黒であった。目を凝らして見ると、そこには小さな几帳面な文字でチェスの符号がびっしりと書かれていた。短手数のものはいわゆるハメ手のようなものだが、長手数のものは50手を超えていた。d-2と書かれた符号の羅列は序盤のある局面での岐路からの手筋で、d-3と書かれた手筋はそれとは異なる岐路からの手筋だった。その後の岐路はまたd-3-1などと、さらにその先の想定される展開が網羅されていた。それが、主な戦型ごとにまとめられていた。私は眩暈がした。

当時はパソコンを使っての研究など存在しなかったから、私もそうだったが、里見君は実際の盤と駒を使ってこれらの手筋を考えていたはずである。私は里見君のようにマメではなかったからノートをつけることなどなく、せいぜい20手かその先あたりまで研究して、そこからあとは野となれ山となれという方針で指していた。たしかに里見君みたいなことをやっていたら通常の日常生活は送れないだろうと想像された。お母さんが心配するのも無理はなかった。

それからしばらくして、里見君がチェス喫茶「R」にやってきて、自分のノートを回収していったと聞いた。

私は一人暮らしをしていたから誰にも邪魔をされることなくチェスにのめり込んでいたが、やっていることはほとんど里見君と同じだった。朝、といっても九時だったり十時だったりするのだが、敷きっぱなしの布団から起き上がり、冷蔵庫から牛乳パック取り出し、その辺りに置きっぱなしの袋から食パンを一枚引き出すと、牛乳とパンを交互に口に入れながら、畳の上に置いたままのチェス盤に向かい、駒を動かしていた。あんなに読んでいた小説も読まなくなった。映画を観に行くことも絶えてなくなった。チェスを知ってから私はなにをしていたのか? ただチェスだけをやっていた。この暮らしを続けていていいのか? 私は自問した。

今からでもちゃんと大学に行って卒業するべきではないのか? 大学は行かなくていいとしてもチェスよりももっと生産性が高いことがあるのではないのか? いずれの問いも至極真っ当なものだったが、私は少し考えてから却下した。もっとチェスが強くなりたかった。そこで思い出されたのが、チェスのためだけにアメリカまで行ってしまった永瀬君のことだった

その時、三月だった。私はその年度の学費を支払らうことなく貯めており、来月になると半期分の奨学金が振り込まれる。すると、それなりの現金が手元にあることになる。それだけあれば、しばらくアメリカに行けるはずだった。

この回、続く


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