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『黄色い家』:キャリコン的ブックレビュー

お疲れ様です、キャリアコンサルタントのタケシマです

小説や映画はある環境に置かれた人の気持ちや行動、人生の課題、転機、運命などについて考えるネタの宝庫です。映画好き、小説好きキャリコンとして時々レビューいたします。今回は

川上未映子『黄色い家』

時代は90年代後半。主人公の伊藤花。母親は水商売をしており花のことはネグレクト気味、貧困、間男、学校でのいじめ、、、悲惨な高校時代の花を救ったのは母の友達の黄美子だった。花は黄美子が開業したスナック「れもん」を手伝う中で居場所を見つけてゆく。花に似た境遇の蘭、桃子、やがて4人は家を借りて共同生活が始まる。みんなで壁を黄色く塗った、ここでの生活は4人にとって初めての安住の場所であったが、金がなくなり犯罪に手を染める、、、

私の子供の頃は日本は総中流社会と言われていたんですが、バブル崩壊後90年代くらいからは貧富の差が開き、格差社会とか就職氷河期など社会全体が軋んでいきました。世界も経済学者ピケティが言うように富の集中は加速し、富めるものはさらに富み、貧しいものはさらに貧しくと言う負のループの中に我々はいます。
子供の頃の平凡な家庭のイメージ、サザエさんとか、クレヨンしんちゃんの家のような結婚し子供を持ち、わが家がある家庭は90年代以降では”勝ち組”の家族像になりつつあります。

花が生きたのはまさにこんな時代。彼女の悩みは思春期の女の子のそれとはかけ離れており飢え死にするかしないか、、みたいなギリギリのところにいます。親も学校も頼れない、そこに現れた黄美子は、カッコ良い大人であり、食べ物を補給してくれる人であったのでついて行ったのだった。

この物語の中で、花は成長をします。読者は花の成長に寄り添って見守るような構造になっています。成長ぶりは他の登場人物との関係性でわかりますが、同世代の蘭、桃子と最初はキャッキャしてたのだけど次第に花がリーダーになります。家を確保し、黄色く塗ってアジールを作る。裏社会の人物とのリレーションを形成する、偽キャッシュカードの出し子ビジネスで稼ぐ、そんな中で蘭、桃子はメンタリティがあまり変わらない。あれだけ頼りにしていた黄美子もぼーっとしている存在に見える。花の成長と他3人の停滞がはっきりしたコントラストで描かれます。

本書は主題的にはノワール小説ですが、主人公の花は意外なほど”まとも”です。破滅型でもないし、暴力的でもないし、孤高の存在でもない。犯罪に手を染めるのですが常にリスクを考えて慎重に行動する、花は生きる目標を掲げ、住居を確保し、資金を貯め、生活ルールを定め、規律のある生活を指向します。
この”まとも”さは個人的に新鮮でした。仮に黄美子が主人公であればフォークナーの『アブサロム・アブサロム』のよう分裂した世界のような記述になるでしょう、欄が主人公であればデュラスのような性的に冒険するような小説、桃子であれば村上龍のようなテロ小説になりそうです。
単純にエンタメ的面白さだけで言えば黄美子や蘭、桃子が主人公の方が面白いかもしれませんが川上未映子は”まとも”で学級委員のような花を主人公にした。ここはとても興味深い点です。

たまたま、フォークナー、デュラス、村上龍を引き合いに出しましたが彼らはある種の文学の型を代表しているように思います。それらは普通ではなく、異常で、反権力、アウトサイダー、反体制、自由、コミュニケーション不全、、、などがテーマです。つまり文学たるもの異常な人を描いてなんぼ、、みたいな観念があったように思います。

まあ個人的にもフォークナー、デュラス、村上龍は読んできたので好きですが90年代以降の日本を考えた時に「文学が異常な人を描くことに意味はあるのか?」
と言う疑問が川上未映子の中にあったのではないかと。と言うのも世界の側が壊れていている時に、文学が異常な人を描くことは現実離れした「高級な課題」のようにも見えるからです。花は、家もあり親もいる現代日本で飢え死にしそうになりました、このような壊れた世界ではむしろ学級委員みたいなディシプリンを持った主人公を描くことが世界に対峙するのに必要なのではないか、、、

スナックの名前を花は考えました、最初の案は「檸檬」ですが結局「れもん」になりました。そのくだりを読んでいて梶井基次郎の『檸檬』を思い出しました。
『檸檬』の主人公は檸檬を爆弾に見立て書店を爆破する妄想をします、心の中の
テロ行為です。『黄色い家』ではれもんは爆弾ではなく職場であり、みんなが集まる安定した場所でありコミュニティです。かつて文学が持っていた破壊的衝動は現代ではもしかしたらリアリティを持ち得ず、むしろ構築的衝動こそ表現すべきものなのかもしれません。

花と黄美子の再会はとても感動しました、ただ二人の気持ちはすれ違ったままです。黄美子と言うキャラは独特でつかみどころがないのですが、かつて溌剌としていたが今や老いてゆく日本社会に見えなくもない、一方で花の”まとも”さはディシプリンの構築とも言えます。

花は黄色く塗ったペンキを狂ったようにカッターで削ります、普通に考えると色を変えたければ塗り直せばいいのにわざわざ黄色いペンキを削るのです。それはあたかもディシプリンの構築はこの国では古層の上に重ねて塗るのではダメであり、一度全部剥いで新しく塗るしかないと主張しているかのようです。

現代では大きな物語が失効したと言われますが、では物語の回復は可能なのか、というかそもそも回復を目指すべきなのか、、、『黄色い家』は大きな物語の回復を目指すのではなく新たディシプリンを打ち立てること、それを花に託した小説ではないでしょうか。

ではでは












































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