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夜の闇に逃げる(ショートストーリー)


私の婚約者は3ヶ月ほど前に、私を裏切った。
車の中にあった、私のものではないピアス。洗面所の片隅にそっと置かれたヘアピン。作為的な痕跡を次々とみつけてしまった。次第に見て見ぬふりができなくなり、婚約者を問いつめた。

「ごめん」
婚約者はあっさりと浮気を認めた。
「どうして?」
「出来心なんだ」
と婚約者は言った。
仕事で大きなプロジェクトを任されてストレスを感じていた。その忙しさで君との結婚の準備がままならなくなって、喧嘩が増えたとき、つい魔がさしたんだ…。

ちょっとしたボタンの掛け違いだと、婚約者は表現した。私には分からなかった。許してくれ、と泣いて謝っていたけれど、どうしても許せなかった。婚約者の裏切りは私の心をえぐった。

結婚を白紙に戻そう、と私は言った。婚約者は悲しみにゆがんだ顔をした。けれど私は、それさえも、婚約者の真実の顔なのかどうか、判断がつかなくなっていた。

私は婚約者から逃げた。

心にたまった鬱屈が吹き出し、眠れない夜が続いた。悔しい思いを吐き出したくて、女友達に片っ端から連絡をして会った。彼女たちは私に寄り添って憤り、婚約者を罵った。
気持ちが少しは晴れたけれど、でも、それだけでは私の心の空洞は埋まらなかった。

そんな時、“彼”に出会った。

◆◆◆

それは、日が暮れる直前の夕まぐれだった。

街路樹の緑が夕日に照らされて赤く染まる中、人混みを避けながら歩道をゆく私に、「すみません」と、後ろから声がかかった。
振り向くと、長身で細身、シックなブラウンのセットアップに身を包んだ男性がいた。年齢はおそらく私と同じくらい。明るい色に染めた髪の毛。その下に隠れた瞳が、少し暗くて沈んで見えた。

「急いでますか?」
「いいえ…」
と答えてから気づく。私は、どこに行こうとしてたんだっけ?

「さっき、あなたとすれ違ったんですが…どうしても気になって、戻って声をかけました」
彼はそう言うと、笑顔を見せる。端正な顔がくしゃっと崩れ、ひとなつっこい表情をのぞかせた。
「気になった?」
私が聞くと、
「うん。…運命を感じて」
と、彼が答える。
「…運命?」
「そう。2人がここで出会ったのは、運命だって思いませんか?」
いかにもナンパ男が言いそうなことを彼は言った。でも私は、その言葉に違和感を覚えた。なんだか仕方なく言っているような気がしたのだ。
「さぁ…」
なんと答えればいいか分からずに曖昧に濁した。
「じゃあ、これから食事でもしながら確かめません? この出会いが運命かどうか」
そう言って、すっと彼が出した手を思わず握ってしまった。
違和感しかなかったのに。
彼は邪気のない笑顔で微笑み、キュッと私の手を握って歩き出した。

◆◆◆

本当は、最初からこうなることを望んでいたのかもしれない。

私の心に入り込んだ、甘い誘惑。心地よく優しい言葉。ひとつひとつは薄っぺらいのに、何故か彼が口にすると真実味を帯びて私の心に響いた。不思議な人だ。

食後に入ったバーで、人目を盗んで舌と舌を絡ませた。その時に感じた彼の体温を、もっと味わいたくなった。

バーを出たあと2人でタクシーに乗った。1人暮らしをしている私のマンションに彼を迎え入れ、当然のように体を合わせた。

彼とのセックスは淋しかった。
いくら声をあげても助けがこない、暗い底なし沼にズブズブと落ちていくように感じる。泣きたい。自分の両足を彼の背中にのせる。彼は、私のまぶたに優しくキスする。

「助けて。もう駄目」

思わず声に出すと、私の上に乗った彼は、自分の首に回った私の腕をほどき、私の指の間に自分の指を入れて、ギュッと握る。

「ずっと一緒にいるよ」

彼は言う。ずっと一緒になんていないくせに。初めて会ったのに、どうしてこんなに切なそうな顔をして私を見るんだろう。
優しくて、ずるくて、無責任な彼。
あり得ない永遠の愛すらも、私が請えば誓ってくれそうな気がした。
今の私には、こんな風に表の皮1枚でつながった関係が心地いいと思った。なのに。

「好き」
思わず言ってしまい、自分の言葉にしばし呆然とする。

「好き」ってなに? 顔が綺麗でどことなく影がある、でもセックスのことしか考えてなさそうなこの男を好きってどういうこと?

「俺も好きだよ」
私の思考を遮るように、彼がそう答える。彼の口から発せられると、なぜかきちんとした愛の告白に聞こえた。

やがて、彼の動きが一段と大きく速くなる。私の耳元を舐める音が荒々しい。私は彼の息づかいに自分のそれを合わせる。彼の高揚を自分のものにしたいから。複雑なことを考えないように。
そして。

◆◆◆

水を抱くように曖昧であっけなかった。
私の隣で寝息を立てる彼は、眉間に皺を寄せて、少し苦しそうな顔をしている。

セックスはやっぱりただのセックスにすぎない。
私は彼の髪の毛をなぜながらそう思った。きっと私は、この行為で愛情をはかるタイプではないんだ。

婚約者も同じ気持ちだったろうか。私とのセックスと何が違うんだっけ?って思いながら、浮気相手と睦みあっていたのだろうか。「好き」なんて、甘い言葉を吐きながら。

◆◆◆

彼は、私の家を頻繁に訪れるようになった。私が会社から家に戻る頃に現れて、晩ご飯をともにし、体を合わせ、眠る。彼との生活が日常になっていく。

あるとき、何の気なしにスマホをいじる彼の手元を眺める。ちらりと見えたLINEには驚くほどたくさんの“友だち”がいて、そのほとんどが女性のようだった。しかもひっきりなしにメッセージが入る。彼はそれに対して、まめに返信を返していた。
水商売かなにかをしていて、たくさんの“彼女”がいるのだろうか。そういえば、彼の職業すら聞いていないことに気づいた。
聞いてみると、

「うん、まあそれに近いかも」
と言って、彼は笑った。

「みんな淋しいときに連絡してくるから、ほっておけないんだよね」
ポツリと言う彼の顔は、なんだかひどく消耗しているように見えた。

私の家に来る日以外は、他の人と会っているのだろうな。私みたいに、苦しい気持ちを抱えた人を優しく抱いているのか。

でも、彼を責める気にはならなかった。私と彼はそこまでの関係じゃないから、というのもある。けれど何より、たくさんの人に愛されるのが彼の業かもしれない、と思って、いたたまれなくなったのだ。

◆◆◆

その日の夜、体を合わせたとき、彼は私の右鎖骨の下をキリリと吸った。
その痛みと、下半身のぼんやりとした気持ちよさが渾然一体となって、私は大きな声をあげる。
行為のあと、私はベッドから抜け出して洗面所に行く。吸われた痕を鏡で確かめると、鎖骨の下に、蝶々のような形の跡がしるされていた。

「どうしたの?」
彼が洗面所に来て、声をかける。

「うん…これ」
私は彼に赤い蝶々を示した。彼は後ろから私を抱きしめ、鎖骨の下の蝶々をそっと舐める。彼の舌は、びっくりするほど熱を持っていて熱かった。

「痛かった?」
「…ううん。気持ち良かった」

そう答えて、自分の頭をかしげて彼の頭にのせる。彼はニヤリと笑って言った。

「それ、おまじないだから」
「え?…なんのおまじない?」

尋ねても、彼は面白そうにクスクスと笑うだけで、なにも答えなかった。

◆◆◆

人の体にマーキングをするなんて、彼は意外と嫉妬深いのかもしれない。
そういえば、婚約者は嫉妬深い人だった。もし婚約者がこの赤い蝶々を見つけたら怒り狂うんだろうな、と想像して、もうあの人としばらく会ってないことに気づく。私はいつまで引きずっているのだろう、乾いた笑い声がでた。
なぜかこのキスマークを、わざと婚約者に見せて、嫉妬する顔を見たくなった。

◆◆◆

彼は、自分の人生をどうでもいいと思っているかのように、高い声を出し、投げやりに笑う。特に、お酒を飲むと。
それを聞くたびに私は思った。
彼と私は、同じ種類の孤独を抱えているのかもしれない。なにかに絶望して空虚になった心を抱えて、1人でさまよっている気がする。

そして、自分と似た考えを持つ彼とは、長く一緒にいられない予感がした。
なにより彼とのセックスは、お互いの傷を舐めあっているようで、淋しくてたまらなかった。

◆◆◆

ある日の休日、私たちは新宿まで出かけ、珍しい種類のワインが豊富にそろう店で食事をし、ワインをたくさん飲んだ。
家に帰る途中で、私の古くからの女友達にばったり会った。
「私の彼なの」
隣に佇む彼を、そう紹介した。私の婚約者と面識のあった彼女は、驚いたように口をパクパクさせて私を見る。
その顔がおかしくて、私はずっと笑いを堪えていた。

家に帰った後も、なんだか飲み足りなくてシャンパンをあけた。
したたかに酔った後で睦みあう。彼は、いつもよりぞんざいな手つきで私をその気にさせる。私も大きな声をあげてそれに応える。彼が高い声で笑う。
気持ちよさが頂点に達する時、いつも死にたくなる。殺してほしいと思う。彼も同じように思っているだろうか。

行為の後、重い体を起こして2人でベッドボードにもたれかかり、再びシャンパンをあける。
酔いと眠気にまかせて、気になっていたことを聞いた。

「ねぇ、もしも好きな人に裏切られたら、あなたならどうする?」
「どうするって?」
「例えば報復するとか、何もしないとか」

彼はしばらく考えた後に言った。
「俺は好きな人の裏切りを問いただす前に逃げるかもな」
「何も言わずに逃げるの?」
私は、彼のグラスにシャンパンを注ぎながらたずねる。

「うん。好きな人の心変わりや、荒れ果てた様子を見たくないんだ。だから、その前に自分が姿をくらませる」
私は彼の瞳をじっと見た。暗くて深い湖のような、悲しい色をしている。
そうやって相手を責めることなく、傷ついた心を自分1人で抱え、この人はどこに逃げるのだろうか。

「逃げるのが悪いって言う人もいるけど」
そう言って、彼はグラスの縁でまだパチパチとはぜているシャンパンを飲み干す。
「そんなことない。逃げるのも勇気と気力がないとできないし、逃げた先で、傷ついた心を回復させるのも大切」
「…そうね」

「だからもう、許してあげなよ、自分も、相手も」
彼は私の頭をなでながら、突然そう言った。
「え?」
「なにがあったか知らないけど、君のこと、夜の闇の中を逃げているような人だと思ってた」
「気づいてたの?」
思わず大きな声で言うと、彼は一瞬びっくりしたように目を見開く。
「うん。だからほっておけなかった」
彼の手が私の頬にそっと触れる。いつの間にか流れていた私の涙を拭うために。

「もう答えは、みつかっているんでしょ」
彼は相変わらず優しい声で言った。
私は頷き、無意識に右の鎖骨の下に触れる。彼が付けた赤い蝶々は、まだ消えずに残っている。

「私は元の場所に戻る。もう、あなたとは会わない」
私は彼と向き合い両手で彼の頬を包んでから、聞く。
「あなたも今、逃げてるの?」
「そうだね。俺も、ずっと逃げてる。逃げ場所もわからないまま」
彼はそう言うと、投げやりな声を出して笑う。そんな声で笑わないで。

「じゃあ、あなたの逃げ場所は私が決める。あなたは月に行きなさい」
でたらめに言ってみた。ふと、月にいる彼に見守られたいと思ったのだ。
「月? なに、俺、かぐや姫なの?」
彼は愉快そうな顔をして私を見て、今度はクスクスと笑った。

かぐや姫は悩みや苦しみのない月の都からやってきて、人々にたくさんの愛を与え、また月に帰っていく物語だ。確かに彼と似てるかもしれない。

「じゃあ俺は、夜の暗闇を逃げて月まで行くよ」
彼は、ゆっくりと目を閉じて言った。
「元気でね」

◆◆◆

夜の闇に飲み込まれないように逃げ切ってね。あなたはこの世界にいると、みんなの悲しみを引き取ってしまうから、月に行くのはいい選択だ。

彼のことを、移り気で複数の女と関係を持つだらしがない人だと決めつけるのは簡単だ。私も、婚約者がいるのに浮気をしているどうしようもない人間だ。さらに私の婚約者は、私との結婚前に他の女と触れあわないと耐えられないほど弱い人だった。
それぞれ理性では埋められない淋しさがあり、かりそめの誰かの肌を求めないと生きるのがつらくなっていた。

それらを浮気だ不貞だと責めて断罪するのはたやすい。私だってそうだ。婚約者に詰め寄った。さも自分が常識人であるかのようなふりをして。

みんな、心の内に弱さやずるさを飼っているものなのだ。それを色々なやり方で吐き出して生きているだけなのだ。本当は、今いる場所から逃げ出したいだけなのだ。

ただそれだけなのだ。

◆◆◆

結婚式は、満月の夜に開かれるナイトウェディングにした。夜空に浮かぶ月を眺めながらの宴はロマンチックそのものだった。パーティーの最中、「素敵ね」と言う声を何度も聞いた。

それは、パーティーが終わり、会場の出口で参加者にドラジェを配り終えた時だった。1人の女友達が私に近寄ってきた。
私はドラジェを彼女に渡し、
「本日はありがとうございました」
と言う。

おめでとうございます。凄く綺麗。お幸せにね。彼女はお決まりの台詞を述べた後、声をひそめて言った。
「ねぇ、あたしさ、あの時すごく心配したんだよ」
「え?」
「ほら、あの時。新宿駅の近くで偶然会ったじゃない」

彼と一緒に歩いていた時だ。こんなところで言わなくてもいいのに・・・。

「あんたってば、1人でいたのに、私の彼なの、ってさ。誰もいない空間に話しかけるんだもん。あの時はあたし、あんたがおかしくなったのかと思ったのよ」
「え…?」
私はあの時彼と一緒にいたのに。
その後にも彼女はなにかを言っていたが、全く頭に入ってこなかった。

違うよ。
彼はいたんだ。私たち、淋しさを共有したんだから。

「おい、どうした」
突然駆け出した私を、婚約者ー今日から私の夫となったーが追いかけて、腕をつかむ。
その手を振り払って、私は
「控え室に忘れ物を取りにいくだけ」
と言って、また走った。

控え室に駆け込んで、荷物置き場になっているテーブルの上から自分のバッグをつかみとった。
床にしゃがみこみ、バッグからスマホを取り出してLINEを開き、彼の名前を探す。どれだけスクロールしても見つからない。動揺で指がブルブルと震える。落ち着いて。落ち着いて、私。彼がアカウントを削除したかもしれないじゃない。

はっと気づくと、私の回りを赤い蝶々が舞っていた。私の鎖骨の下にあったのと同じ色をしている。
蝶々はしばし近くを飛び回った後、細くあいた窓から外にヒラリと出ていった。私はただ、呆然とその行方を目で追う。

蝶々は夜の闇に吸い込まれ、音もなく、すっと消えた。

月に向かって、飛んでいったんだな。
私はぼんやりとそう思った。




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