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硝子

久しぶりに会った彼が半身 硝子になっていた きけば毎日すこしずつ 液状にした硝子を 皮下注射しているという もう二年になるかなあ この調子だと年内にはおわるよ 笑って …

花里
3か月前
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煙突

かの町に住むと決めたものは 重ねた親指を首にあてがい 喉を潰す それから 話すことなく 目を交わすことなく それこそが幸福であると知る静けさの内で 一生を終える この…

花里
4か月前
7

石壁

際限なくつづく石壁の 片隅に走る亀裂の最奥に うずくまる影がある 薄暗い無音の底には 冷ややかな石の硬さと 隙間に覗くわずかな景色 どうやってきたのか とうにわからな…

花里
4か月前
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3 路地裏の闇市

 ・・・・・・複雑に交差する迷路のような道を歩いていれば、蝟集する家々の屋根の向こうから夜空へ細く立ち昇る灰色の煙が幾筋かみえることがある。出元を探して歩きつづければ…

花里
5か月前
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2 煙草工場

 ・・・・・・町のはずれに大きな煙草工場があって、住人たちが眠りについた夜明けの通りは、帰路へ着く工員たちの群れで飽和する。灰色の作業服に帽子という出で立ちの労働者た…

花里
5か月前
6

忌明け

 明くれば夜の様をかたり 暮るれば明くるを慕ひて 此月日頃千歳をすぐるよりも久し    『雨月物語』    東の空がほんのりと明けそめている。  山稜の影を覆…

花里
5か月前
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橋の女

 人通りの絶えた真夜中の橋を、女が歩いている。  歩道に沿って点々と降る街灯に、ヒールサンダルの白い光沢があらわれては消える。両腕を下げたまま足だけを淡々と前に…

花里
5か月前
6

半透明の浴室

 人への期待を欠片ほどももてなくなったとき、おまえは最後に半透明の浴室をおとずれるだろう。  浴室というには広すぎるし、湯の出る設備さえないその立方体の白い部屋…

花里
5か月前
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子供

 もう何年も、枕の下から子供が笑っている。  男のものとも女のものともしれない、いかにも楽しげにはしゃぐ嬌声が響いて、それを意識の端で耳にしながら、毎夜眠りに落…

花里
5か月前
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地下喫茶店

 きりなく膨張しつづける乾いた街の、かえりみられない路地裏の一角、くたびれた労働者たちが足音をひそめて通うその地下喫茶店にはメニューがない。メニューがないから何…

花里
5か月前
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聖堂

 聖堂で毎夜祈る老人がいる。数世紀前に打ち棄てられたままだという石造りの聖堂にいつからか住みついたその老人は、濁った両眼で宙を眺めるばかりで言葉をもたず、子供ら…

花里
5か月前
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1 ある町の素描

   ・・・・・・夕陽の沈んだ空から色が失せていき、街路に落ちた墨色の影が濃くなるころ、おまえはその町をおとなうができる。  町は宵闇とともに姿をあらわし、曙光ととも…

花里
5か月前
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引用 柄谷行人『定本 柄谷行人文学論集』

ヘーゲルは、欲望とは他人の欲望だといっています。つまり、欲望とは他人の承認を得たいという欲望である、ということですね。ここで、欲求と欲望を区別します。たとえば、…

花里
6か月前
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引用 福嶋亮大『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』

十七世紀から十八世紀に起点をもつヨーロッパの近代小説は「現実感覚」に立脚しながら、文学上のリアリズムを育ててきた。近代小説の登場人物はもっぱら五官(とりわけ視覚…

花里
6か月前
5

引用 唐木順三『無常』

「捨てる」といふことをあれほど徹底させたこの「捨聖」も、三十一文字、また日本語の音律だけは捨てえなかつた。稱名という六字七音だけは捨てえずに、「一大聖敎の所詮は…

花里
6か月前
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引用 宮内勝典『善悪の彼岸へ』

 もちろんマインド・コントロールは解かねばならない。だがテレビの識者たちが正義感に溢れて言うように、単純に社会復帰すればよいというものではない。我々の社会はそれ…

花里
6か月前
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硝子

久しぶりに会った彼が半身 硝子になっていた きけば毎日すこしずつ 液状にした硝子を 皮下注射しているという もう二年になるかなあ この調子だと年内にはおわるよ 笑って カップを握った 指が 砕けて散らばった わたしはじっとこらえて 一片ひそかに包み 家へ持ち帰った この冷たい欠片を呑めば ひとときに硝子体になると知っている よかったら 冬のよく曇った日 屈折率1.8の優しい背を抱き 透明の恍惚に溶けたかたまりを 砂になるまで くりかえし 高い所から落として下さい

煙突

かの町に住むと決めたものは 重ねた親指を首にあてがい 喉を潰す それから 話すことなく 目を交わすことなく それこそが幸福であると知る静けさの内で 一生を終える この無音の町に 長く暮らした男が ただ一度だけ 煙突を登り 頂上で灯りをかかげたことがある しばらくの後 眼下の暗闇に いくつか小さな火が点るのを認めたとき 男は両手で顔を覆い 音を立てずに泣いたという

石壁

際限なくつづく石壁の 片隅に走る亀裂の最奥に うずくまる影がある 薄暗い無音の底には 冷ややかな石の硬さと 隙間に覗くわずかな景色 どうやってきたのか とうにわからなくなった道の先を 日がな一日みつめている 誰かあらわれるのを待っているのか あらわれたとして それがなんなのか 元のかたちを保てているかもさだかでない腕を くりかえし撫でる 夜の長さに耐えきれなくなると 喉ふるわせてうたう 近くに誰もいないことを そのものは知らない 遠い世界の ごく限られたもののこころに 同じ

3 路地裏の闇市

 ・・・・・・複雑に交差する迷路のような道を歩いていれば、蝟集する家々の屋根の向こうから夜空へ細く立ち昇る灰色の煙が幾筋かみえることがある。出元を探して歩きつづければ、やがて使われなくなった旧市街通りの路地裏や、取り壊された屋敷の跡地でひっそりと開かれている闇市に行き当たるだろう。たいていは木組みの屋台に小さな豆電球を吊り下げただけの移動式店舗が並ぶ市場には、必需品の煙草はいうまでもなく、食品や衣類や嗜好品、とにかくいろいろなものが売られている。犬や蛙の丸焼き、稀少な鰐の剥製

2 煙草工場

 ・・・・・・町のはずれに大きな煙草工場があって、住人たちが眠りについた夜明けの通りは、帰路へ着く工員たちの群れで飽和する。灰色の作業服に帽子という出で立ちの労働者たちは皆うつむいて黙りこみ、疲れに浮腫んだからだをひきずって、眠りに耽るものたちのあいだを行き過ぎる。彼らの通ったあとには薬品とゴムの焦げたようなにおいが充満して、朝陽が昇るまで靄のように漂っている。もう何年も、何十年も、ともすると幾世代に渡って無言の工員たちは夜が明けるたび通りを埋め尽くしていたが、数年前に突如と

忌明け

 明くれば夜の様をかたり 暮るれば明くるを慕ひて 此月日頃千歳をすぐるよりも久し    『雨月物語』    東の空がほんのりと明けそめている。  山稜の影を覆う夜気に朝靄が立ち込める。細い枝を繁らせる木々の葉が仄白い露を滴らせたまま、陽が差すまでのいっとき、音もなく静まっている。稜線の上で明らむ空が、最後の夜闇を押し込めたように濃くなる境がある、その境を、窓に額を押しつけるようにしてほのぼのと眺める男の顔がある。  古びたアパートの一室の、部屋のほとんどを占めるベッ

橋の女

 人通りの絶えた真夜中の橋を、女が歩いている。  歩道に沿って点々と降る街灯に、ヒールサンダルの白い光沢があらわれては消える。両腕を下げたまま足だけを淡々と前に出す細身のその女は切羽詰まるというふうではなく、むしろほんのりと安らいで、眠れずに寝床から起き出して夜風にあたりにきたようなくつろぎさえある。やがて緩いアーチを描く橋の中心までくると、女は胸ほどの高さの手すりに軽く指を乗せ、長い間うつむいたままでいる。暗闇の底に流れているはずの川面からほのかに淀んだ水のにおいが立ちのぼ

半透明の浴室

 人への期待を欠片ほどももてなくなったとき、おまえは最後に半透明の浴室をおとずれるだろう。  浴室というには広すぎるし、湯の出る設備さえないその立方体の白い部屋は、じっさいには浴室ではないのかもしれない。しかしこのさい名前はどうでもいい、なかに浴槽がひとつ静かに浮かんでいるのでそう呼んでいるだけだ。まるみを帯びた陶器の浴槽はちょうど人ひとりが膝をかかえてうずくまるのに適した大きさで、誘惑に屈してその内に身を入れたものは、そここそが自分の生涯必要としていた場所だったと知るだろ

子供

 もう何年も、枕の下から子供が笑っている。  男のものとも女のものともしれない、いかにも楽しげにはしゃぐ嬌声が響いて、それを意識の端で耳にしながら、毎夜眠りに落ちる。いったい実在するのか夢の底から湧いて出るのか、たいてい目が覚めたときには忘れているが、かすかに声の余韻の残る日があっても刻々の忙しさに流されてすぐに忘れている。そうしてまた夜が来て、目を閉じて、暗闇のなかで聴き慣れた声に耳を澄ませる。  子供がほしいとおもったことはない。長く付き合った恋人と数年前に別れてからは、

地下喫茶店

 きりなく膨張しつづける乾いた街の、かえりみられない路地裏の一角、くたびれた労働者たちが足音をひそめて通うその地下喫茶店にはメニューがない。メニューがないから何も頼めないし、店員も客も存在しえない。ひとびとは壁に手をついて冗談のように狭い階段を降りると、がらんどうの薄暗い部屋の壁にもたれてうずくまり、うつむいたまま、あるいは眼前をうごめくいくつもの影を茫然と眺めたまま長い間黙っている。そうして、疲労にむくんだからだをひきずりながら、またあきらめたように地上へ帰っていく。  た

聖堂

 聖堂で毎夜祈る老人がいる。数世紀前に打ち棄てられたままだという石造りの聖堂にいつからか住みついたその老人は、濁った両眼で宙を眺めるばかりで言葉をもたず、子供らに石を投げられたり冬の耐えがたい寒風に曝されたりしたときにだけ、貧相な声をあげて泣く。哀れにおもったものがときおり投げて寄こすほかには大した食物もないので、まとった襤褸の破れ目からは浮いた肋骨が覗き、それを黄ばんだ両腕でひしと抱いたまま、聖堂のかたすみにちいさくまるまって大半の時を送っている。割れたステンドグラスの隙間

1 ある町の素描

   ・・・・・・夕陽の沈んだ空から色が失せていき、街路に落ちた墨色の影が濃くなるころ、おまえはその町をおとなうができる。  町は宵闇とともに姿をあらわし、曙光とともに消えていく。  町は刻々と際限なく広がるひとつの完全な球体であり、路傍の乾いた犬の糞である。  町は、時刻さえ見誤らなければ、望むものは誰でも足を踏み入れることができる。たいていのものにとってほんとうになにかを望むことが、きわめてむずかしいというだけで。   住人は夕方に目を覚ますと、まず煙草を呑む。この町で

引用 柄谷行人『定本 柄谷行人文学論集』

ヘーゲルは、欲望とは他人の欲望だといっています。つまり、欲望とは他人の承認を得たいという欲望である、ということですね。ここで、欲求と欲望を区別します。たとえば、腹がへって何か食べたいというのは欲求であり、いいレストランや上等のものを食べたいというのは、すでに他人の欲望になっています。性欲も生理的に欲求としてあるでしょう。しかし、美人にしか性欲をおぼえないという場合、それは欲望ですね。そもそも「美人」の基準などは客観的にあるのではなく、文化や民族によって違うし、歴史的にも違いま

引用 福嶋亮大『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』

十七世紀から十八世紀に起点をもつヨーロッパの近代小説は「現実感覚」に立脚しながら、文学上のリアリズムを育ててきた。近代小説の登場人物はもっぱら五官(とりわけ視覚)から得た観念にもとづいて行動し、感情や思想を言い表す。彼らは外部(神)の力の意のままに動く人形ではなく、独立した心と行動様式を備えたスタンドアローンの行為者なのである。  (略)  それに対して、二〇世紀の「可能性感覚」の文学は、いまだ心に入力されていない未知の感覚を操作しようとする——あるいはフッサールふうの言い方

引用 唐木順三『無常』

「捨てる」といふことをあれほど徹底させたこの「捨聖」も、三十一文字、また日本語の音律だけは捨てえなかつた。稱名という六字七音だけは捨てえずに、「一大聖敎の所詮はただ名號なり」といつた。ここにはなにかがある。捨聖が捨てはてたところに、またそれだけは捨てえなかつたところに何かがある。存在そのもの、天地山川がリズムをかなでているところへの超出といへば突然に聞こえようが、全存在がひとつの情緖的形姿をとつて現はれるといふところが根底にある。ここが詩(ポエジイ)の誕生するところ、物皆がそ

引用 宮内勝典『善悪の彼岸へ』

 もちろんマインド・コントロールは解かねばならない。だがテレビの識者たちが正義感に溢れて言うように、単純に社会復帰すればよいというものではない。我々の社会はそれほど立派なものだろうか。  この社会のありように失望して出家していった若者たちに、適当に遊んで、うまい物を食べて、なによりも金と出世のことを第一に考える。そういう社会に戻れということなのか。子供が帰ってくるのを待っている家族は別として、この社会には受け皿がない。それが悲劇の発端だった。リハビリや社会復帰といった正義を振