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毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期4/幼稚園編】

私は毒親から酷く沢山の虐待を受けてきた。

暴力・言葉の暴力・経済DV・束縛・支配・過干渉・監視・ストーカー等

それは幼少期から既に始まっていた。

だからこそ、その毒親による虐待は「当たり前」であると洗脳されていて、大学進学の為に上京し自由を知った時、「毒親の異常性」に気づいた私は毒親から逃げる事を決心した。

逃げて逃げて…その度に毒親に捕まりまた支配されて、心が少しずつ壊されていくのを感じながら、それでも逃げるのを諦めなかった。

最終的には縁あって海外移住をし、毒親からほとんど離れることに成功した「高木レンガ」の毒親から逃げた過去の物語である……。

◆◆◆  ◆◆◆

私は弟が生まれた時に、女の子は要らない子として扱われネグレクトされた結果、両耳の聴力を失い難聴になった。

物心付いた時は聾学校に毎日通う日々を過ごしており、

そこでは幼稚園とは違う、日本なのに今ではあり得ない程スパルタで過激な教育が施され、暴力が常にあった。

幼稚園年齢の子供であれ一つの失敗は許されず、それを罪のように扱い聾学校の教師は暴力をしていた。

しかし唯一決して暴力をしない優しいおばあちゃん先生がいた。

時には厳しいことはあったが、温かく接してくれて私の心の避難場所のような存在であった。

彼女だけは今でも私の温かい記憶として心の中に残っているのだ。

そんな良い所もあったが、聾学校で過ごした記憶は悪い記憶として残っているため、実は成人式の時に同窓会の誘いがあったが断ったほどだ。


そんなある時、突然地獄は終わりを告げる。

小学校に入学する半年前ほどの時期。

突然私は聾学校を卒業し、弟と同じ普通の幼稚園に毎日通う事となった。


所がそこは流石毒親、私がこれから聾学校を辞めて普通の保育園に行くことの説明は一切なかった。

なので突然聾学校でお別れ会が開かれ、私は素直に従っていたが何故?と混乱していた。

そして翌月曜日だろうか。

初めて弟と共に母と揃って歩いて幼稚園まで通った。

聾学校ではない、普通の幼稚園は虹色のようにキラキラしていて、そこでは沢山の子供がワイワイと叫びながら自由に遊びまわっていた。

先生たちも明るく、温かくて、暴力するような人にあるピリピリした雰囲気が無かった。

聾学校は私も、私の同級生も皆大人に怯え静かに過ごしていたのだから正反対だ。

幼稚園の雰囲気に馴染むのに時間は要らなかった。

折り紙も、ぬりえも、砂場遊びも、積み木やブロック遊びも、お散歩も……

子供にとって当たり前の遊びが全て斬新で楽しくて、まるで天国のようだった。


そして何よりも先生に殴られない。

これは私にとってとても大きい安心要素の一つだった。

大嫌いな給食も、幼稚園では殴られなかった。

まぁ、少食で食べるのが遅かったので注意はよくされたけども(笑

そしておやつも出ていたのでビックリ。

だから次第に「ご飯を食べる」事への恐怖心は薄れていった。

お遊戯もセリフをめちゃくちゃ沢山覚えさせられるわけではない。

皆で楽しくやろう。という雰囲気で進められたので楽しかった。


しかし人間関係での問題は大いにあった。

突然聾学校から幼稚園に来たし、もう年長の頃だったので幼稚園では既に仲良しグループが出来ていて輪に入るのはとても難しかった。

親も聾学校でも人間関係は教えてくれなかった。

そんな中でいきなり人の輪の中に入れられた私は何をしたら良いのか分からずいつも一人で遊んでいた。

しかしクラスで席が近かった、とある女の子は私に積極的に接してくれたので、その子といつも一緒にいた。

初めての友達ができて嬉しかった。

その後、私より後に入園した子が何人か入ってきた。

その子も私と同じように既に形成された友達の輪の中に入れなかったので、自然に私はその子達と仲良くなることができた。

そんな子達の中に名前は日本人名だが、黒人の子供がいた。

その子はとてもシャイだけど、いつもニコニコしていたので、私にとって接しやすかったのでいつも一緒に遊んでいた。

肌は確かに黒人だったけど、子供からの目線では全く気にならなかった。

一緒に遊んでいて楽しい。

シャイだけど優しい。

そんな本質が好きで仲良くなったのだから、肌が黒い。違うだなんて考えたことは全く無かった。

でも意外な事に、実はこの幼稚園に白人の子供が2人いたのだけど、逆に私は嫌いだった。

いつも暴力的で何か物を振り回すし、大きい声で威嚇していたから、とても怖くて近づきたくなかった。

態度も冷たくて…(大人になった今思えば、あれはただ大人びてるクールな態度だったのだけどw)

だから私は白人が怖かった。むしろ黒人は怖くなかった。

そんな奇妙な先入観が植え付けられていた。

だけど幼少期にいろんな外国人と接する機会があったのは、後に大人になった時に人種を気にせず人づきあいができる、良いきっかけだったと思う。


幼稚園では、聾学校に居た時と違い素直に感情を表に出せるのが楽しくて、遊びまわれるのが楽しくて、最終的には友達が沢山出来た。

卒園まで短い間だったが、毎日が楽しく刺激的で濃い日々を過ごせた。

奇跡的にもこの時親からの暴力が少なくて、私も心が安定していた時期だったと思う。

そして私は小学校へ入学するのだが、

皆さんお気づきだろうか?

毒親の話なのに母親から暴力されていた事ばかり書かれていて「父親」の存在が空気であることに。

次回!今まで書かれていなかった父親。真相やいかに!?

◆◆◆  ◆◆◆


今では差別的な意図をなくすために、全国的に「聴覚特別支援学校」と言われているようです。ですが私が行っていた当時は「聾学校」と呼ばれていたので、このまま記載させていただきます。そこに差別の意図はありませんことをご理解頂ければ幸いです。

※※※ここに記載された内容は、私が毒親から逃げた過去を小説化して記載したノンフィクションです。ただし身バレ防止の為に登場人物の名前や特徴・場所等にはフェイクが加えられています。※※※


毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期編1】

毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期編2】

毒親から逃げる為に海外移住しました【幼少期3/聾学校編】


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