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感動がアイデンティティを作る

アイデンティティ


自分の意見が確立できず、多くの情報に右往左往したり
それで疲れたり、なんだか憂鬱な気持ちになる人は多い。
皆が「自分はこう考える。だからこうである。」と断言できる人は多くはないと思う。なぜ自信を持って断言できないんだろうか。
その理由の一つに「具体的な価値観」がないことが原因のひとつにもあるのではないかと思う。そう、アイデンティティってやつである。
アイデンティティとはその人らしさ、本質だ。
環境や経験でなんとなく形成された価値観を言葉にしたり、整理したりすることは少ないと思う。それこそ自分の価値観をぶつけ合う友人がいたら別だが、昨今の日本で自分の価値観をぶつけ、議論する人たちはどれくらいいるのだろうか。別に無知でも、語彙力が無くてもなんでもよくて、単純に本音で疑問をぶつけあう人々は素晴らしいなと思う。

人の成り立ちは、ひとつひとつの積み重ねだ。絶望や感動の積み重ねで形成されていく。価値観なんて変わっていくし、変わっていいものだ。
1人前なんて言葉があるが、生まれた時が0だとして、1になるまではただの一歩ではない。膨大な小数点以下の数値を歩んで1人前になる。
その小さな一歩のひとつに「感動」があると思う。
感動は精神的飛躍であり、精神的飛躍は自己の発見である。
自己の発見をしたとき、自分の好きなモノ・コトがはっきりする。
なぜ好きなのかを分析し、その積み重ねが自分を構築していく。
映画や音楽、文学、自然などの中に感動するポイントは人それぞれある。
その中に自分らしさを見つけ出すことができるのではないか思う。
いろんな感動を経験し、自分の心で感じたことをベースに価値観を構築していく演繹的論理展開と、本やメディアなどのデータから推測していく帰納的論理展開をあわせて自分を構築し判断してくことが、自分らしいアイデンティティの確立であり、人間らしい在り方なのかなと今は思っている。

サルトルも言っていた


人間は「何をすべきか」を自分で決断して生きていかなければいけない
その決断すべき基準が定まらないまま、いつの間にか大人になり、毎日決断していくことになる。
その基準はアイデンティティがあれば、ある程度の自分の基準に則り判断できる。そのルールは変わったって、間違っていたっていいと思う。
ただ、間違っているからって恐れてその一歩が踏み出せず、ただなんとなく無駄に人生を消費して生きていくよりは、間違っててもいいからリスクを取ってでも何かを選んで生きたほうがいい。そんなようなことをサルトルは言ってた。そのほうが人間らしいと思う。
ビル・ゲイツも「リスクを取らないことがリスクだ」と言っていた。
誰かの真似をしたっていい。むしろそこからでいい。それが始まり。その積み重ねをアウトプットしていくことで自分の血となり肉となる。
それがいつかあなたらしい言葉に変わった時、重みが出る。
それがあなたの一部にまた追加される。