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就活をやめて、35歳で社長になるまで

モラトリアム

昔からなにも続かない人間だ。
周りが就活をしている中、自分もなんとなく、ただなんとなく
やらなければいけないような気がして就活を始めた。
二子玉川駅から電車が地下に入り、ふと窓に映る自分のスーツ姿に違和感を覚え就職という選択肢をやめた。

何者かになりたくて、似たような人たちと一緒に
自然ななりゆきで音楽を始めた。
日本ではマイナーなジャンルだったので海外で活動を始めることにした。
当時、外資系アパレル会社でアルバイトをしていて、VMDという仕事をしていた。「社員になれば?」と誘われたが、断った。
25歳だった。

後悔はなかった。
いつも逆張りで人生が面白くなりそうな選択肢を選んできた。
諦めて無難な道を選んで、「もしあの時、ああしていれば」なんて管を巻きながら酒を飲む人間になりたくなかった。

バンドメンバー全員で海外に移り
ライブやレコーディングをしながら幸運にもそこそこ活動したが
突然の強制帰国で終止符を打たれた。
帰国後も諦めなかった。でも全くご飯が食べられなかった。
バイトが続いた。カートみたいに27歳で死ななかった。
思い描いてた未来は描けなかった。

バイトで出会った人と結婚した。
音楽は成功が全てじゃなくて、続けるものなんだと価値観が変わった。
そして、自分は音楽よりバンドをやることが好きということにも気づいた。
メンバーも結婚し、音楽以外の居場所ができた。
しばらく活動を休止することにした。

31歳 無職、父親になる

夫婦ふたりで生活するにはギリギリなんとかなった。
ある日、妻が子を授かった。
守るものが増えることでカネないと将来が不安になった。
就職をすることにした。
でも生まれなかった。不育症というらしい。
向井秀徳が「お子は授かりもの」と言ってたのを思い出した。
誘ってもらって入社した会社も一年と続かなかった。
無職になった。いつの間にか31歳になっていた。

妻は強かった。何度も病院に通い、小さい命が育つ努力をしていた。
1日2回の皮下注射、複数の服薬と彼女に出来ることを最大限頑張っていた。

初めて就職活動をした。
安易な考えでプログラミングスクールに通い、Rubyを学び就職活動に活かした。そこそこ大きいITコンサル会社と、創業数年のITベンチャーの2つの内定で迷ったが、また逆張りでITベンチャーに就職した。
5度目の妊娠は安定期に入っていた。

新社会人から社長へ

就職先はIT派遣業をしているところで、派遣先は物販をしている会社だった。Rubyなんて一つも使わない。
モノづくりは面白く、仕事に没頭した。
半年ほどで独立し、個人事業でやることにした。
個人事業でやっているといろんなフリーランスの方に会う。
音楽をやっているときから思っているが、もっと創作活動に寛容な社会でもいいと思う。
多くのアーティストは収入が少ない。
どんなアーティストでも価値はあり、評価に対する報酬を受け取るべきである。好きなことが続けられる社会になったらいいなと思う。
だから、創作の在り方を変え、公平に取引するプラットフォームの確立を目指したい。
そんな想いから法人化することにした。
ビジョンができて初めて社長になったような気がした。

何かに夢中になって、それをやり遂げた時の心地よさは
多摩川に落ちる夕日のように壮大な自然を見た時に似た何かだ。
子供の時から何も続かなかった自分だが、気付けばRAYWOODを興して5年が経とうとしている。
毎日最悪だけど、最高なあなたをほんの少しでもサポートする
これからもそんな企業でありたい。