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「ベトナムでバイクに乗るなんて危なくないですか?」
「しかし若い女性が一人でベトナムに来るなんて、すごいですね。バイクも乗るんですもんね。危なくないですか?」
と日本語で日本人に言われた。
久々に聞いた母国人の母国語がその時母国語がひたすら刺さらないというか、とことんズレていて。
ああもうこの人とは「危ない」という語の定義域がここまで違うんだなと思ってしまった。
確かに、多くの日本人が言う通り、ベトナムのバイクは「危ない」。
まさにケツを追っかけるように、過密状態で走るバイクの群れは、信号によって途切れることはない。
(余程の大通りでない限り信号は無いし、あっても割と止まらない)
歩道にも平気で乗り上げてくるし、逆走もする。
はじめ、歩行者として道路を渡るだけで精いっぱいだった私は、バイクに乗るなんて発想しなかった。
(ベトナムでの道の渡り方)。
在越一週間、はじめてバイクの後ろに乗った時は、乗らなきゃいけない状況が発生したからだった。
(待ち合わせの時、わたしがグラブタクシー、向こうがバイクでやって来て、そこから移動することになったから)
その人は、バイクの群れは、イワシの群れと同じなんだと言っていた。そう思うと怖くないだろう?と。
「ウインカー出すとか出さないとかそういうことじゃなくて、『宇宙の片隅で俺は曲がるぜえええ!』っていうオーラを出すと曲がれる」
「そしたら危なくない」
「ビビったら、危ない」
そうだ。
「バイク=危ない」と反射していた在越一週間までの私を悔いたい。それは「赤信号=とまれ」と同じ、記号的な思考停止で、信号まみれの日本の考え方だ。この国にはそぐわない。(この国のバイクは赤信号でも止まらない)
逆に言うと、一週間で日本人をやめられた私を褒めたい。好奇心というものがあって良かった。
日本でも運転しない私はさすがに異国で自分で自分のバイクを乗り回すまでには至らないが、
今では毎日バイクタクシーを利用している。(Grabという、Uberみたいなアプリで50円くらいで乗れる)
バイクに乗るたび、前述の通り、片足が飛ぶ妄想をしている(なぜか、イワシの話をしてきた彼の後ろに乗る時はしない)
片足が飛んで、日本で障害者年金がもらえなくて、自業自得とののしなられながらクラウドファンディングするところまで妄想している。
それでもきっとそれが実現して「そらみたことか。そんな危ないものに乗るから」と言われた日にも、「いや、ベトナムのバイクは危なくない」と言い張っている気がする。
そして、そんな妄想まで毎回律儀にしてる自分はきっと逆説的に「危なくない」のだ、という神話が、私の中にある。
■
単純に事故率の高いものに近づくことを「危ない」というのだろうか。
だとしたら、しかしそもそも、生きてるだけで危ない。
人生において、事故率の高いものに近づくか否かによって、危なさの度合いは多少チューニングできるけど、人生ってそういう仕組みじゃないはずだ。
「宇宙の片隅で自分はここにいるぜえええ」っていう自信があれば、危なくない。
それをおろそかにした日は事故る。自尊心が事故る。
日本では年間3万人が自尊心を事故らせてるそうじゃないか。なんて危ない国だろう。
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