音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 4/19

初回はこちら



ライヴハウスは家から近いので、一度家に帰って着替えてから行くことにした。玄関を開けた途端に蒸れた空気が顔に飛び込んで来て、ああ、この家にはいつもより多く人間がいるな、と分かった。母と、多分兄だ。
「おかえりー、ご飯出来てるよー、お兄ちゃんもいるよー」
 合唱でも始めるのかと言うくらい朗らかな母の声と、炊き立てのごはんの匂いが玄関まで届いた。けれど困った。
「え、今日遅くなるって言ったのに……」
「えー聞いてない」
「メールしたよ」
「あんなメールじゃ分からないって。いっつもライヴだって言ってもご飯食べたり食べなかったりじゃない」
「確かにメールはライヴってしか書いてないけどちゃんと朝言ったのに」
「あーもう、せっかく作ったのにあげませんよ!」
 なんなんだ。どうせ兄が帰って来るって分かった瞬間に意気揚々と料理を作り始めて、私の都合を忘れちゃっただけじゃないか。右足で床をドスンと踏みしめて、怒るのを我慢した。
 リビングに入ると、この家のレギュラーメンバーではないのにまるで土地の神様のように古くからまします様子で食卓に座る兄がいた。しばらく見ないうちにボリュームが増したようで、椅子にぎゅむりとはまって一体化し、ますます祭壇にいる神様っぽい。その前には兄の好物の豚カツ三人分が大皿に盛り付けられて、供え物のようだ。
「揚げたてだから今食べてー」
「うーん」
 喉だけ使って生返事した兄は自分で箸をとろうともせずに座ったままでいる。
 大学に行っている兄は一人暮らし中だが、電車で二時間程度しか離れていないので月に一度くらい気まぐれに帰って来る。すると父はいないが「家族団らん」という強制イベントが発生してしまい逃げると母に「せっかくの家族団らんなのに」と轟々と非難を浴びる。仕方無い。目当てのバンドの出番は最後だから、対バンを見逃すことにしよう。母はタイミング良く作った揚げ物をすぐ食べないと、すごく不機嫌になる。
 兄の前に箸、ご飯、味噌汁を並べると即豚カツをぱくつきだした。
「ちょっと……私達席にもついてないのに」
「いいのよ、揚げ物はフライングしても。あ、フライだけにね!」
 妙に上機嫌の母の駄洒落がむかつくけれど、私も急いでいるのでフライングシステムを採用させて頂く。
「綾乃、ライヴって何観るんだ?」
 私の真正面に座る兄が口頭試問をする教官のような調子で聞いてきた。兄は大学でバンドサークルに入っていて、インディーズにも詳しく何かと知識をひけらかしたりバカにしたりしてくる。
「……戦争花嫁」
「あー、またか。飽きもせずよくそればっか」
「飽きないよ」
「少しは十代の女子らしく、ねむけとかキャットロンリーとか可愛いやつも聴いておいたら?」
「やだ」
「ああ、やだですか。可愛そうに。そりゃもう、年相応のは聴けなくなっちゃったわな。渋くてマイナーで男臭いバンドの良さも分かる私、みたいな自己満足に浸る楽しみ知っちゃったらな」
「は? 別に普通に好きなだけだよ。なんで普通に聴いてるだけでそんなこと言われなきゃいけないわけ?」
「はいはいはい、別にお兄ちゃんの好きなバンド好きっていうのでいいじゃない。可愛いよ。そんなにムキにならなくても高校生らしい背伸びだよ」
「はあ?」
「大学生でそういうのこじらせる方がキツいわ、うちのサークルの女でも……」
 ああ、また始まった。
「また『バンドは女には分からない』説ですか?」
「俺みたいな正統派ロック少年にこそ分かるんだよ戦争花嫁は」
辟易した。兄は要はオーケストラをやってクラシックしか聴いてこなかった私が突如として戦争花嫁にハマったのを認めたくないのだ。中学でロックに出合って高校でギターを買って大学でサークルに入ってバンドを組み始めた典型的なギター少年の兄が辿り着いた憧れの先輩のバンドに私がいきなり喰いついたから、癪に障るのだ。
「分かってるふりしてただのミーハーっていうのが一番ウザいんだよ」
「あんただって結局戦争花嫁の出身サークルに入りたくて必死こいて勉強したミーハーじゃん浪人までしてさ」
「はいはいはいもう喧嘩しない」
 揚げものを揚げ終えた母がやっと席についた。母はスリムだけど、その会話の強引なカットインは電車で半人分しか空いていない席にむりやり入り込んでくるお尻の大きなおばさんを見ているようであさましかった。
「てか、うちのサークルの奴らにライヴハウスで挨拶すんのやめてくれる?」
 兄が箸で私を指しながらなおも話しかけてくる。
「え?」
 そう言えばこの前、ライヴハウスで知らない人にいきなり「水原の妹さん?」と話しかけられたことがあった。怖かった。話してみると兄のサークルの友人のようだった。
「なぜか話しかけられたんだから返事するしかないじゃん。無視しろって言うの?」
「制服で行くなよ。妹が学術大附属だって言っちゃったんだよ。女子高生で戦争花嫁なんて聴く奴いないから目立つんだよ」
「はー、なんでそんなこと指図されなきゃいけないの、言っちゃった自分が悪いんじゃん」
「でも、綾乃ちゃん、本当に制服で行くのはやめてちょうだいね。なんかあったら……」
「……」
 また母の煩わしいカットインだ。母は、ライヴハウスは堕落した若者が出入りする有害な場所だと思い込んでいる。こんな、妹にしかでかい口の聞けない気の小さい兄が入り浸るくらいなんだから、そんな恐ろしいところではないと分かるだろうに。
「服、無いんだよ」
「はー、とか言ってどうせ女子高生アピールして男に声掛けられるの待ちなんだろ」
「は?! 無いし! ていうかこっちはあんたのせいで知らない人に声掛けられてびびったんだよ。妹が頭いい高校って自慢したかったんでしょ自分はバカ大学だからあんたの大学なんかうちから推薦で入れるんだよ」
「もうやめて綾乃。せっかくの家族団らんなのに喧嘩しないで」
「は、今のどう考えてもあっちが悪いじゃん」
 知ってる。兄は勉強で私より劣るのがひどくコンプレックスで、私がそれを知っていて傷をえぐろうとすると母はすかさず庇う。浪人時代、精神が弱ってひきこもり気味になった兄と、それを支えた専業主婦の母が、私が学校にいる昼間の平日にこの家で育てた濃密な時間の存在を、最近よく思い知らされる。今は家を出た兄より私の方が母と一緒にいる時間は長いのに、全然かなわない。なんでこんなろくでもない兄を、母は好きなんだろう。今の兄は憧れの大学に受かり念願のサークルに入ってバンドを組んで、あの時の暗さなどすっかり消えてしまったのだから、今度は受験生の私を「ケア」するべきだと思う。
 私は豚カツの最後の一切れをとってどばっとソースをかけてボトルを自分の右に置いた。
「ソース、そこに置くと取れないじゃない」
 私の左斜め向かいに座る母が言う。
「え、だって減塩ダイエットでソース使わないって言ってたじゃん」
「やっぱり、ソースかけないと美味しくないんだもーん」
「あ、そう」
 私はソースを逆側に置いた。
「そういうの、気配りでしょっ」
 母が人差し指を一本立てて、ワンポイントアドバイスをするお天気お姉さんのように笑顔で言った。
「はっ?!」
 私は最近母が豚カツでもコロッケでも何でもソースを使わないことを知っているから、自分の使いやすい右側に置いていたのに。
「さっきだって、最後の一切れなんだから一応聞いて欲しかったな」
「あ……そう」
「『勉強も大事だけど、気配りも出来ないとね、女の子なんだから!』」
 兄が唇を尖らせ甲高い声で母の口癖を真似てくる。
「こんな無神経な奴に言われたくないし」
「俺男だし」
「でもね綾乃ちゃん、勉強も大事だけど、そういう心の余裕も忘れないで欲しいのよ」
「出かける」
 カチャンとプラスチックと陶器がぶつかりあう安っぽい音が、予想外に派手に鳴った。それは私が乱暴に投げ置いた箸が皿に当たった音だった。
「ちょっと綾乃!」
 母の声を背に浴びたけれど振り返らずに二階の自室に上がった。無数の手が内臓を掴んでもみくちゃにするような、制御できない怒りに支配されていた。まさかあのタイミングであんなこと言うだろうか。受験生に言う台詞だろうか。なぜ、母は受験が終わっても兄をさんざん庇い続け、現役受験生の私にあんなに無神経なんだろうか。私が落ちようがなんだろうがどうでもいいのだろうか。女だから気配りの方が大事? それとも兄より良いところに入られたら困るのだろうか? お金が無い無い言うから国立目指してあげているというのに。

本当は制服のまま家を飛び出してしまいたかったけれど、また母や兄に何か言われたり知らない人に話しかけられたら嫌なので着替える服を考える。あまり時間が無い。でも河原にいたからか汗をかいていたようでセーラー服が背中にべっとり貼りついているのを見てうんざりした。これはシャワーを浴びてから行かないと。戦争花嫁の出番は最後なのだから急いでやれば十分間に合う。
 まだ食事中だろう二人に気付かれぬよう階段を忍び足で下り浴室に向かうと脱衣室に母がいてびっくりした。
「あ」
「あら」
 母は洗面所で私に背を向けて何かを手洗いしていた。多分服にソースでもこぼしたのだろう。狭い脱衣室で母が腰をかがめてお尻を突き出しているから奥へ進めない。どちらにせよここで服を脱がないといけないから母がいるとシャワーを浴びられない。じりじりと母の背中を焦がすように見つめていると
「ここ使う?」
「いや、お風呂」
「えー私これから入るつもりだったのに」
「えー!」
 その時ピピピ! と威勢の良い音が鳴りお風呂の湯張りが完了したことを告げた。
「えーって何よ。豚カツ揚げたら髪ベトベトになっちゃって」
「だっていつもお風呂入るの夜中じゃん」
「二十分くらいしたら出るから」
「二十分ー!」
 この人は私がライヴに行くから急いでいるって分からないのだろうか。譲ってくれてもいいのに。私が母の背後でどうしようか足踏みしていると
「使う?」
「いやだから洗面所じゃないって。風呂だって。あーもう、本当に産んだの?」
 なんで血がつながっているのにこんなに話が通じないんだろう。さっきのソースの話だってそうだ。私は風呂を諦めて二階に戻って支度を始めた。こんな時に限って着たい服が見つからなくてもたもたしていると一階で
「おい!」
という兄の声がした。続いて、鳥類のようにけたたましい様子で何か喚く母の声。ただならぬ気配を感じてリビングに向かうと思わず噴き出してしまった。
 リビングの一番大きい窓が全開になっていて、庭が口をぱっくり開けているようだ。そこには私の荷物とおぼしきCDや服や本が放り出されていた。それらは普段リビングに放置していて母に自分の部屋に片付けろとしょっちゅう言われていたものだった。荒廃したフリーマーケットのようになっている庭を見つめ、ああ、普段CDとか本って土に直に触れることって無いんだなあ、不思議だなあ、と場違いなことを思っていると、わなわな震えている母と目が合った。ゆらゆら揺れる瞳は怒るべきか泣くべきか迷っていて、いましがた自分がしたことも正しいのか不安な様子だった、でもぽかあんとした私の顔に出合うと一気に逆上した。
「本当に産んだの、って、親に言う台詞じゃない! 私、傷ついた! そんなこと言うならもう自分のことは自分でしてもらう! ごはんも作らないし荷物も置かないで! 洗濯も自分でして」
 自分の言葉に自分で勇気づけられたように母はどたばたと床を踏み鳴らしてリビングを出た。
 理解を超える速度で怒鳴られたので幽体離脱したかのようにしばらく放心せざるをえなかった。兄も同様に立ち尽くしていた。私はのろのろと庭に下り荷物を拾い上げ土を払っていった。リビングの中にいる兄が、土を払った荷物を受け取ってくれた。兄は顔に薄い半笑いを貼りつかせていた。鏡のようだと思った。きっと私も今、同じ表情を浮かべているだろう。母のやることは皆目分からないけれど、兄とは確かに血がつながっているのだなと私は実感した。
 母の足音が浴室から鳴り二階へ向かい寝室の扉をバタンと閉める音で終わった。私が浴室へ行ってみると、脱衣カゴの中からきれいに私の洗濯物だけ選別されて外に出してあった。コンパクトなサイズにこんもり積み上がっているそれを見ると、子供の作ったセミのお墓のように可愛らしくて、また笑ってしまった。本当に私の洗濯だけしないつもりなんだろうか。ごはんも作らない気なんだろうか。そんなことをする方が面倒臭いだろうに。しかしこれから自分の手で毎日の洗濯と炊事をすることを考えると帰宅後の自由時間の何割かがカラーからモノクロ表示になったようにくすみ、たちまちに気分が暗くなった。
 小さい頃はよく「お母さんは本当のお母さんじゃないかもしれないんだよ」とか「橋の下で拾ってきたんだよ」とか「粘土をこねて作ったんだよ」とか、さんざんからかわれてきた。それは今思えば私達家族が紛れも無く本物の家族だから言える冗談だったのだけれど、じゃあ、私が同じ手法を使って少しくらい言い返したからって母が怒るのは身勝手な気がした。冗談が通じないのが一番齟齬を感じる。なんだか腹が立ってきた。
 足を踏み鳴らして二階へ上がり、寝室の扉へ立ち向かい、
「出かけます」
と言った。黙って行くと勝手に負けたことにされる気がしたからだった。
「あ、そう」
 意外とあっさり返されたのでこれは良かったと踵を返すと
「お母さんよりライヴの方が大事なのね」
と声が追いかけた。
「お母さんのことなんてどうでもいいのね」
「……」
「お母さんがなんで怒ってるかなんて分からないでしょ」
「……分かりたいとは思ってるよ」
「あなたみたいな子には分からないわよ。あなたみたいな思いやりの無い子には、お母さんの気持ちなんて」
「……」
 分かろうとしていると言ったのに分からないと言われてしまったらおしまいだった。分かってほしいくせにあなたには分からないわよと言うのは相当甘えている、そんな人に歩み寄る思いやりなんて確かに無かった。もう走って駅まで行かないと間に合わなかった。私は自室の荷物をとると、立ち去ったことを伝えるためにわざと大きな音を立てて階段を下りた。
「おい、もう行くのか」
 兄が玄関を追いかけてくる。
「うん」
「まずいんじゃないの。面倒になるの俺なんだけど」
「私は気配りの出来ない思いやりの無い子だからお母さんのこと手に負えないよ。お兄ちゃんなら出来るよ。あとよろしく」
 制服で行くのを咎められると困るので逃げるように玄関を滑り出た。


スキを押すと、短歌を1首詠みます。 サポートされると4首詠みます。