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おにぎりをめちゃめちゃ味わって食べる修行 ~小池龍之介さんの月読寺の座禅体験に行ってきた


前回のnoteで予告した通り、
小池龍之介さんに座禅を学ぶべく、鎌倉の月読寺に行ってきた。

目からうろこが落ちまくりだったのだが、ここに書くのはポイントだけにとどめておく(後述)。

(ちなみに月読寺に行った理由は、こちらのnoteで。ミニマリストの佐々木典士さんに月読寺をすすめられた話)


■おにぎりをめちゃめちゃ味わって食べる修行

食禅という、おにぎりをめちゃめちゃ味わって食べる修行をした。

まず、
おにぎりを一口かじって、
おにぎりを置いて、
手を膝に置いて、
目を閉じる。
そののちに、咀嚼を始める。

咀嚼中は、舌の動きに集中する。

佐々木典士さんのブログを引用すると、

食べ物を噛んでいるとき、舌は歯にはさまれないように精密に、しかも縦横無尽に動きまわり食べ物をかき混ぜてくれている。そのことにどれぐらいの人が気づいているのだろう?

このような発見がある。舌って、無意識に、ものすごい動きをしてくれていたのだ。まさに無意識だった。だから、今までいかにちゃんと食べ物を味わえてなかったに気付く。

慣れて来たら、食感と味にも着目する。
瞬間ごとに、舌が違うごはんつぶを運んできてくれるので、いつもちがう食感と味がやってくる。油断のスキもないすごい変化だ。ただのおにぎりなのに!!

(私は修行っぽさを優先して米と海苔だけのシンプルなおにぎりを自作したのだが、朝から「今日の昼ごはんつまんないな~ ごはんなら炊き立てを食べたいよ~」とテン下げしていた。しかし全然問題なかった)
(でも他の人は、コンビニのおにぎりなり、具が入ったやつなり、もっとおいしそうなものを持ってきてて羨ましかった)
(煩悩ありまくり)
(余談だが、座禅中もごはんのことばかり考えていた)
(ごはんのことを考えると永遠に気を逸らせる。食欲すごすぎ)

でも、今無いごはんのことを考えるのも、過ぎ去ったごはんのことを考えるのも、無意味なんですよね。今あじわってる味を味わうべき。


今を味わっていなかった自分に思いを馳せる。


例えば、すごく食べたかった御馳走を食べに来た時も、なぜか「おいしい!」じゃなくて、「次あれ食べたい」に先走り、メニューを貪り読んでいた。何を食べても、「食べたい!」と思っている時以上の満足を得ない気がしていた。私は食べることが大好きなはずなのに、「実はそんなに好きじゃないのかな? 私は情報を食べているだけなのでは? 食べるより、メニュー見る方が好き?」と疑問を持つことが多かった。(それを文学的に表現したのが下記の超短編小説である)


カレーライスを咀嚼しながらいつも次のスプーンのカレーとごはんのバランスに気を配っていて、味を味わっていなかった。

ましてやスマホ見ながらの「ながら食べ」なんて論外だよね。
私は2017年1月以来、ながら食べを自分に禁じているんだけど、それでも、朝の出掛けに眠気を断つために流し込んだだけのコーヒー、ストレスを消すために歩きながら薬のように飲み込んだチョコレート、「ながら食べ」により虚しく喉を通った食べ物がどれだけあっただろう。


■メモ魔

わたしは計画厨、段取り魔、文字書き魔なので、食禅をやっている間も、
「すごい! これは明日から毎日やろう」とか
「誰誰にも教えてあげよう」とか
「メモとろう。ブログ書こう」とかいちいち思ってしまった。


すかさず小池さんが
「『これはいい。明日もやろう』とか『今の自分、いい感じだ』と思ってしまう時がありますね。その感情に溺れてしまうと味が味わえなくなりますね。でも、『あ、味を味わってなかったな』と気付いて、また戻ればいいんです」
と。

彼はこうも言った。
「ご飯は多分噛めば噛むほど甘くなるんですが、『甘い』と言語化してしまうと、その時々に訪れる違う甘さが全部同じ言葉で表現されて、違いが塗りつぶされてしまうんですね」
と。


そう、うすうす気づいていたけど、私が大好きな「言語化」という作業は、今の味を記録して未来に再生しやすくするための、たとえるなら「保存食作り」であり、現在の味は確実に劣化するんだよね。


■インスタ映え、シェア、リツイート……私たちは保存したがり病

私は、誰かと何かを食べに行った時に、いざ箸をつけようという時に「待って!」と言われて相手が食べ物の写真を撮るのを待つ「インスタ待ち」が本当に嫌いだ(大体暴れて嫌がる)
『食う前から「おいしいアピール」かよ』って辟易する。

みんなでふざけてる時にすぐ動画撮るやつも困惑する。今の良い感じの内輪ノリに他者持ち込むのかよ。またシェアとかリツイートかよ。うるさいんだよ。まずお前が今を味わえよ。動画観返す暇なんて人生に無いだろ。


……って、いつも思ってたけど、私がすぐ文字をメモるのも実は同じ穴のムジナの行為なんですよ。


ただ、言語化は自分のフィルターを使ってハラ落ちした言葉で保存する一手間により私に一定の有意義さをもたらしているから、生きる限り絶対やめないけど。



(このブログも書くかどうか迷った。しかし、忘れるよりは劣化コピーでも保存しておいた方がよいので、最小限の事は書いておこうと思った)


メインディッシュの座禅体験については、今回は書かないでおくね。




本当は、野生の生き物みたいに、味わいたいんだよ。メシも時間も今も。




月読寺の次回座禅体験は11月11日(土)9時~のようです。またいきますー。

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