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page 8『 曖昧な色の落とし物 』ノンフィクション

第4章「 5年振りのお客さま 」


 明くる日の朝を迎えても、私の気分は変わることはなく憂鬱なままだった。

明日からどうしよう...

 目が覚めた瞬間から、どうにもならない不安な
想いが常に私に纏わりついていて、離れてくれないのだ。「ドクン、ドクンッ」という強い胸の鼓動も、その不安な気持ちに更に拍車をかけるかのように私を追い込んでくる。
とりあえず動悸だけでも落ち着かせようと、私はベッドの上でゆっくりと深呼吸を繰り返した。


 夫は明日の夕方には出張先へと向かう予定となっており、もう時間がない。ゆっくりしている暇などないのだ。
 私はベッドから起き上がり、手袋を外し、恐る恐る自分の両手を確認してみる。指の間の皮膚はまだふやけていて、ふにゃふにゃの状態だ。
傷口も開いたまま。赤みもひいてはいない。
全くと言っていい程、手は良くなってはいなかった。
 決して期待していた訳ではない。しかし、一向に改善されていかない荒れ放題の手を毎日見続けていることは、私には恐怖と地獄でしかなかった。そんな手を今日も見てしまったことで、私の憂鬱さもさらに増してきているようだ。
重い腰を上げ、私は仕方なくリビングへ向かう。

 リビングは既に明るく、電気を付けなくてもいい程だ。天気予報によれば、今日は朝から穏やかな晴れ。空は爽やかな淡いブルーのはずなのだが、私というフィルターを通して映る空は決して爽やかという印象ではない。何だか少し不安定で重く寂しく感じられる。これはどう考えても、
今の私の心のせいとしか思えない。
そんな中、夫が起きてきた。

夫「おはよう。
  今日お父さんとお母さん来てくれるって」

私「うそでしょー!?」

夫と息子以外の人が家に入る!?

一瞬にして、私はパニックに陥ってしまった。
状況がもう全然理解できない。

私「無理、絶対無理。どうしたらいいの...」

昨夜の話し合いの途中、納得のいく答えが出ないことに私は疲れ、先に眠ってしまった。

まさか、そのあと...両親に?

誰かが来るのは、絶対に無理だから。
でも手も痛くて家事も無理。
だから出張には行かないでって頼んでいたのに。


 それは、昨日の深夜のことだった。私が眠りについた後のことだ。

 とうとう夫から両親に、私の病気のことが伝えられた。ずっと隠し続けてきた、知られたくなかったあの病気のことが...

後日母から聞いた話によれば、深夜に夫から両親宛てのLINEが入ったという。
そこで伝えられたのは...

「もう何年も前から、私に強迫性障害(不潔恐怖)という病気と同じ症状が見受けられること」

「本人だけでなく、夫も息子も巻き込まれていること」

「嫌だと言い、病院受診が出来ていないこと」

「この春からの急激な症状悪化により、手を洗うことがやめられない状態になっていること」

「この病気は、本人は頭で意味のないことをしているとわかっているし、やめたいと思っているのに、どうしても気になってしまい、その行動がやめられないという特徴があること(不安感を消すために、私の場合は手を洗っていること)」

「手の洗いすぎで、数日前から酷い手荒れになっていること。皮膚科の先生からも『これはすぐには治らないから、水を触ることを控えなさい。
そうしない限りは悪化していくだけだよ』と言われていること」

「夫自身が明後日から1ヶ月弱の出張で、その出張だけはどうしても抜けることのできない理由があること」

「今の状況では、明後日から息子と私の2人だけとなり、生活が出来なくなってしまうこと」


 まさか、私の知らないところで夫が両親とそんなやりとりをしていただなんて...
正直、予想すらしていなかった。

 それからの私は、オロオロするばかりだった。その後の時間をどう過ごしたのかは、ほぼ覚えていない。頭の中はどうしようの嵐。
いつものように逃げたいけれども、もう逃げられない状況となってしまったのである。

 夫から連絡を受けた両親は、本当にその日の10時頃、6時間程かけてマンションまでやって来た。夫の出張中、ずっとうちに泊まれるようにと荷物を持って。

私「................」

目の前に2人が立っている。
それなのに、ここまできてもまだ、両親に手伝いをお願いするしかないという現実を私は受け入れることができていない。

これが夢だったらいいのに

 両親を目の前にしてもなお、私の葛藤は続いている。どうしても自分の力では、この状況を受け入れることができない。

本当に私、どうしちゃったんだろう...

 そんな思いが、頭の中をぐるぐると駆け回っている。玄関で固まっている私を横目に、夫が両親を家に迎え入れてくれた。とりあえずスリッパを履いてもらい、2人の為に用意した部屋まで、案内しているようだ。
私はそれをただ呆然と見つめるだけ...

 その後の時間は、想像以上の試練となり、ほんの数分で私はずっと放心状態だった。しかし当初はそう感じてしまった私も、振り返れば初日等そう大したことはなかったようだ。
 当時の私は、病院に行くこと自体を拒否していた頃。あたりまえにやってくる変化ですら、不安や恐怖と感じてしまうような状況だったから。

 父と母が何か行動をおこす度に、自分との行動の違いに気づき、不安は増していく一方だ。
違いを受け入れることができない。
けれどもそうは言っても、おかしいのは完全に私のほうなのだ。過度に手を洗っている時、部屋中の拭き掃除をしている時。
つまらないこと、無駄なことをしていると、頭の中ではわかっている。その行動は私自身も辛くて、やめたいとも思っている。それなのに...

「私の手、汚いかもしれない」
「部屋全体が、汚れてしまったかもしれない」

 そんな考えがどうしても頭から離れず、いつまで経っても忘れられない。
そのままにしておいたら、汚いかもしれない私の手で触った場所もまた汚くなってしまう。
だから手が汚くないにも関わらず、手を洗う。
部屋全体が汚れた訳でもないのに、部屋中の拭き掃除をする。
そうやって、過剰な行動を繰り返しているのは
私自身なのだ。

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