見出し画像

page 7『 曖昧な色の落とし物 』 ノンフィクション

 以前の私は新たな一歩を踏み出すことも、嫌いなほうではなかったし、それなりに挑戦もしてきた。細かいことを気にしてしまうような性格でもなかった。だから正直、こんなややこしい病気になるとは思いもしていなかった。

 明らかに自分がおかしいことをしているという認識があるから、友達にも本当のことは怖くて
話せない。「本当はやめたいのに、手を洗うことがやめられなくて、こんなに手がぼろぼろに...」
そんなことを口に出すことはできないと、必死に手を隠し、いつも通りの普通の私を装っている。
おかしな自分を見せられる相手は、夫と息子だけ。私は殻に閉じこもっていく。


 このままでは明後日から、小学生の息子と私の
2人っきり。夫は、最低でも3週間は出張から戻って来られそうにない。本来ならば、家事代行の
サービスをお願いするという選択肢もあるのだろうが、自宅に誰かが上がること自体、私の場合は無理なのだ。
 不安そうな表情を浮かべ、私は解決の道を探していた。出張先はちょうど実家方面だ。

いっそのこと、夫と一緒に移動して出張が終わる迄の間、実家に居候させてもらおうか...

 しかしそれは直ぐに、無理だとわかった。子どもには学校があり、私の勝手な都合で1ヶ月近くもお休みをさせる訳にはいかない。両親だって、
そんなことを許すはずもない。

 なかなか答えが出ず、夫と私はその夜遅くまで話し合いを続けていた。優先すべきことは「家事が出来る状態の手ではないこと」と「学校は休ませたくないこと」だ。
この2つを叶えられる方法...答えはもう、1つしかなかった。

夫「君の両親に今の状況を伝えて、手伝いに来てもらうしか方法はないよ」

それを聞いた私は何も答えられず、既に放心状態だ。

 10年前の転勤以来、両親とはずっと離れて暮らしている。だから私に強迫性障害と同じ症状が出ていることを、両親は一切知らない。
長期休みには毎回帰省し、実家で過ごしてはいても、手を洗う時は極力見られないように気をつけ抑えた行動を実家では心がけてきている。
 そもそも5年程前迄は、症状がそこまで重くなかったため自宅に人を呼ぶこともできたが、最近は完全に無理になってしまった。夫と息子以外の人が家に上がることは考えられない。
 業者の人等がどうしても来る場合は、フローリング一面にビニールシートを敷かないと、上がってはもらえない状態だ。当然その後は掃除をする。この感覚はおかしい。頭では本当に申し訳ないと思うのに、どうしても受け入れることができない。

 今の私は自宅の玄関ドアを一歩でも出ると、
そこはもう外と一緒の感覚だ。自宅はマンションで、まだ建物内なのだが...
たとえ出掛けた先がレストランであっても、どんなに綺麗に整えられた室内であっても。
感覚は外なのだ。

 帰省後に実家から自宅マンションに戻れば、自宅のフローリングには1歩も足を着けずにスリッパを履き、お風呂へ直行する。全身をきれいに洗った後、着ていた洋服やスリッパは全て洗濯。
実家で洗濯済みの洋服ですら、再度洗濯をする。
そうやって何年も、過ごしてきてしまった。
夫と息子以外の誰かが家に入ってくるなんて、
もう想像しただけでパニック状態なのだ。
 現に、もう何年も自宅に人を呼んだ覚えはない。その後の掃除に時間がかかりすぎてしまうため、呼ぶことができなくなってしまっている。

 大きな不安が押し寄せてくるのがわかる。私の勝手なルールで、何年も生活してきた家。
病気のことは一切知らない両親に、理解してもらえるわけがない。
父も母も、帰宅後に着替える習慣やお風呂へ直行する習慣はなく、外出時と同じ服でそのままイスやフローリングにも座る。
玄関に靴下でおりているのを見かけたことも
手を洗わずに冷蔵庫を開けているところも、度々目にしている。昔の私なら平気で同じことをしていたはずなのだが...

 父親に至っては、外出から戻ってきても水だけの手洗いなんて日常茶飯事だ。トイレから出てきて、手を洗う前に部屋の電気のスイッチに触れたりする。携帯電話を拭いているのを見たことは1度もない。

 以前父が外で携帯を落とし、そのまま拭かずに家の中で使っていたことに気付いた私は、うっかり口にしてしまったことがある。

私「汚くない...?」

私がそう、口を挟もうものなら

父「今迄生きてきて、そんなことでおなかを壊したことはない」

その一点張りだ。

うーん。やっぱり無理...

 昔から頑固で厳しい性格の父親。私の言うことなんて聞くはずがない。夫と息子を私が巻き込んで生活しているなんて知られたら...もう考えただけでおそろしくなってしまう。

 おそらくこのマンションに来ても、気にせず自分が思うままに行動するだろう。
実家で好きに行動してもらう分には、全く問題はない。その行動に私は気付いてしまうけれども、何も言わずに過ごすことはできる。いや、正確に言えば私は実家に住んではいないから、口を出す権利は今は無いと思っている。
けれども、今の私の家は...違う。
「 両親に助けてもらうことしか方法はない 」
そう言われても、受け入れられるはずがなかった。

「 誰かが家の中に入って来るのは、絶対に無理だから。でも手も痛くて家事も無理なの。だから出張には行かないで 」

その夜、私は泣きそうになりながら必死に夫に
頼みこんでいた。

 今回の出張は、4年前から決定していた特別な
仕事だ。夜遅くまで仕事をしていたのも、休日出勤や1ヶ月程の出張が度々あったのも、全てこの
ため。やり直しは絶対に利かない。ただの出張でないことは私も充分にわかっていたが、そう頼むことしかできなかった。

夫「 正直、君の考えや行動を理解することは難しいんだけど、隣で寄り添うことはできるから」

 ずっと隣でそう言い続けてきてくれていた夫は
心が広く、温厚な性格だ。
私が失敗をして、余計な時間や手間、コストがかかってしまったとしても、文句は未だ言われたことがない。笑って、終わり。
その後はもう、笑い話にしてくれる。

 そんな夫も、ここ半年間の状況はもう限界だったよう...もはや私の発言など聞いてはいなかった。
結局、納得のいく答えなど見つかるはずもなく
疲れてしまった私は、夫より先にベッドへ入った。
だから、その後に続く出来事があったという事実を私はまだ知らない。
何も知らず、私は夢の中にいた。

page 6▶︎
page 8▶︎

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?