「僕はガッキーではない」について思うこと
今さらながら、クリエイター名を「〇〇について思うこと」にしたことを若干後悔している。
クリエイター名のみならず、誰に指示されたわけでもなく全記事のタイトルも「~について思うこと」にしているが、どう考えても普通のタイトルの方が良い、と思うことが多々あるのだ。
今回のタイトルなど、日本語として少々おかしい。
本来なら「僕はガッキーではない」で終わらせたいところだが、自分で作ったルールのせいで、がんじがらめになってしまっている。
そもそも完璧な日本語でタイトル付けをしたところで、僕がガッキーじゃないことは皆さんそろそろ気づき始めている頃じゃないだろうか。
ガッキーの件は後ほど綴るとして、右も左も分からない状態でサービスを利用し始めると、こんなことがしばしば起こる。
どこかしらのタイミングで徐々に規制緩和を図りたいところである。
変えたところで誰にも迷惑は掛からないし、もっと言えば誰も気にしてなどいないのだが。
後悔の理由はもう一つある。
最近ようやく、他のクリエイターさんの記事にコメントをする、ということを覚えた。
僕ごときのコメントに対し返信を頂くことも多々あるのだが、その際に以下のようになる。
少々誇張はしたが、大体こんな感じになる。
〇〇について思うこと さん がたくさん盛り込まれたコメントになるのだ。
返信くださる方には本当に申し訳ないとしか言いようがない。
コピー&ペーストを駆使したとしても、面倒くさいことこの上ないだろう。
僕はいつも詰めが甘い。
「さかなクン」を「さかなクンさん」、「サンプラザ中野くん」を「サンプラザ中野くんさん」と呼ぶ行為よりも、ひとつ上の段階の面倒くささだと思う。
せめて最初に「道明寺」とか「綾小路」などと名乗っておけば、もう少し自然な返信になったことだろう。
余計なフリック操作や打鍵のせいで指が擦り切れて出血してしまったとしても、コメントをくださる全員に治療費と慰謝料をお支払いする程の財力は僕には無い。
しかし、「でも今さら変えるのも面倒くさいしなー」という怠惰な気持ちが僕の足を引っ張る。
というわけで恐らく改名することも無いので、この記事を読んで頂いている方が今後僕のコメントに返信をくださる場合「思うこと」や「○○」「について」などと略して頂いて一向に構わないし、「おい」や「おまえ」でも甘んじて受け入れる覚悟は出来ている。
僕のクリエイター名の入力などという作業に貴重な時間を割いて頂くのは気が引けるのだ。
そのくらいの罪を犯している自覚はあるつもりだ。
前置きが長くなったが、きっと皆様が気になっていることの一つ、『僕が日常的に「地味に嫌だなー。」と思っていること』をここで発表したい。
コンビニやスーパー、飲食店のレジでそれは多く起こる。
バーコード決済をしようとスマホを差し出した際に、画面に表示されたバーコードに『グィーッ』とスキャナを押し付けられることが、しばしばある。
接触させるだけならまだしも、『グィーッ』とやられる。
手首の骨が折れる程に。
偏見かもしれないがこの所作、年配の店員さんに多いような気がしている。
「年配の方だからスマホ決済とか慣れてないんだよ。そういうのいちいち噛みつくの良くないよ。心を広く持った方が幸せになれるよ。優しくなりなよ。地獄に落ちるよ。」
などという声が聞こえてきそうだが、よく考えて頂きたい。
僕が言いたいのは、
「さっきスキャンした豆腐のバーコードに同じことやったか?」
である。
柔らかな豆腐のパッケージに印刷されたバーコードも、画面に表示されたバーコードも、どちらも同じ「バーコード」である。
商品のバーコードスキャンは非接触で優しく、赤い光のみを当てるのに、なぜ僕のスマホのバーコードにはスキャナを押し付けるのか。
まるで親の仇のように。
僕はバーコードが表示されたスマホで貴方の親を殴ったりした覚えはない。
恐らくあと13回くらいスキャナを『グィーッ』と押し付けられたら、僕のスマホの画面はバキバキに割れてしまうことだろう。
レジで言えば、これも気になる。
現金で支払ったあとの釣銭の受け渡し。
現金を使う機会も減ったこと、このご時世でトレーを介すことも多くなり激減はしたが、少し前には頻発していた「釣銭と共に手を握られる(包まれる)」という状況。
仮に、手握り釣銭渡しを仕掛けてきた店員さんがガッキーだった場合、感染症対策における手洗いの重要性を十分理解した僕でさえ、手を一生洗わないという選択をするだろう。
僕の妻と星野源 氏には大変申し訳ないが、迷わずそういう決断をする。
ガッキーに手を握られている写真が流出し文春砲を食らったとしても、僕は逃げも隠れもしない。
しかし今僕の手を握っているのは紛れもなく知らないオッサン。
見たところやはりガッキーではない。
釣銭が落ちないように手を添える、という気遣いを超えて、
「大丈夫、手術は絶対成功する!信じてる!」
と言わんばかりの握りである。
彼はこの後、次の試合でホームランを打つことまで約束しかねない。
しかし目の前の人物はガッキーではない。
もちろんホームランも打たないし、手術前の野球少年の病室を訪れることもないだろう。
僕は手術を控えていないし、野球に興味のないオッサンだ。
いま一度、と顔を上げて確認してみても、やはりガッキーでないことは明らかだ。
知らないオッサン(店員)が知らないオッサン(僕)の手を優しく包み込んでいる、という構図。
色々な愛の形があることは承知しているが、それが誰でどんな形であれ、一方的に愛を押し付けられるのは困る。
僕には妻も娘もいるし、第一、いま僕の手を握っているのはガッキーではない。
やめて頂きたい。
たとえ釣銭付きの矢を心臓目掛けてボウガンで撃たれたとしても、これがガッキーならば受け入れるが、あなたはガッキーではないのだ。
少々取り乱したが、バーコード決済の普及、並びにコロナ対策によるトレー(カルトン)を介した釣り銭受け渡しの推奨は非常にありがたいと思っている。
「地味に嫌だなー。」と思う境界線は人それぞれだ。
明確に決まりを作るなど不可能だろう。
僕も誰かに似たような思いをさせているかもしれない。
僕だってガッキーではないのだから。
人に対しての行動や対応は、平均値くらいを取れれば生きやすい世の中なのかもしれないと思っている。
いま一番嫌だと感じていることは、一年ぶりに履いたブーツのせいで出来た靴擦れの痛みだ。
この世から靴擦れなど無くなればいいのにと思う。
この痛みは、ガッキーに慰めてもらったとしても癒されることはないだろう。
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