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ニジイロの花 解離性同一性障害と生きる アオイ編Vol.5 最終章ー私と私が手をつなぐー

カウンセリングを始めて3ヶ月を過ぎた頃のことだ。面接室でアオイがふと我にかえると、机の画用紙にハートや動物が描かれていたり、粘土の工作が出来上がったりしていた。
アオちゃんが面接室に顔を出すようになったのだ。

中野さんによると、50分の面接時間のうち20分くらいは、アオちゃんの時間になっているようだった。


「アオちゃん、よくお喋りしますよ。賢い子です。工作が大好きで、今日はこれを楽しそうに作りましたよ」
いつも中野さんは、我にかえったアオイの感覚を取り戻すかのように、作品を見せながら話してくれる。

アオちゃんが顔を出すのは、アオイの部屋とナオキの部屋、そして面接室だけだった。
しかし、アオちゃんは面接室で自由に振る舞っているようだ。そしてその間、アオイの記憶は途切れている。
“もし、職場でも子ども人格が出たらどうしよう“
交代人格を認める気持ちと共に、アオイの不安はまた強くなっていった。

そんなアオイに中野さんは言った。
「いまは、子ども人格を満足させてあげることが、治療として大切だと考えています。だから、“面接室では出てきていいよ、中野さんと遊ぼうね。でも、お仕事中はアオイお姉さんの時間だから、寝ててもいいし待っていようね“って、いつも話しています。もし、何か困ることが起きたら、すぐに教えてくださいね」
「はい。でも、記憶が途切れて覚えていないことがあるかもしれない。そう思うと怖いんですよね」
「職場の同僚や上司から、違う人格が出ているのかもしれないと感じることを言われたことはありますか?」
「う〜ん、どうだろう……」


仕事はあいかわらず忙しかったが、思い当たるようなことはなかった。
ただ一度だけ、同僚のルリに
「アオイって疲れてくると、寝ぼけて子どもみたいになるよね。ちゃんと睡眠とった方がいいよ。時々ヘンだよ〜」と笑いながら言われたことがある。

その時のことを話すと
「信頼できる人の前では、アオちゃんが覗いてるのかもしれませんね。“アオイお姉ちゃん、お仕事たいへんそう、心配なの“と、よく言ってますよ」

“そう言われてもなぁ“と、アオイは情けないような虚しさを感じた。

起きているであろうことを、中野さんが説明してくれているのはわかる。子ども人格がこの面接室でお絵描きや工作をしていることは事実だろう。でも、その子どもが私のことを心配している?感情を持っているなんて……心も別に持っているの?

アオイは、そんな気持ちをかき消すように
「いや、同僚に言われた時は、入稿前の忙しい時期だったから。私が疲れて寝ぼけていただけだと思います。しっかり大人として仕事していれば、大丈夫ですよね。子ども人格に心配されることなんて何もないですから」
背筋を伸ばして、急にハキハキ話すアオイに
「お仕事、頑張りすぎないで、ちゃんと休暇を取るようにしてくださいね」
中野さんは穏やかに答えた。


隔週でのカウンセリングは続いた。

ある日のことだ。クリニックに行くと、待合室にこれまで見たことがない母子連れがいた。男の子は幼稚園児だろうか、可愛い制服を着ている。麦わら帽子をかぶった髪の毛から汗が流れていて暑そうだ。
子どもが待合室にいることは珍しかった。なんとなく気になる。アオイは、視線が合わないように気をつけながら、見るとはなしに親子連れを眺めていた。
“お母さんが病気なのかな?幼稚園の帰りについてきたのかな?“と、思いを巡らせていると、男の子は「もう帰りたい、お腹すいた」と、泣きながらバタバタと暴れ始めた。
母親は「静かにしなさい」と甲高い声で叱っている。すると「やだ、やだ」と、男の子の泣き声が急に激しくなった。

アオイは耳を塞ぎたい衝動にかられた。でもそれは、母子に申し訳ない気がして、気にしない素振りをしながら耐えていた。
受付の女性が待合室に出てきて優しい声をかけると、母親は少し気を取り直した様子で、男の子を膝の上に乗せた。
「もうちょっとだから待っててね。ごめんね」
母親がバックから、小さなチョコを出して口に入れてあげると、男の子は泣きじゃくりながらチョコを頬張った。

男の子と目が合ったその時だ。

面接室に呼ばれてアオイが立ち上がると、急にふわふわした感覚が襲ってきた。
“アオちゃんが出てきそう、まずい“
そう思いながら慌てて面接室に入ったが、その後のことはよく覚えていない。


「アオイさん、アオイさん」
急に大きな声で呼ばれたような気がして、アオイは目を開けた。
いつもの面接室のソファーだった。テーブルの向こうには中野さんが覗き込むように座っている。
「一緒に深呼吸しましょう。アオちゃんがずいぶん泣いていたから、涙も拭いてくださいね」
中野さんはティッシュの箱を渡しながら言った。
頬を涙がつたっている。顔を触ると鼻水も流れていて、顔がグシュグシュだった。



「今日はアオちゃんが、知っていることを話してくれましたよ。お母さんと家を出る時のことでした」
アオイが涙を拭いて、鼻をかむと、中野さんはゆっくり数を数えながら、何度か一緒に深呼吸をした。
そして、アオちゃんが話した短い言葉をつなげながら、アオイの子ども時代に起きたことを話してくれた。

アオイを連れて家を出る数日前の夜遅く、両親はいつものように激しい言い争いをしたらしい。それまでは父に暴力を振るわれてばかりだった母が、その日は物を投げて暴れたそうだ。母はそのまま玄関を飛び出した。アオイは泣きながら、裸足でパジャマのまま追いかけたという。母に捨てられると思ったようだと、中野さんは話した。
母はアオイに気づくとすぐに振り返り、「ごめんね、ごめんね」とアオイに謝って、家に戻ったそうだった。

「おそらく、二人でお母様の実家に行ったのはその数日後でしょう。『アオちゃんが悪い子だからママに捨てられそうになったんだ』と思っているようでした。とても怖かったと怯えて話してくれましたよ。でもその後、赤い靴を買ってもらったって。それは嬉しかったって」

聴きながら、アオイは自然と涙が溢れていた。心が震えて、その奥から涙が出てくるような不思議な感覚だった。
「よく見る夢があります。母親を追いかける夢です。あれは夢じゃなくて、きっと現実にあったことなんですね。私は覚えていないけど、アオちゃんは覚えているんだ。赤い靴のことは、私も履いた時のことが映像のように、時々頭の中に浮かんでくることがありました」

中野さんは言った。
「アオちゃん、『チョコが好きなの』って唐突に言ってました。それも何かの思い出とつながってるみたいだけれど……心当たりはありますか?」
「小さなハートのチョコが好きで、彼が買ってくれてるみたいです。よく包み紙が部屋のなかに落ちてます。でもどうして好きなのかは、私にはわかりません。わからないことだらけです」

アオちゃんが残したチョコの包み紙を見つけると、アオイは「また……」と憤りと一緒に、胸の奥が痛くなるような、せつない感情が急に湧いてきて、いつも慌ててゴミ箱に捨てて、見ないようにしていた。

待合室の男の子が泣きじゃくりながらチョコを頬張ったとき、アオちゃんは、何かを思い出したのかもしれない。アオちゃんもチョコを食べて、両親の言い争いが過ぎるのをじっと耐えていたのだろうか、それとも、数少ない両親との思い出にチョコが関係しているのだろうか……幼稚園に入る頃までは、父も優しかった……

“アオちゃんの楽しい思い出だったらいいな“
そう思うと、また涙が溢れた。

うつむいて涙を流すアオイに、中野さんは語りかけるように言った。
「人の心って、わからないことだらけです。アオちゃんがチョコを好きな理由も、いまはわからないけれど、アオちゃんの救いになっているみたいだから、チョコがあって良かったなぁと思います。彼氏さんが、そのことに気づいてくれたのも良かったなぁ。アオちゃんは、アオイさんが抱えきれない感情を、代わりに持ってくれているのかもしれません。アオイさんを守りたいんだと思います」
「私の感情を代わりに持つ……」
「はい、健気ないい子ですよ」

面接室に、しばらく静かな時間が流れた。

「今日は時間ですから、ここまでにしましょう。ふらふらするようでしたら、少し待合室で休んで帰ってくださいね。アオイさんからアオちゃんに聞いてみたいことがあれば、交換ノートに書いてみてもいいかもしれません」

そう言うと、中野さんはアオイに優しい眼差しを向けて、ゆっくりと付け加えた。

「大切なのは、アオちゃんと手をつなぐような気持ちでね。焦らずやっていきましょう。また次回に」
いつもと同じ穏やかな表情の中野さんに見送られながら、アオイは思った。

“アオちゃんは私を守りたいの?子どもは大人を守らなくていいんだよ。安心して過ごしてほしい”


待合室では、先ほどの男の子のお母さんが会計をしているところだった。
男の子はすっかり機嫌が治ったようで、お母さんと手をつないでぴょんぴょん飛び跳ねている。男の子をよけるようにソファーに座ろうとしたアオイに気づいて、母親が言った。
「うるさくて、ごめんなさいね」

アオイは少し驚いて
「あ、いえ」
と短く答えると、親子に背を向ける形で待合のソファーに座った。



“アオちゃんと手をつなぐような気持ち?そんなことが私に出来るんだろうか“
そう考えると、どうすればいいのかわからなくなって、また胸がざわざわする。

アオイは会計で呼ばれるまで、カバンからイヤフォンを出してスマホで音楽を聴いた。ナオキが好きなスピッツだ。
“いまは落ち着こう“
必死にメロディに集中した。
まだ胸のざわざわは残っていたが、少しずつ気持ちが落ち着いていった。



会計を済ませてクリニックを出ると、アオイはナオキにLINEを送った。
明日から3連休。紅葉を見にナオキとキャンプに行くことになっている。
「これからバーベキューの買い物するね。マシュマロとハートのチョコも買っておくから」

あえて明るいスタンプを入れて電車を待っていると、
「お、ハートのチョコ!!アオイお姉ちゃんが買ってくれたって、アオちゃん喜ぶぞ〜」
とナオキから返信がきた。

喜ぶ……どうなんだろう……
アオイには、やはりまだよくわからない。

私のなかに他者がいる、それも子どもの、私とは違う私。
私が知らないことを知っている私。
私のことを私よりも知っている私。
子どもの私が、私のことを守ろうとしてくれているのだろうか。


電車が駅に近づく強い風を感じて我に返ると、アオイはゆっくりと返信を打った。
「お天気もつといいね。紅葉見れるといいなぁ」

バックを持っていたアオイの左手を、小さな手がギュッと握ったように感じた。温かく懐かしい不思議な感触だった。




【解説】
アオイ編は最終章です。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

解離性同一性障害(DID)の人たちは、幼少期を中心とした何らかのトラウマを抱えていることが多いと考えられています。アオイさんの物語からもわかるように、治療やカウンセリングが開始された時点では、DIDのきっかけとなった内容は明らかになっていないことがほとんどです。これまでの生育歴を聴いても思い出されず、むしろある時期の記憶にぽっかりと空白が見つかることがあります。この、どうしても思い出せない空白の時期に、DIDのきっかけに関連することが起きているのではと、治療者の多くは考えます。

アオイさんの場合は、子ども人格のアオちゃんが、トラウマとなっているであろう記憶を抱えていました。アオイさんはそのときの記憶がなく、アオちゃんの感情として封印していたわけです。交代人格が、主人格の代わりにトラウマ記憶を抱えているということは、よく起きます。主人格が持てないほどの辛い感情を切り離し、解離して他の人(交代人格)が抱えることで、主人格の感情や心を守ろうとするのです。DIDのひととお会いしていると、人の脳の凄さ、精巧さを感じずにはいられません。

繰り返されるアオイさんの子ども人格への戸惑いは、自然なことでもあるでしょう。しかし、交代人格の感情が置き去りにされていることが生きづらさにつながっているのであれば、カウンセリングなどの安心できる場で、少しずつ交代人格の感情を取り扱っていく必要が出てきます。「やっと話を聞いてもらえる」と、安心する交代人格さんとの出会いを筆者は多く経験しています。アオちゃんのような子どもであれば、物語と同じく、お絵描きや工作など、その子が安心する好きな遊びを面接のなかに取り入れます。治療者と子ども人格とのラポール(信頼関係)が進むと、人格全体の治療が動き出すことも多いのです。

この最終章では、受け入れ難さを抱えつつも、アオイさんはアオちゃんに気持ちを寄せるようになります。主人格と交代人格間の調和が生まれて、うまく共存できるようになれば、そのことがDIDのひとの安定につながっていきます。中野さんが、アオイさんとアオちゃんの橋渡し的な役割を担うことを中心に据えて、アオイ編のカウンセリング場面を書きました。

次は、待合室にいた男の子のお母さんの物語です。カウンセリングを通しての変化を(うまくいくことも、そうでないことも)さらに具体的にお伝えできればと思っています。
また、近いうちに!



より伝わりやすいものが書けるように、創作の研鑽に使って、お返ししたいと思います!