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ニジイロの花 解離性同一性障害と生きる アオイ編Vol.4 ーカウンセリングと交換ノートー

初診が終わっての帰り道。
「もうさ、なんでもやってみようよ。それでアオイが、少しでも楽になればいいことだし。嫌だったら、すぐにやめればいいからさ。何も気負うことないよ」
ナオキは、まるでお稽古事でも勧めるかのように、明るくさりげなく言う。
アオイは気が重かった。何か始めなければ変わらないと思うけれど、始めたら、いったい何が起きるんだろうと、怖かった。
「う、うん、そうだよね……」
気が乗らないまま返事をすると、
「じゃ、電話するよ。2週間後だったら診察と一緒にカウンセリングの予約が取れるって受付の人が言ってたから」
ナオキはその場で病院に電話を入れ、あっという間に予約を取ってしまった。




「はじめまして、カウンセラーの中野です」
医師の診察のあと、カウンセリングルームに案内されると、淡いブルーのシャツを着た中年の女性カウンセラーが穏やかに話を始めた。

「私は、なんて呼べばいいですか?アオイさん?苗字の方が落ち着くかしら?あるいは他の呼び名でも」
「あ……何でもいいですけど……じゃぁ、アオイさんで」
「はい、アオイさん。はじめまして、カウンセラーの中野です。どうぞよろしくお願いします。今日は初回だから、こちらから聴くことがどうしても多くなっちゃいますけど、話したくないことは話さなくて大丈夫ですからね。疲れたり、気分が悪くなったりしたら、すぐ教えてくださいね」
「はい、中野先生。よろしくお願いします」
「“先生“は無しで、“さん“付けの方がいいかな。でもそれもアオイさんが呼びやすい方でお願いしますね」
「あ、はい」
「頑張って話す、は無しですよ」

アオイは緊張で息が詰まりそうだったが、中野さんは柔らかい笑顔の、話しやすそうな人だ。
“何から話せばいいんだろう“
そう思っていると
「カウンセリングに何を期待しますか?」
と最初に聴かれた。

しばらく考えて、言葉を絞り出すように答えた。
「彼に迷惑をかけてるみたいだから、なんとかしたいんです。自分に何が起きているのか知りたいし、治せるんだったら治したい。それと……そのことに関係があるのかわからないけれど、時々消えてしまいたいって、すごく辛くなる自分がいます」

そのまま黙り込んで、何度かため息をついたあと話を続けた。
「彼に言われて、自分の中に子どもがいるのかなって認めざるを得ない気持ちになったんです。でも、信じたくないというか……そんなの信じられないって……いまも思ってます。だけど、自分の身体を乗っ取られるような気持ち悪さは、ずっとあるんですよね」

考えて言葉にしようとすると、頭の中にモヤがかかるような感覚になって時間がかかる。
でも中野さんは、アオイに呼吸を合わせるように待ってくれた。

「これまでを振り返ってみて、もしかするとあの頃からかな、みたいなことはありますか?」

アオイは、高校卒業の時に「完全に別人みたいって感じる時がある、気をつけて」と友達に言われたことを話した。
「その時はなんだかとても嫌な気分になって、聞き流したんですけど、でもずっとその言葉が忘れられなかったのも事実です」

「子どもの頃からの記憶はどうですか?途切れていたりしませんか?」
「両親が離婚する頃の記憶は曖昧です。転校前の友達とか、その頃誰と遊んでいたのかとか、不思議なくらい憶えてないです」

そしてアオイは、父と母にいさかいが多く、いつも母が泣いていたことを話した。

じっと聴いていた中野さんは、
「アオイさんとアオちゃんは全くつながってないんですよね?まずはアオちゃん用のノートを作ってみませんか?」と言った。
「彼がスケッチブックを買ってくれていて、それによくお絵描きをしているみたいです」
「彼氏さん、さすがですねぇ。では、それはそのままアオちゃんのお絵描き用にしてあげて、別にアオイさんとの交換ノートを作ってほしいんです」
「私との交換ノート?」
「はい、アオちゃんと少しずつやりとりを始めてみるのはどうでしょう?ご自身に何が起きているのか、アオちゃんを知ることが、ご自身を知ることにつながっていくと思いますよ」
「そんなこと出来るかな……アオちゃんのお絵描きを見たり、自分の中にいるのかなって思うと、気持ち悪くなるんですよね……なるべく見ないように、感じないようにしてるんです」
「それは自然な感情だと思いますよ。では、アオイさんと全く別の人だと考えてみることは出来ますか?例えば親戚のお子さん、あるいはお隣に住んでいるお子さんが時々遊びに来る、みたいな感覚で」

カウンセリングの時間や頻度については、アオイは中野さんと相談して、1回50分、隔週でやっていくことに決めた。

最後に中野さんは、
「交換ノートは無理なく、ゆっくり始めていきましょう。次回までにやり取りが上手くいかなくても、気にしなくて大丈夫ですよ。また2週間後にお会いしましょう」
と、穏やかな笑顔で面接室のドアを開けてくれた。


クリニックを出て電車に乗るとすぐに、アオイは心配しているだろうナオキに、LINEを送った。

「緊張したけど無事に1回目終わったよー。カウンセラーさん、話やすい人だった」
「お疲れ〜よかった!」

ナオキからはすぐに返信がきた。調べて病院を見つけてくれたナオキの気持ちは嬉しいし、きっと自分に必要なことなんだと思いたい。
“ナオキが言う通り、なんでもやってみよう“。
アオイは不安のなかに小さな期待が混じり始めていることを感じていた。

中野さんは、ノートは普段よく使う場所に置いておけば、それだけで良いと言っていた。
アオイは、子ども用のノートにすべきか少し迷ったけれど、シンプルなノートを買った。テーブルにキラキラペンと一緒に置くと、
「できれば最初に、何かひと言アオイさんから書いてあげてくださいね」
という中野さんの言葉を思い出した。

大きくひとつ深呼吸をして、「アオちゃんへ」と、ゆっくり書き始めた。
「アオちゃんへ。はじめまして。これは自由に使っていいノートです。交換ノートにします。よろしくね。アオイより」
最後に漢字にふりがなを打ったあと、パタンとノートを閉じた。

中野さんの顔が、励ますように浮かんできた。
「よし、これでいいはず」



それから3日間は何事もなかった。
4日目の朝、テーブルのスマホのアラームを止めると、その横にハートのチョコの包み紙があることに気づく。
「わ、来たんだ!」
思わず出た自分の声に急かされるように、慌ててノートを開いた。
そこには、キラキラペンでカラフルに描かれた女性の絵と短いメッセージ。

「アオイおねえちゃん、だいすき」


アオイはしばらく座り込んで、その絵と可愛らしい文字を眺めていた。
描かれている女性は三日月形のペンダントを付けている。アオイのお気に入りだ。
「そっか、この子は私のこと知ってるんだ……」
不思議な感覚だった。
イライラしたり気持ち悪く感じていた自分が、申し訳ないような気もする。
ナオキが、
「アオちゃんは、『私が出てくるとアオイおねえちゃんに叱られる』って、最近よく泣くんだよ」
そう言っていたのを思い出した。

「おはよう。アオちゃんから返事がきた」
ナオキにLINEすると、
「そっか、アオちゃん、がんばったなぁ」
と返信がきた。

アオちゃんは、がんばっているのだろうか?
私はこれからどう関わっていけばいいのだろう?
中野さんは、親戚の子どもやお隣の子どもみたいに思って、と言っていたけど、とてもそんなふうには思えない。
私は私だし、これは私の身体だし。他に誰かがいるなんて。
“やっぱり無理……“
そう思ったとき、またLINEの通知音が鳴った。
「アオイも今日の仕事がんばって!」
ナオキからだった。そうだ仕事に行かなきゃ。明日が入稿日だ。
アオイは慌ててクローゼットを開いた。





【解説】
解離性同一性障害(DID)の治療は、精神科医や臨床心理士が、患者さんとの実践を積み重ね、試行錯誤しながら方法論を構築しているのが実情です。カウンセリングは患者さん個人と行いますが、DIDの場合、個人が持つ複数の交代人格さんと同時に出会いながら治療を進めていくので、相手が“一人“ではなく“複数“となり、その分診療時間が必要となることが多くあります。

カウンセリングにおいて、まずはラポール(信頼関係)の形成が重要であることは、心理学の教科書的にも基本として言われています。DIDの場合は、応用して、それぞれの人格さんとラポールを形成をする必要が出てきます。例えば、お一人のなかに、カウンセリングを希望する(話したい)人格さん、カウンセリングなんて御免被る(話したくない)人格さん、というように正反対の感情を持つ人格さんが存在することが、よくあります。心理学では、これをアンビバレントな感情といいますが、DID治療では、それぞれの人格さんの感情を大切に取り扱っていきます。

また、治療者が、いかに全体像を速やかに把握するかということが、治療の進展を左右すると筆者は考えています。面接室に現れない人格さんも多く、面接室の中だけでは、全体像を把握することに限界があります。そこで工夫が必要となるわけです。ここまでのお話のように、パートナーや家族、友人からの情報はとても有益です。情報を収集しつつ、患者さんご自身にも全体像を掴んでもらえるように、筆者は人格さん同士の交換ノートを治療の入り口としてよく使います。交換ノートが上手く始まると、筆跡や筆圧、文体も違い、心の中で起きていること、それぞれの人格さんの感情や訴えが、目に見えるかたちで鮮明に浮かび上がってきます。

Twitterのアカウントをそれぞれの人格さんが持っている、ということもありました。それらのアイコンには、各人格さんの個性が反映されていて、人格さん同士が“他者“であることを感じさせます。DIDの患者さんの心の豊かさ、奥深さに触れ、敬意を持って理解しようと試みることが、何よりのラポールの形成につながると言えるでしょう。


より伝わりやすいものが書けるように、創作の研鑽に使って、お返ししたいと思います!