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ニジイロの花 解離性同一性障害と生きる アオイ編Vol.1 ー9歳の私がいるの?ー


「連休が終わっちゃうね。明日から仕事だ。やだなぁ」

2人で行った山中湖のキャンプの帰り、アオイがそう言うと、ナオキはバーベキューのスモークされた残り香を深く嗅ぐ素振りをして、前を見たまま言った。

「アオイさ、時々子どもになるよね。それって、わざとじゃないよね?」
「え?」

“子どもになる“って?
キャンプが楽しくてはしゃぎ過ぎたかな。それにしても、“わざとじゃないよね“って、ちょっとひどい言い方だ。

「え、なに?私がわざと子どもっぽくしてるって?何のこと言ってるの?」
「今日、キャンプ場でシールを買ったの憶えてる?」
「シールなんて買ってないよ」
「リュックを開けてみて」

リュックを開けると、一番上にアナと雪の女王のシールが無造作に入っていた。

「え、なにこれ?」
「アオイが、どうしても欲しいって言ったんだよ」
「もう、変なこと言わないでよ。きっと何かの景品でしょ。プリンセス系は子どもの頃から嫌いだって、前に話したよね。それに、私のバックに勝手にものを入れないでよ」

新緑が美しい道を窓を開けたまましばらく走ると、高速のインターに着いた。

ナオキはアオイの横顔をそっと見て、
「アオイじゃないんだな。まぁ、いいか。今度はマシュマロを持って行こうね」
と、いつもの明るい声で言った。

「そうだ、持って行くのを忘れてたね〜」
アオイは笑いながら言った。



連休が終わって、仕事帰りに夕飯を一緒に食べに行ったときも、ナオキの家に泊まりに行ったときも、ナオキはアオイが“子どもになる“話をした。
ナオキが言うには、“わざと“じゃなく、“ほんとうに“子どもになってしまうらしい。

「さっきもさ、急にウトウト寝ちゃうんだよね、そして目を開けたら子どもになってるんだよ。今のアオイに戻ってくる時もそんな感じだな」
「またその話? 戻ってくるってさ、小説じゃあるまいし。もう変なこと言わないでよ。ウトウトしてたのはナオキの方だよ」

ナオキは、テーブルの引き出しから、アオイが描いた憶えのないプリンセスのお絵描きや、食べたはずのないハートのチョコレートの包み紙を出して、アオイに見せた。
あのアナ雪のシールは、ナオキが買ってくれたという新しいスケッチブックに、“ペタペタと“貼ってあった。

ナオキがふざけているのではないことは、なんとなくアオイにもわかっていた。でも自分に何かが起きているとは思えなかった。思いたくもなかった。身に憶えのないことを“あなたがやっている“と言われても、受けとめようがなく、戸惑いと反発しか湧いてこない。

高校を卒業するときに友達に言われたことを思い出す。

「アオイさ、完全に別人みたいって感じる時があるよ。急に怖い表情になったり、すごく子どもっぽくなったり。自分では気づいてないよね?忘れてることも多いし。気をつけてね」

“あの時の友達、真剣な表情だったなぁ“
ずっとどこか心に引っかかっていた。
そして、ナオキは……たぶん同じことを言っている。

アオイの中に、忘れかけていた感情が、くすんだ煙のようにひそやかに忍び込んできた。

“私は病気なの?“
不安がつのってゆく。
“やっぱり私はダメな子だ、消えてしまいたい“


“消えてしまいたい“……それは、アオイに時折押し寄せる辛くて強烈な感情だった。
自分には生きている価値がない、そう思い始めると、自分が生きているのか、死んでいるのかさえ、よくわからなくなる。見えるもの全てを真っ黒に変えてしまうその感情に、あらがうことも逃げることも出来ず、息苦しさが通り過ぎるのを待つしかなかった。

中学に入った頃から、アオイは時折、カッターナイフを手にした。
“辛い気持ちに押し潰される前に、暗闇に落ちてしまう前に“と、リストカットをするようになったのだ。
自分の腕を傷つけると、ほっと息継ぎができる感覚になり、少なからず気持ちが落ち着く。気づけば、ナイフを持ち歩くようになり、それがお守り代わりになって、生きていた。


ナオキはアオイの表情をうかがうようにして、話を続けた。

「その子、9歳だって言ってたよ。アオイの分身かな。『アオちゃんはね〜』って自分のこと話してさ。小さい頃のアオイってあんな感じだったのかなぁ」

彼は自然に“アオちゃん“を受け入れているようだった。

「ねぇ、気持ち悪くないの?」と思わず聞いた。

ナオキは、しばらくじっとアオイの顔を見ていたが、
「気持ち悪いって、可哀想だよ。子どもなんだから。なんだか一生懸命で可愛い子だよ」と答えた。
そしてアオイを見つめたまま続けた。
「やっぱり別の人格なんだね」

「ちょっとごめん、なんか吐き気がする」
アオイは、口を押さえてトイレに行ったが、そのまま吐くことも出来ずに座り込んだ。


身体がふわふわと宙に浮く。
誰かに身体を乗っ取られるような、引き込まれそうな感覚になった時、ドアの向こうでナオキの大きな声がした。
「大丈夫? ごめん、ごめん。今日はもう、この話はやめよう。お茶を入れるから」

アオイは我にかえって、泣いている自分に気づき、慌てて涙を拭いた。



二人が知り合ったのは、子どもキャンプのボランティア活動だ。アオイが大学3年生、ナオキは他大学の4年生だった。キャンプの知識が全くなかったアオイに、あれこれと教えてくれたのがナオキだった。
テントの張り方や飯盒でのご飯の炊き方、マシュマロを溶かすと美味しいこと、なかなか寝てくれない子どもの対応や、肝だめしの秘策まで。ナオキの知識はボランティア仲間でも群を抜いていた。
「親父がアウトドア派でさ、よく連れて行かれたよ。中学生になると親に付き合うのが面倒くさくて、しばらくはイヤイヤ行ってたんだけどね。まぁ今はいい思い出かなぁ」

ナオキの家族の話は、聞いていて楽しかった。友達に、「彼のどこが良かったの?」と聞かれると、いつも「健康的なところ」と言って、少し不思議な顔をされる。でも、ナオキの心身ともに健康なところが、アオイにとっては彼への信頼につながっていた。

卒業後、ナオキは建築会社に就職した。その会社が、保育園や幼稚園の建築を手がけていることに惹かれたらしい。仕事をしながら一級建築士の資格を取るために勉強を続けているナオキのことを、夢があっていいなぁとアオイは思う。

一年遅れで社会に出たアオイは、小さな出版社に就職した。
子どもの頃から本が好きだったアオイは、何でもいいから本の仕事がしたいと就職活動をした。大手出版社はことごとく不採用通知が届き、あきらめかけたが、いまの会社の最終面接にこぎつけた。
「忙しいチームに配属になると思うけれど、一緒に頑張ってくれますか?」との問いかけに「はい!」と元気よく答えて、夢を叶えることができたのだ。

希望していた編集の仕事ではりきっているが、毎日がとにかく忙しい。上司や同僚のピリピリした雰囲気を感じることも多く、緊張が続いている。
同期のルリは「アオイは真面目過ぎだよ。手を抜くことを覚えないと、社会人として続かないよ」と心配げに言う。ルリは、頭の回転が早く、何でもそつなくこなす。アオイはそんなルリが羨ましい。自分は努力が足りないんだ、周りに迷惑をかけている、といつも思う。




次の週末、家に遊びに行くと、ナオキはいつになくあらたまった雰囲気で切り出した。

「やっぱりどうしても、アオイのことが心配なんだよね。この前の続きを話してもいいかな?」
話は、そんな前置きから始まった。

「一度、病院に行った方がいいんじゃないかな。俺も一緒に行くからさ」
「え、病院⁈いきなりだね……ほんとうに私が病気だと思ってるの?」
「病気かどうかは、俺にもよくわからない。でも、えっとね、解離性同一性障害っていう病気があるんだよ」
「カイリセイドウイツ……?」
「うん、長くて難しそうな名前だよね。通称DIDっていう言い方をするみたいなんだけど」

ナオキは、「少し前からインターネットや本で調べていたんだ」と話を続けた。
そして、DIDだという女性が自分のことを語っている番組を録画したから、一緒に見ないかと言った。

「この人にも子どもの人格がいるんだって」

ナオキは、その女性がまるで子どものように話す場面を見せてくれた。そこには、子どもが描いたような絵もあった。

「う〜ん、ホントにこの人が描いたのかなぁ?」
アオイはつぶやいた。

ナオキはそれには答えず、リモコンを手に取った。
「最近、Eテレでも特集されたんだよ。それも見る?」
「う、うん。少しだけね」

その番組は、当事者たちが語り合い、医師の解説も入ったわかりやすいものだった。
でもアオイは、途中から、集中できなくなった。動悸が激しくなり、高校を卒業するときに友達に言われた“完全に別の人“という言葉が、頭の中をぐるぐる回った。

“怖い“

ナオキが番組を見ながら取ったというメモを見せてくれた。「トラウマ」「虐待」「家族間のストレス」などの言葉が並んでいた。

“私に何が起きているんだろう“
アオイは、恐ろしい世界に引きずりこまれるような不安を感じた。



思いあたることはある。


転勤が多かったアオイの父は暴力的な人で、母が殴られて泣いている姿は家庭内の日常だった。子どもには手をあげることはなかったが、アオイはしょっちゅう怒鳴られていた。

「お父さんは仕事が忙しいからね。頑張ってくれてるのに、気が利かないお母さんが悪いのよ」
母はいつも言い訳のようにアオイに言った。
「おまえは気が利かない」は父の口癖だったのだ。
父に怒鳴られることよりも、母が泣くことの方がアオイは怖かった。自分が悪い子だから、父は母を殴る、そして母が泣く。良い子にならなければ。アオイはいつも父と母の顔色を伺いながら子ども時代を過ごした。

アオイには時々見る嫌な夢がある。
ふだんは父の暴言や暴力に耐えている母が、泣き叫んで腕を振り上げて怒りをあらわにしている夢だ。そして母がだんだんと遠くに行ってしまう。

「お母さんが怒ったらダメだよ、戻ってきて!ごめんなさい、ごめんなさい」
謝りながら目が覚める。起き上がると、いつも頬に涙がつたっていた。涙を拭いながら、夢って怖いな、いま起きているみたいに泣いちゃうんだと、その日は朝から気持ちが沈んだ。

繰り返し見る夢に、あれは実際に起きたことだったのかもしれない、と思う。
夢の中の出来事なのか、現実なのか、アオイは時々わからなくなる。



ナオキは、病院についても調べてくれていた。

「DIDは他の病気に間違えられたり、演技だと誤解されたりすることもあるんだって。医者によって、治療方針も違うらしいよ。アオイに合う病院に行こうな」

彼が探してくれた病院は、DID治療で有名な医師がいる精神科クリニックだった。
病院のクチコミも悪くない。でも新患は3ヶ月待ちだった。DIDの人ってそんなにたくさんいるんだろうか。何より、精神科なんて行ったことがない。

「ちょっと前に姉貴が産後うつになってさ、その時、心療内科に行って救われたって言ってたよ。普段はあんなに能天気な姉貴でも産後うつってなるんだなぁ。ほんとかよって思うけど。まぁ、だからさ。何も怖がることないよ」と、ナオキは励ましてくれた。

でも、考えるだけで気が重く、頭痛がする。
心配してくれているナオキに背中を押されるかたちで、アオイは3ヶ月先の病院の予約を入れた。
                                                                                 



【解説】
「解離性同一性障害(DID)」は、けっして珍しい病気ではありません。かつては「多重人格障害」と呼ばれていましたが、この用語は誤解されることが多いため、アメリカの診断基準であるDSMの第4版(1994年)で新たな診断名(解離性同一性障害〔dissociative identity disorder〕)が提案されました。患者さんは、いくつかの「私」の存在を体験し、別の「私」によって体を乗っ取られて、その間は後ろから自分を見ているような感覚になったり、その時の記憶が全くなく、家族や友人、パートナーが気づいて、医療につながることが多いです。文化によっては憑依体験として記述されているものもあります。一般人口の1.5%に見られるという海外の報告もあります。

DIDの人は、自分よりも相手のことを気にかける傾向があり、周囲に迷惑をかけているのかもしれないという懸念が、受診を後押しすることがあります。受診を勧める場合は、その時々の本人の気持ちや考えに寄り添いながら、時間をかけて丁寧に話をしていくことが肝要です。まずは治療者に会うことを受け入れてもらうことが、治療の第一歩であるといえるでしょう。

しかし、精神科受診をしても、DIDは統合失調症などの他の病気と間違えられることが多く、そのような意味では誤解を招きやすい病気といえます。例えば、患者さんから内なる声が聞こえると訴えられると、統合失調症の“幻聴“を疑うのは自然なことかもしれません。DIDの場合は、それが別人格の声であるわけですが、“声が聞こえる“という点では、分別することが難しい症状といえます。誤解されたまま統合失調症の薬物療法が始まると、結果として治療は回り道になってしまい、DIDの診断にたどり着くまでに長い時間を費やしたということも、けっして少なくありません。

最近は当事者の方が、SNSでの発信やメディアへの出演、書籍の出版などを通して、自ら声をあげるということが増えてきました。医療の側からも、この病気の知識が正しくわかりやすく伝えられることで、DIDへの誤解や偏見が減って、適切な治療や支援が受けられることを目的に、お話を進めていきます。

より伝わりやすいものが書けるように、創作の研鑽に使って、お返ししたいと思います!