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ニジイロの花 解離性同一性障害と生きる アオイ編Vol.3 ー治療のはじまりー

出張から戻ると、新刊本のデータ入稿に向けて、遅くまでオフィスに残る日々が続いた。先輩に言われた作業をするだけでも、あっという間に1日が過ぎていく。

「最近よくウトウト居眠りしてるけど、大丈夫?ちゃんと眠れてる?」
朝のミーティングのあと、ルリが聞いた。

「居眠りなんてしてないよ。確かに忙しくて目が回ってるけどねぇ」
「居眠りしてるの、自分じゃ気づいてないでしょ?今日は早く帰りなよ」


私の睡眠不足は仕事の忙しさだけではないかもしれないと、ぼんやり思う。
朝起きると、テーブルの上にスケッチブックが開かれて、女の子が泣いている絵が描かれていることが何度かあった。子どもが描いたような絵。上から黒く塗りつぶされている女の子もいる。
それを見ると、福岡で子どもの顔で泣いていたらしい“私“のことを思う。認めたくない不安が押し寄せてくる。


ナオキが買ってくるハートのチョコレートの包み紙は、変わらず部屋に落ちていた。
なるべく見ないように、考えないように、包み紙をティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた。


ある日、明日〆切の仕事を持ち帰って、マンションの郵便ポストをのぞくとAmazonの箱が見えた。

「あれ、何か買ったんだっけ?」
違和感を感じながら、自分の名前を確認して箱を開ける。ふわふわしたパンダのシールとアナ雪のノート、そして子どもが使うような短いキラキラペンの6本セットが入っていた。

「え、何これ?間違って届いた?」
慌ててスマホで購入履歴を確認すると、確かに購入した記録がある。支払いは、アオイがいつも使っているクレジットカードだ。
押し寄せてくる疲れとイライラする気持ちを抑えて、Amazonに返品依頼を送信した。





朝方まで仕事をし、ウトウトした感覚から、はっと我に返ると、昨日届いたアナ雪のノートにキラキラペンで、ハートの“お絵描き“がしてあった。ページの隅にはパンダのシールも“ペタペタと“貼ってある。

「やられた。返品しようと思ってたのに、使われてる」

テーブルの上にそのままにしておいたから、“子ども“が見つけたんだ……
アオイは呆然と朝日が照らすノートを見つめた。

「子どもって、私ってこと?」

いやいや違う、私は置いてあるものを勝手に使ったりしない。そもそも私のカードで勝手に買い物をするなんて。私はそんなことするような子どもじゃなかった。

「私の生活をジャマしないで」

頭の中に不協和音が強く鳴り響いていく。アオイは頭を振りながら、思わずノートを壁に投げつけた。涙が溢れてくる。起きていることがわずらわしく、理解できないことが、ただただ疎ましかった。

“こんなことが、これからも続くんだろうか?“

「ジャマしないで。お願い」
アオイは繰り返した。




受診の前日、ナオキから連絡が入った。
「明日の病院、オレも一緒に行くから。休み取ったよ」
「ごめん……」
申し訳なさが先に立ったけれど、どこか安堵する気持ちもある。
「明日で、この気持ち悪い生活を終わりにする方法がわかるかもしれない」
自分に言い聞かせるようにアオイは言った。




今日も35度を超える真夏日。強い日差しと熱気を感じながら、アオイはナオキと病院に向かった。

待合室で名前を呼ばれると、緊張を抑えるようにナオキと目を合わせて、診察室へは一人で入った。イメージしていた病院の診察室とは違い、明るい色調の机とうすいグリーンのソファーがある落ち着いた部屋だった。
「どうぞ、お掛けください」
穏やかそうな年配の男性医師が、招き入れてくれた。

最初に、福岡での出張中に起きた出来事を話した。そして、5月の連休に彼に言われたことが、最初は何のことだか全く理解できなかったこと。でも自分の中に9歳の子どもがいるかもしれないと、だんだんと考え始めたこと。そして子どものころの両親のいさかい。父が恐ろしくて、母が可哀想で仕方がなかったこと、父の海外転勤をきっかけに母が実家に戻って、離婚したこと。

「でも、福岡で暮らしていた頃のことは、ほとんど覚えてないんです。不思議なくらい」「子どもになっていたと言われても、その時の記憶が全くなくって。自分ではわからないんですよね」

医師はうなずきながら聞いていたが、

「彼と一緒に来てるんだよね?彼にも診察室に入ってもらって、少し話を聞いてもいいかな?」
「はい、私だと”子ども”のことは話せないから、そうしてください」

ナオキは、緊張した表情で部屋に入ってきたが、冷静に「アオちゃん」と会っていることを医師に話してくれた。
「アオちゃん」は、9歳の女の子であること、お絵描きが得意なこと、シールや可愛い文房具を見つけるとねだること、寂しがり屋なこと。そして最近は「出てくるとアオイお姉ちゃんに叱られる」とシクシク泣くことが増えたこと。

隣で聞いているのは、いい気持ちはしなかったが、全てを伝えなければ何も変わらない気がして、アオイはナオキの横顔をじっと見ながら聞いていた。
“ナオキ、迷惑かけてごめんね“
心の中で何度も繰り返した。

ナオキがひと通り話し終わると、医師は
「それで彼氏さんは、アオちゃんと、どう接しているのかな?」
と聴いた。

「うまく言えないんですけど、表情とか動きとか、ほんとうに子どもなんですよね。筋肉の使い方も子どもっていうか。だから、最初はすごくびっくりしたんです。ちょっと引いたっていうか……。でも自然と子どもを相手にしてる気になって。自分の中では、アオイとは違う、アオちゃんとして接してます」
「それは、子どもとして接してくれてるってことだよね」
「はい、そうです。でも先生、これってまずいんですかね?どんどん解離……ですか?それが進んじゃわないかと、ずっと気になっていて……」

医師は、穏やかに言った。
「あなたのその関わりは、アオイさんにとって、とても良いことだと思いますよ。子どもになってしまうこと、つまり“子ども人格“を認められない人やご家族も多いんです。自然なことだとも思うけれど。でも子ども人格が出てきたら、子どもとして接してあげると、だんだんと落ち着いて、その人格が満足する場合が多いんです。それが全体の安定につながるんですね。もちろん無理に子どもに出てきてもらう必要はないけれどね」

ナオキは
「そうですか。どうすればいいのかホントわからなくて……」
と、少しホッとしたようだった。

医師は「解離性同一性障害(DID)」が考えられること、子ども人格が存在すること、もしかすると他にも交代人格がいるかもしれないことを丁寧に説明してくれた。医師の説明に耳をふさいでいたい気持ちと、長い間の違和感がストンと腑に落ちるような感覚も、アオイのなかに少なからずあった。気分の落ち込みや、焦燥感、睡眠障害などの問題が出てくれば、お薬を上手に使うことで、それは改善されると医師は言った。

さらに、診察と並行して「カウンセリング」で話を聴いてもらって、全体像を知ることが治療に役立つだろうと話した。

「今日は、ここまでですね。よければ次回も診察予約を取ってもらって、それまでにカウンセリングのことを考えてきてください」

「はい、ありがとうございました」

待合室に戻ると、アオイはソファーに座り込んだ。
「大丈夫?」ナオキが心配そうに声をかけてくれる。
「いい先生みたいで、良かったな」
「うん」と笑顔を作って答え、アオイは別のことを考えていた。

“私はやっぱり病気だったんだ……“
“仕事は続けられるんだろうか?“
“ナオキと付き合っていけるのかな?“
“これから、ますますいろんな人に迷惑をかけることになるんだろうか?“

「次は2週間後ぐらいでって言われてるけど、いつだったら来れそう?」

気づけば、ナオキが受付とやり取りしてくれていた。
慌ててスマホのスケジュールを見る。2週間後には、新刊本の入稿も終わっている。同じ曜日で予約を入れた。
“でも、会社にはどう説明すればいいんだろう“
ふと、そう思ったが、今日はもうこれ以上何も考えられなかった。

「一緒に来れるときは来る。相談できる病院が見つかったから、とりあえず安心だよ」

ナオキは、のぞき込むようにして、優しく言った。

アオイはナオキの顔を見ながら、ぼんやり考えていた。
私はいつになったらこの不安から解放されるんだろうと。



【解説】
DIDにおいては「主人格」「交代人格」という用語を使います。物語のなかにも頻繁に出てきますので、ここで少し用語の解説を入れたいと思います。

「主人格」とは一番多く表に出ている人格、主としてその人の基本的な言動を担当している人を指します。主人格が誰になるかは、時期や年代、置かれた状況ごとに違ってくる可能性があります。例えば、この物語のアオイは、小学生のころの記憶がすっぽり抜け落ちているようですが、もしかすると小学生のころの主人格は、辛い記憶を抱えたまま眠ってしまったか、成長が止まってしまったのかもしれません。そしてその後、“主人格が交代した“ことも考えられます。

「交代人格」とは、いくつかの人格状態の呼び名です。主人格が抱えきれないストレスや辛い出来事に遭遇した時、その体験に耐えきれず、感情を切り離そうとして交代人格が生まれることが多いと考えられています。DIDには幼少期のトラウマを抱えている方も多くいらっしゃいます。交代人格の人数、性別、年齢、性格、嗜好などはその人によってさまざまです。攻撃的で破壊的な人格もいれば、社会適応が得意な人格や、幼い子どもの人格などが、ひとりの身体のなかに存在するということが起きてきます。交代人格とお会いしていると、声や言葉遣いだけでなく、表情筋や身体の使い方まで違うことを目の当たりにします。どうして人格を増やすことが可能なのかは、脳科学的には未だほとんどわかっていません。解明が待たれます。

物語では、アオイの子ども人格(アオちゃん)との接し方を、ナオキが医師に聞く場面が出てきます。交代人格とどう接するかは治療者によっても意見が分かれるところです。交代人格を認めてしまうと、その人格を固定したり、解離を促進することになるのではないかという考えは根強くあります。しかし、“交代人格は無視する“という対応では、目の前の現実を、周囲がないものにしてしまう、その人格を透明化することになってしまいます。子ども人格には子ども人格の人生があり、主張や思いがあります。それを聞いてもらう機会がなかったからこそ、解離が起きたままになっているとも言えるでしょう。

子ども人格と一緒に遊んだり、話を聴いたりと、子どもとして丁寧に関わることで、子ども人格が成長したり、安心できる場面では解放されて出現するようになります。そのことが安定につながり、解離の治療が進むことを筆者は多く経験しています。
Vol.4では、カウンセリング場面でのやり取りが始まります。

より伝わりやすいものが書けるように、創作の研鑽に使って、お返ししたいと思います!