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ニジイロの花 解離性同一性障害と生きる アオイ編Vol.2 ー飛んだ記憶ー

「新刊本のサイン会を東京のあとに福岡でもやるんだけど、アオイちゃんかルリちゃん、どっちか出張に行ってくれない?」

新人作家の発掘に力を入れているチームリーダーの荒木さんは、よくアオイ達をランチに誘ってくれる気さくな先輩だ。ルリは目を輝かせたが、日程を聞いて「あー、その日は友達の結婚式でダメだー」とアオイの顔を見た。

「じゃ私、大丈夫なんで行きますねー」と答えたものの、福岡と聞いて、アオイは少し気が重かった。

「そうだ、アオイは福岡出身じゃん。場所わかるでしょ。お土産、何がいいかなぁ。福岡は、最近新しいお土産が増えてるんだよね」
ルリはさっそく「福岡土産」をスマホで検索している。


アオイは、両親が離婚するまで福岡市内に住んでいた。
アオイが9歳の時に、父親の海外転勤が決まった。父親は当然、母もアオイも一緒について来ると思っていたようだ。しかし、父の意に反し、母は頑として日本に残ると言いはった。珍しく言うことをきかない母に父は激昂し、父が蹴ったトイレのドアは、ずっと壊れたままだった。
最後は父が「ついてこないなら別れる」と言い、母は「わかりました」と答え、そのままの勢いで市外の実家に戻ったのだ。ボストンバッグを持った母に急かされて、玄関で靴を履いた時のことは、はっきりと憶えている。真新しい赤いスニーカー。もしかすると母は少し前から準備をしていたのかしれない。正式に離婚が成立したのは、それから1年以上経って、郵送でのやり取りだったと後に母から聞いた。


だから、福岡市内のことは、ルリに「出身じゃん」と言われるほど詳しくはない。思い出そうとしても、小学校の校庭がぼんやり浮かんでくるくらいだ。
校庭で誰と遊んでいたんだろうと考えてみるが、それすら思い出せない。なんだか不思議な気もするが、小学生の頃の記憶なんて、みんなそんなものだろうとアオイは思った。ただ「福岡」と聞くと、いつもなぜか途端に気が滅入った。

ナオキが病院の予約を入れて、ちょうど1ヶ月が経っていた。お互いに仕事が忙しく、予約を入れてからはあまり会えていない。
でも時々、記憶にないLINEの“送信“があった。
「なおなおとあそびたい」「さみしい」と書いてある。

ナオキは「おしごとがいそがしくてごめんね、つぎの日ようびにはあえるからね」と、子どもに言い聞かせるような、優しい返信をいつも戻していた。

そんなやり取りは、見たくない。頭痛もひどくなる。それでもアオイは、毎日、LINEをスクロールして確認せずにはいられなかった。

「なおなおって、誰よ」

スマホに向かってツッコミを入れながら、自分の中に誰かがいるのかと思うと気持ちが悪く、気づけば左腕を爪でひっ掻いて、赤い線が何本も入った。



中学の時のリストカットは、アオイの気持ちを落ち着かせてくれた。
でもある日、急に部屋に入ってきた母に、リストカットしているところを見つかってしまった。
母は「何をしてるの」と大きな声をあげてカッターナイフを取り上げると、「お母さんが忙しくて、寂しい思いさせてごめんね、ごめんね」と肩を震わせて泣いた。

全身で泣いているような母の姿を見ながら、アオイは父に殴られて泣いていた母を思い出していた。
“あの頃と一緒だ。また母を泣かせてしまった“。
それはアオイにとって、何より恐ろしいことだった。
何があったのかと母から執拗に理由を聞かれたが、アオイは黙ったままだった。
答えられることなど、何もなかったのだから。
その後、母は中学のスクールカウンセラーや近所の心療内科にも行って、アオイの自傷について相談したらしい。自分よりも母の方が辛かっただろうと思う。

「もう2度としません」
アオイは母と約束した。
“母を落ち着かせないと大変なことになる“、そう思ったからだ。

その代わり、爪で腕を引っ掻いたり、指の皮を剥いだりするようになった。その“癖“はいまも続いている。記憶がないのに、傷が出来ていることもある。夢を見ながら、寝ている間に傷つけているのかもしれないと、アオイは思う。

引っ掻いた左腕のヒリヒリする痛みを感じながら
“病院に行ったら、何かが変わるのかな。いまさら何も変わらないよ“
心配してくれているナオキに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

そんな時の福岡出張だった。


福岡空港は、すっかり新しくなっていた。
空港に降り立っても、懐かしさや特別な感情は湧かなかった。
アオイはどこかホッとした。
そう、気が滅入ることなど何もないのだ。
「さ、仕事しよう。荒木さんに褒められるように頑張るぞ」
空港から地下鉄に降りるエスカレーターで、小さく声に出すと元気が出た。

サイン会は、平日にも関わらずたくさんの人だった。最近はテレビでも見かけるようになった作家さんだ。美しい装丁の本にサインを入れてもらい、上気した顔で帰っていくファンの姿を眺めながら、他のお客様に迷惑をかけないように、アオイは長い列を誘導した。

コロナ禍だから、以前はあっただろう打ち上げの食事会は、全て自粛だった。
「新人さんか〜、おつかれさま。ほんとは博多の美味しいもの食べに連れて行きたいんだけど、コロナが明けたらまた出張でおいでね」
大型書店の女性店長は、気さくな人だった。
片付けると業務終了。
「報告書は現地でまとめて、その日のうちにメールすること。その他は自由。遊んできていいからね」
それが、荒木さんの指令だった。

アオイは、出張前から次の日の予定を決めていた。
9歳で引っ越して、一度も訪ねたことのない場所。友達のことすら思い出せない小学校、そしてそのすぐそばの家族3人で住んでいたマンション。
そこに行ってみることを。

ホテルにチェックインし、Googleマップで小学校とマンションの場所を探しあてた。ストリートビューで見ると、どちらの写真も昔のままのようだった。

「明日、行ってくるよ」

ナオキにLINEすると、折り返し電話がかかってきた。
「ひとりで大丈夫?」
驚いたような声でナオキは言った。
「大丈夫。何か思い出せるかもしれないし。私、自分のことちゃんと知りたいって、最近よく思うんだ。知らない私がいるって、怖いことだよ。ありえないことだもん。だからそのままにはしておけない。まぁ、怖いものみたさ、って感じでもあるけどね」

ナオキはしばらく黙っていたが、何かあったらすぐ連絡すること、具合が悪くなったら、それ以上は無理しないことを約束させられて、電話をきった。



次の日、朝食を済ませて荷物をホテルに預けると、アオイは地下鉄に乗った。東京の地下鉄に比べたら、電車は空いている。のどかな雰囲気が漂う車両に揺られながらも、アオイは、どこか緊張している自分を感じていた。

地下鉄を降りて、キョロキョロしながら改札を出て階段を上がると、空が青く広がっていた。
「こんな駅だったっけ?」
1年生だろうか。黄色い帽子をかぶった学校帰りの賑やかな子どもたちとすれ違った。ざわざわする気持ちを抑えて、住んでいたマンションまで歩く。しばらく行くと見憶えのある灰色の壁のマンションがあった。                                                                                                                                                                                   

マンションを見上げる。アオイが住んでいた部屋は、一番上の6階だった。
“何も変わってない……たぶん“。
胸の鼓動が早くなるのを感じながら、マンションの周りを歩いた。
マンションの横は小さな公園になっていて、小さなパンダのスプリング遊具とベンチがあった。

“このパンダ、覚えてる!“

懐かしさを感じながら、アオイはパンダの遊具を触った。身体が宙に浮くような感覚になる。思わずベンチに座り込むと、6階建てのマンションと駐車場が、急にアオイの身体に覆いかぶさってくるような息苦しさを感じた。





肩を揺さぶられるような感覚に襲われて、アオイは目を開けた。視界に、見知らぬ年配の男性と白髪の女性の顔がぼんやりと映った。
「え、誰?」

「大丈夫?」
「立てる?具合悪そうだね」

アオイが慌てて立とうとすると「危ないから」と二人の腕が伸びてきた。

そこは、先ほどの公園のベンチだった。
二人に体を支えられながらマンションの管理室まで連れて行かれ、アオイはソファーに倒れ込むように座った。
「しばらく横になってね」
年配の男性は、マンションの管理人だと名乗った。白髪の女性は住人のようだった。

“私、何かやらかしたんだ“
ようやく意識がはっきりしてきたアオイの胸に、戸惑いと焦りが生まれた。


「私、どうしたんでしょうか?よく覚えてなくて。ご迷惑かけたみたいで、ごめんなさい」声を絞り出した。頭痛がひどい。
白髪の女性が心配そうに、アオイの顔を覗き込み、「あなた、さっきもずっと謝っていたわよ」と言った。
彼女が話してくれた事の顛末は、こうだった。

買い物から戻ってくると、公園で誰かが泣いている声がした。子どもの泣き声だと思い、心配になって覗いてみると、若い女性がベンチに座っているので驚いた。
「大丈夫ですか?」と声をかけると、「ごめんなさい、ごめんなさい。アオちゃんが悪いの」と、涙をポロポロ流しながら小さな声で何度も謝って、そのまま気を失ってしまった。
「それで慌てて、管理人さんを呼びに行ったの。子どもみたいに泣きながら謝るから……なんだか切なくなっちゃったわよ。可哀想に」
一気に話し終え、白髪の女性はアオイの顔をのぞき込んだ。
そして最後に「このマンションに誰か住んでるの?」と付け加えた。

“最近、子どもの自分が知らない間に出て来るようなので、真相を知りたくて、昔住んでいたマンションを見に来ました“、などと言えるわけがない。

アオイは、「初めての出張で道に迷ったようです……蒸し暑い中、歩き回って疲れたんだと思います……もう大丈夫です、すみません」と、しどろもどろに説明をした。

「とにかく、ホテルまでタクシーを呼ぶから」と言う管理人を振り切るように、お礼を伝えて部屋を出た。振り向くと二人が心配そうに見送ってくれていた。アオイは、頭を下げて急ぎ足で歩いた。
角を曲がって二人が見えなくなると、力が抜けてヘナヘナと道に座り込んだ。
ベンチに座り込んでからの記憶が、まるごと消えていた。


“きっとアオちゃんが公園のベンチで泣いていたんだ“
知らない人に迷惑をかけてしまった。そのことも申し訳ない。


どうしようもない思いでしばらく座り込んでいたが、タクシーが通りかかったのを見つけて、やっとの思いで手を上げた。

ホテルの名前を告げたアオイの目に、小学校の校庭が見えた。

“そうだ、学校にも行くつもりだったんだ……“

通り過ぎる校庭を見つめながら、アオイは思った。
“もう無理、消えてしまいたい“

ふいに母親の顔が浮かんだ。


【解説】
DIDの症状が生活に及ぼすことで起きがちなこととして、“記憶が飛ぶ“ことがあげられます。気づいたら知らない場所にいた、違う駅にいた、職場にいたはずなのに自分の部屋に戻っていて驚いた、などは聞くことの多いエピソードです。また身に憶えのないLINEやメールを交代人格がいつの間にか送っていて、周囲との関係がぎくしゃくしてしまうというようなことも起きてきます。交代人格の数や特徴は、個人によってさまざまですが、アオイ編に登場する“子どもの人格“は、ほとんどのDIDの方にみられます。

記憶が飛ぶことが、具体的なトラブルに発展し、生活に異変が生じ始めると、身体の症状が強くなっていく場合があります。頭の中がざわざわと騒がしく頭痛が頻繁に起きたり、うまく立っていられなくなって景色が歪んで見えたりします。突然、意識を失って倒れて救急車で運ばれたが、検査をしても身体にはどこも異常がなく、そのまま帰されるということもあります。身体症状が繰り返し起きるようになると、そのことで不登校になったり、退職を余儀なくされるということも少なくありません。

自身に何が起きているのかわからないまま、周囲との関わりに困惑し、身体症状に翻弄されることの不安や心細さは想像に絶するものがあります。飲酒して記憶を失くしたことがある人なら、少しは理解できるかもしれません。子ども人格と周囲がどう付き合っていくのが良いのか、具体的な治療とは……Vol.3に続きます。


より伝わりやすいものが書けるように、創作の研鑽に使って、お返ししたいと思います!