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読書感想文「夏子の冒険」

昨日はオンライン読書会「文談〈Bun-Dan〉」にリモートで参加✨💚

課題図書は、三島由紀夫 著 「夏子の冒険」

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読書会に参加する前に考えていたこと。

*裏表紙のあらすじには「奇想天外な冒険小説!」と書かれており、夏子という「魅力的なわがまま女」が主人公で、熊狩りというモチーフに、どこかユーモアを感じさせる娯楽・冒険小説ではあるのだろう。が、そういう読み方だけでいいのだろうか?と読んでいる最中も読了後も思った。
*文体・文章に、日本語に対する美意識や美学が貫かれていて、作者を知らずに読んでも、「これ三島由紀夫の小説じゃない?」とわかるのではないかということ。
*「熊」は何を象徴しているのか。
*太宰治の「斜陽」と「女生徒」という小説を連想させた。とくに、冒頭の、朝の食卓の場面で、すぐに「斜陽」を思い出した。
*「三島由紀夫 太宰治」で検索してみると、三島由紀夫が、太宰治に面と向かって、「あなたの文学は嫌いなんです」と言い、その理由のひとつに「自分と似ているから」と言った、というエピソードを見つけたことから、やはりどこかで太宰の小説(女性が主人公の)を意識していたのではないか?ということ。
*三島由紀夫は、自分がエリートであることにコンプレックスのようなものを持っていたのでは、という気がした。エリートを鼻にかけたり、ふつうに自信を持つというよりは、気恥ずかしさを持ってしまう。そういう感性があった作家なのではないか。だからこそ、熊狩りをモチーフに、生命力や野性味あふれる世界観の小説を書くことによって殻を破りたかったのではないか。みっともないところやだらしないところ全てをさらけだせる太宰のような作家、とまではいかないかもしれないが…??
*名越康文先生の体癖の講座で、三島由紀夫も太宰治も「6種」という同じ体癖ではないかと習ったので、三島が、自分は太宰に似ていると言ったのもうなずけると思った。

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*考えすぎたり、何か解釈しようとすると、「これは単なる娯楽小説なのだから、楽しんで読んでくれればそれでいいんだよ」的なポーズを取られているような気になってしまう。
*以上のことから、娯楽小説としても楽しめるけれどもそれだけではないよね、という思いと、でもやはり、冒険小説として楽しんで読めばいいのだろうか?と、興味深い葛藤状態だった。

読書会に参加してみると、「熊は何を象徴しているか?」ということや、小説内に具体的に描かれていないために「夏子はどんな髪型か?」ということが話題になった。確かに、単なる娯楽小説というだけではない気がする、という意見の方もいた。

わたしは「熊」は「無意識」の象徴ではないかと思った。

この小説の、肝となる箇所があるとすれば、わたしは次の部分だと思う。登場人物のひとりである、黒川という歯科医師の信念を地の文で書いた部分。

p198  黒川氏の信念はこうだった。狩の目的の動物の中に何かの「心」を想像すること、それは心が心を狙うことであり、人間同士の殺し合いと同じことになるというのであった。

その前に、黒川医師はこんなことを言っている。

P197 ~P198 「しかし狩人は義士じゃございません」と黒川氏は、にこにこしながら言った。「狩人の狙うのは獣であって、仇ではございません。獲物であって、相手の悪意ではございません。熊に悪意を想像したら、私共は容易に射てなくなります。ただの獣だと思えばこそ、追いもし、射てもするのです。昆虫採集家は害虫だからという理由で昆虫を、つかまえはいたしますまい」

この小説には夏子と、井田という熊狩りの恋愛も描かれているので、「心が心を狙うことであり、人間同士の殺し合いと同じことになる」という箇所に、恋愛は命がけだからこそ輝く、といったようなメッセージも読み取れるような気がする。「熊」も何かを象徴しているかもしれないけれど、「熊狩り」とは、恋愛のメタファーでもあるのではないか。

夏子は、井田が熊狩りを終えてから、(それは夏子に出会う前の恋人・秋子を熊に食べられて殺されたことの復讐でもあった)情熱を感じられなくなり、冒頭と同じように、「夏子、やっぱり修道院へ入る」と言う。そしてこの小説は終わる。

では夏子と井田の恋愛とは何だったのか。意味のないものだったのか。

わたしはふたりが、本当に何かに夢中になって生きる、ということを探し求めるという冒険をしたのではないかと思う。

恋愛に限らず、命がけだからこそ輝くということはあるのかもしれないし、人はいつどこで、命がけの局面を迎えるのかわからない。何かに夢中になったり命がけになるその情熱が、ある日なくなってしまうことだってあるのではないだろうか。その時こそ、本当の情熱とは何かが問われるのかもしれない。情熱とは、熱いだけのものではなく、黒川氏の言葉にあるような、混同することを区別しつつ、あたりまえの事実を認識するという土台(情)がなければ成立しないものなのかもしれない。

読書会に参加して、いまこうして感想文を書きながら、そんなことを思っている。

三島由紀夫の作品は、「音楽」しか読了したことがなかったので、こんなユーモアのある冒険小説も書いていたのかと知らなかったし驚きもした。三島由紀夫の作家としての奥深さを垣間見た気がする。ちなみに「音楽」は、精神分析の話でもあり、非常に面白い作品なので今までに3,4回は読んでいる。

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太宰治の「斜陽」は、じつは読了していないと思うし、持っていないのだが、「女性徒」は好きな文庫のひとつで、たまに短編を読み返したりしている。

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ひとりで読書をするのも楽しいけれど、読書会に参加し、自分以外の人が同じ本をどんな風に読んだのか語り合えると、読書の喜びもさらに深まるものだなと、あらためて思った。流行り廃りを超えた場にも感じられるのは、語り合うことによって、あらたな視点をあたえられたり、自分の考えや感想があることによって、自分以外の人の感想が新鮮に響くからだとも思った。


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