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帰郷。

[note]を始めた理由。

両親が生きた44年という年齢を越えた頃、(現在は49歳に)
私が経験した幼い頃の出来事を文字に残しておきたいと思いました。
ここでは私が歩いてきた道のりを自分の想いものせてお話していきたいと思います。


気づけば2023年も梅雨時期に入り、上半期を過ぎようとしています。

あれから進展もあり、5月の終わりに10歳まで育った静岡へ行くことが叶いました。

おばさんと連絡を取り合い、駅まで迎えに来てくれることに。

朝8時熊本発の新幹線に乗り、いざ静岡(浜松)へ。
姉は前夜はドキドキして眠れなかったといいます。

景色を見る間も無く、久しぶりの2人での旅に終始、話し続け、眠かったはずなのに会話は止まりませんでした。

博多で名古屋行きへ乗り換え、そこからは3時間乗りっぱなし、姫路城を横目にワクワクと感慨深さを抑えきれず思い出話を語り続けていました。

名古屋で浜松行きへ乗り換えると見えてくる懐かしい弁天島の風景や浜名湖、天竜川という文字。。。
涙が込み上げてきてその時は話に詰まり、窓の外の光景を目に焼き付けていました。

5時間の新幹線の旅はあっという間で遂に浜松駅へ。

改札へ近づくと柱の脇にすぐおばさんを見つけました。

おばさんは駆け寄って来て「わかる?2人ともよく来たね」
涙を浮かべ「2人ともすぐにわかったよ」と。
私たちも溢れる涙を抑えきれず人目を憚らずに泣きました。。。

それから、家に伺い、初めて会う英樹の奥さんと挨拶をした後、おじさんと英樹が眠るご仏前に手を合わせ「遅くなったね。会いに来たよ」と。

幼馴染の英樹がいなくなってしまったことが、いまだに信じられず、なんだかふわふわしたような状況と心境のなかでおばさんと奥さん、姉と私で食卓を囲みおばさんが昔、よく作ってくれたババロアをいただきました。

英樹の最期の話、おじさんの闘病の話、私たちの両親とおばさんの思い出をたくさん話してくれて。泣きながら、懐かしの味を噛み締めていました。

おばさんたちと我が家の出会いの話や、私たち両親が相次いで亡くなってしまいおばさん達の当時の心境や想い。。。

弁天島のプールで私達を遊ばせている時に、母が突然「自分になにかあったらこの子達のこと、よろしく頼むね」とおばさんに言ったこと。
おばさんは「なに変なこと言ってんのよ」と何気なく返したがその一年後に母はくも膜下出血で倒れ帰らぬ人になってしまったこと。。。
父は母が他界してから、子供達のために仕事を早めに終えて帰りたいけどそうも行かず、遅くなって帰宅すると、玄関の鍵をうまく開けれずに諦めた私が外の倉庫の中で待っているのが切ないとおばさんに洩らしていたと。

こういう話はおばさんにとっても辛い過去を蘇らせてしまうから、申し訳ない気持ちにもなる中で。。。
でも今や私たちの両親をよく知るおばさんの話はもっともっと聴いていたいくらい私たちの知らない話を教えてくれて、両親との思い出を増やしてくれるかのようにその光景を思い浮かべ胸に刻まれていきました。

おばさんの優しくて気丈な話し方が芯から懐かしく感じられ、泣きながら笑いながらお互いが思い出すことを話しながら時間は過ぎて。

翌日もおばさんと会う約束をして私たちは一旦、ホテルへ行き荷物を置いてから私は磐田駅へ、姉は40年ぶりに会う同級生との待ち合わせ場所へ。

その日の夜は27年ぶりに会う恩師と会う約束をしていて、
9歳の時に受け持ってくれていた先生は私の両親が亡くなってしまった際やそれからもずっとこの歳まで連絡が途絶えることなく、ずっと見守っていてくれて。
先生にも当然、ご家族やお子様、お孫さんもいる中でたった数年受け持った教え子の私にも愛情を注いでくださいました。

子供の頃は悩みを手紙に書き、先生に送りちゃんと返事をくださり、支えてくださっていました。
先生はその頃、教師を退職されて子育て真っ最中だっただろうに遠くの空から私の面倒も見てくれていたのです。
本当に感謝しかありません。。。

今、大人になって久しぶりに会い、お酒を飲みながら他愛もない話が出来てまるで親戚に会ったかのように近況を語り、時には涙を浮かべながらと
楽しい時間は過ぎ去りました。

先生はご年齢よりはとても若々しくて、素敵で私が幼き頃から影響を受けてきた方であるなあと改めて感じました。
27年ぶりとは思い難い距離感で話せて本当に楽しい夜でした。

静岡に来れたこと、英樹やおじさんにお参りできたこと、おばさんに会えたこと、先生に会えたこと。。。
もう胸がいっぱいで安堵していました。

ホテルに帰り、先に帰り着いていた姉とまた再び談義をして眠りにつきました。





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