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システムからこぼれ落ちた生きる権利ーまとまらない言葉を生きる(荒井裕樹)

障害者、ハンセン病や公害患者、女性、生活保護受給者などのマイノリティへの差別について社会学的文学的な立場から書かれた本。
事実から統計を取り出したりはほぼしておらず、エッセイに近い印象。

著者も『まとまらない』言葉たちをなんとか章に分けたと書いていたが、全体を通してメインテーマは『壊されていく言葉』だ。
若者言葉で言葉が崩れる〜という壊れるじゃない。意図的に"壊されていく"言葉のことだ。
生きることを少しでも楽にしてくれるために使われるべき言葉が、圧力や批判として使われることにより現代社会は生きづらさが飽和している。

相模原事件について言及していた箇所では、

"障害者は生きる意味がないという言葉の批判になると、『障害者の生きる意味』の立証責任があるように錯覚してしまう。"

間違いなく理不尽にも程がある。第三者が生きる意味など決められない。でも私たちはSNS上で同じようなやりとりを何度も目にしたことがあるだろう。

また、安倍元総理のような発言も見かけることが多い。
朝ごはんは何を食べましたか?
ご飯は食べていない。パンは食べたけど。
という、意図的に論点をずらす態度。

想像力を欠き、誰かを社会から排除するような言葉の使い方を見かけることが多くなってきた。
そんな風な日々のもやもややイライラの根本にある想像力の乏しい言葉たちについて、著者は書いている。

例えば、私の場合はどうだろう。

先日Twitter上でカフェで知らない男性に酷い言葉をかけられた女性がいて、もう怖くてお店にいけないと書かれていた。
きっとものすごく怖かったろう。
しかしリプライを見ると、『○○(カフェの名前)に罪はないんじゃないですか?』『○○が悪いわけじゃない』と書いている人がいた。
私からしたらこの発言は相当想像力が欠けているおめでたい人物だ。言いたいのはそこじゃないだろう。勝手に腹立たしくなった。

また、私が以前勤めていた会社では生産性のある人間、ない人間と分けられていた。そして、どうすれば生産性があがるのか議論されていた。
でも今となっては、生産性などと言っていた自分に対して思うのだ。生産性が高い人間と評価されたら安心していた自分に。『そもそも生産性ってなんだよ?』と。
私は育児がスタートして世に言う生産性のある国民ではなくなった。稼いでいない主婦だ。
生産性がないという刻印を押された時にやっと、見えてくる世界がある。
この世は、自分で食い扶持を稼げない人間にとっては、生きた心地がしないほど惨めだ。
でもそれは、自己責任なのだろうか?あなたが選んだんでしょ?と言われることなのだろうか?

著者は、
『誰かを社会から排除するためにじゃなく、誰もが社会にいられるように『そもそも〜』と言えた方がいい。』という。
そもそも論は諸刃の剣だ。
表裏一体の言葉をどう使うか。悩んだ時は、少しでも生きることが軽くなる方を選んだ方が良い。

自己責任という言葉を押し付け押し付けられ生きていく辛さ。全ての物事は循環し、関係し合っているシステムの中にいると言うのに。
全てが本当に自己責任なのだろうか?
その言葉が、他人の痛みへの想像力を失わせている。
以前読んだ『差別感情の哲学』という本の内容ともリンクすることがある。
嫉妬、羨望、恐怖、憎悪などから身を守りたいと思う虚しい自尊心から、差別は生まれるのだ。
その時、本当に尊重され、尊重すべきである人としての権利は当然無視される

著者が引用していた日本におけるウーマン・リブの運動家・田中美津さんの言葉を記しておく。

いくらこの世が惨めであっても、だからといってこのあたしが惨めであっていいハズないと思うの。

"リブという運動は、喩えるなら、『すり減った自尊心を抱きしめて、もうこれ以上「わたし」を失いたくないと叫ぶとこと』かもしれない"
と著者は言っていた。

で、あなたはどうするの?
どう、生きる?
そんな風に考えさせられる良書だった。
ぜひ多くの人に読んで欲しい。

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