⬛︎読書記録 源氏物語と日本人-紫マンダラ-(河合隼雄)
マニアックだけれどかなり興味深い考察が書かれておりサクサクと読めた。
源氏物語は、ただの光源氏というプレイボーイの話ではないのだ。紫式部という女性が『個』としての生き方を探求した、壮大な曼荼羅図なのだ。と解釈した、素晴らしい考察書だった。
源氏物語。
これは女の生き方の提案である。
紫式部からの、1000年の時を経て私に届いた、新たな『個』としての女を生きよという提案なのだ。
まずは簡単に私と源氏物語の出会いを記す。
私が源氏物語にハマったのは高校1年生の時だ。まず手をつけたのは『あさきゆめみし』だった。知っている方も多いと思うが、『宇治十帖』を含む源氏物語54帖がほぼほぼ忠実に描かれている源氏物語を漫画化したものだ。大和和紀さん作。源氏物語を知りたい方はぜひ読んで欲しい。
そこからかなり源氏物語にハマってしまった私は、学校に遅刻したり予習や宿題を忘れたり、授業中の居眠りをして先生に教科書でしばかれたり、はじめて彼氏と喧嘩した時など、自分が世界で一番不幸だと感じる時にはいつも『あぁ出家したい…』などと口にしていた。
大学受験においても、源氏物語を原文の一部を見ただけでどの話かがわかったため、原文をほぼ読まずして語り手の気持ちを記述することができたので合格したと思っている。
このように振り返ると私にとって源氏物語は、本当にただただ青い思い出なのだ。
それゆえに、この本はかなりの熱量を込めて語りたくなる話なのである。
本書は、ユング心理学を日本で牽引した河合隼雄氏が心理学的な視点から源氏物語を分析し、紫式部という人物の生き方について言及した本だ。
そう。まず伝えたいのは、源氏物語は、紫式部の生き方を描いた本なのだ。源氏物語は、光源氏の話ではなかったのだ。あの光るように美しい男子の、華やかな女性関係を綴る話ではないのだ。
ずっと変だと思っていたのだ。なぜ光源氏が死んだ後の話まで、紫式部は書いたのか?煌びやかな宮中の話だけで終えず、なぜ宇治という土地を選んで物語を続けたのか。正直いうと、一気にパッとしなくなるのである。(宇治十帖好きな方には申し訳ないが)
その答えが本書には書かれていた。
源氏物語は、宇治十帖を含めた54帖なければ、完結しないのだ。
紫式部という女の『個』の物語は、浮舟が完結させるのだ。ロマンチックラブストーリーとして読むから、締まりが悪く感じ、宇治十帖に面白味を見出せなかった。私の視野の狭さが物語を締まりの悪いものとして扱ってしまっていただけなのだ…
つまり、男性の目を通して見た女性像を描いたものが光源氏が亡くなる、雲隠れまで。その後光源氏の息子・薫(不義の子ではあるが)と匂宮が主人公となる宇治十帖にて、男性の目を通して見た女性像ではなく、女性が本当の自分自身である『個』として生きる、そんな女性像を描いたのだ。
男性の目を通した女の役割を、紫式部は光源氏の相手になる女性たちに託した。
母、妻、娘、娼である。
例えば藤壺は、光源氏の義理の母でもあるが永遠の恋人でもあった。そのため、母と娼を兼ねている。
葵上は完全に妻の位置であるが、六条御息所は娼なのである。互いに対立し、魂がぶつかり合う体験をするのはこの妻-娼(いわゆる愛人のような立場)なのだ。
そして、この人も永遠に美しい人、紫の上は、娘→妻→母となり、女三の宮の登場で晩年にまさかの娼の立場に転落するのだ。
そのほかにも多くの女性がいるが、すべてこの母、妻、娘、娼に分けられる。
女性の生き方は、常に男性に振り回されるのである。男性の身の振り方ひとつで、妻は娼にもなれば母にもなる。
そして最終的に、『娼』としての顔を持った女性たちは、必ず出家するのだ。
罪の意識を持ち生き続けることを決め、俗世を離れるのだ。
この生きづらさを紫式部は描いた。
紫式部が紫の上に、このような発言もさせているのだ。
「 女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、折をかしきことをも、見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、 何につけてか、世に経る映えばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。おほかた、ものの心を知らず、いふかひなきものにならひたらむも、 生ほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。」(三十九帖 夕霧)
ざっくりとした訳はこうだ。
『女ほど、身の処し方も窮屈で、痛ましいものはない。ものの情趣も、折にふれた興趣深いことも、見知らないふうに身を引いて黙ってなどいては、いったい何によって、この世に生きている晴れがましさを味わい、無常なこの世の所在なさをも慰めることができよう。だいたい、ものの道理も弁えないで、つまらない者のようになってしまったのでは、育てた親も、とても残念に思うはずではないか。』
(与謝野晶子 現代語訳)
光源氏の息子・夕霧が、亡き親友の妻である落ち葉宮を未亡人となったタイミングでたくみに自らの妻としようとした一件を聞き、紫の上が落ち葉宮に自分自身を重ねて言う台詞だ。
自分自身も、幼くして父とは疎遠、光源氏との出会いで娘から妻、母となった。女であるだけで自分では全くコントロールができない人生を歩んでいるからこそ、この発言には相当な重みがある。
男性との関わりを手放すことができない、男性ありきの生き方を通した女性の生きづらさを紫式部は作品内で多くの女性に語らせているが、この紫の上の表現はまさに今現代でも感じている人が多いのではなかろうか。
そういった風に光源氏を通して自分を見つめた紫式部は、源氏が亡くなり男を通した女の生き方を完結した。
そして、そこでは終わらなかった。紫式部は、本当の自分自身を描く必要があったのだ。
それが宇治十帖なのである。
光源氏の息子・薫と、冷泉帝の息子・匂宮と主に女一宮、女二宮、そして浮舟との物語である。
この中で紫式部は、女一宮に「父の娘」として生きた自分を投影する。
父の望みを叶えようとする娘の生き方だ。父が望む人と結婚をするということだ。
現代でも、「父の娘」は存在している。専業主婦ではなく、外に出て、男と対等に働かなければ!父のようになるのだ。母のような生き方は絶対にしないのだ!という一見前向きだが、実はネガティブな感情を抱えた状態の女性だ。しかしどこまでいっても父のようにはなれないのだ。ガラスの天井にぶち当たる。そして人生に迷う。私もかつてその1人だった。そしてこの社会構造により多くの女性がまだその渦中にいる。
紫式部は、そのこともよくわかっていた。どこまで行っても、女は男にはなれないのだ。"父を生きる"ことは出来ないのだ。そして当時の平安朝においては、身分が違えば、帝の血を引く男児を産み、国母(こくも)となることはできないのだ。(当時は国母の父親が1番身分が高い存在だったため、多くの男性は娘が生まれると国母になることを娘に望んでいた。)
であれば、どうするか?
ああでもない、こうでもない、あれがいい、これがいい。でも私はあなたのものじゃない。そういうふらふらと、何も決められない自分も、決めてきた自分、それも含めて"自分"だと認める。誰にも頼らず自分自身を生きる。そんな生き方があってもいいのではないか?
そのような紫式部によるある種の「提案」が浮舟という女性像なのだ。
浮舟は、薫とも匂宮とも逢瀬を重ねるが、これじゃない感がずっと出ている。私は読んでいてそれが物凄く不快だった。さっさと1人に決めろや。と思っていたが、今になってはわかるのである。悩んでいるということは、どちらでも良いし、どちらも良くないのだ。
つまり薫と居る自分も、匂宮と居る自分も、全部自分なのに、それを決めなければいけないとされる圧力には、どうにも耐えられないだけなのだ。
ついに迫り迫られる苦しさを解放したい一心で、浮舟は入水するが、奇跡的に助かる。死ぬこともできないのだ。もうこんなどうしようもない自分とも、世間とも、向き合うしかないのだ。そして、最終的には本当にどちらを選ぶこともなく、浮舟は出家する。俗世を離れ、精神世界を生きるのだ。
1人の人と添い遂げるという社会的価値に押しつぶされ、逃げ出したくなるロマンチックラブイデオロギーがそこにはある。この人といる時の自分が良い時もあるし居心地悪い時もあるのよという正直な女性像もそこにはある。それは人に、当時で言えば男にとやかく言われる筋合いはないのだ。
浮舟が出家するのを、誰もが止めた。もったいない、若いのに。もったいない、こんなにかっこいい人2人があなたを求めているのに。
でも彼女は誰にも従わなかった。
『いやいや、関係ないし。ほっといてくれ。私の人生である。男を通した女の役割を演じるのはまっぴらごめんである』
紫式部は浮舟を通じて、そのようなことを伝えたかったのかもしれない…と思うと、宇治十帖には、大いに学びがあるのだ。
ちなみに、西洋、とくにアメリカではロマンチックラブストーリー(1人の人と死ぬまで添い遂げる恋愛→結婚)が社会的価値として強いがために源氏物語の光源氏をただのチャラいやつだとし、物語自体を嫌う人も多いらしい。
日本における結婚にも、ロマンチックラブが当たり前となってきている今、ロマンチックラブイデオロギーに悩む人はますます増えるのではないかと、また別の考察も頭によぎったのだ…。
長くなったが、最後にもう一度。
源氏物語。
これは女の生き方の提案である。
紫式部からの、1000年の時を経て私に届いた、新たな『個』としての女を生きよという提案なのだ。
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