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アリス・イン・ワンダーランドと実存主義ー壁(安部公房)

安部公房の『壁』に登場する人たちは、ある日突然奪われる。
名前、影、目、家ーー
それはいわゆる自己証明と言えるものだ。
少なくとも現実世界を生きる上で、他人からあなたはあなたであると言われるためには必要なものだ。

ではそれらを失くした時に、人は自らのアイデンティティを喪失せずにいられるのか?

まさに突然アリス・イン・ワンダーランドの世界に引き込まれるような、そんな物語だ。
本書は、以上三つで構成されている。

第一部 S・カルマ氏の犯罪
第二部 バベルの塔の狸
第三部 赤い繭

⬛︎第一部 S・カルマ氏の犯罪
ある日主人公が名前をなくすところから始まる。現実世界に存在しているのは自分ではなく、自分と名乗る名刺。S・カルマと名乗る名刺だ。そして名前をなくした彼は目に異変を感じる。胸の鼓動もおかしい。彼の視線は見られた者を"吸収"してしまうようになる。
ついに彼は、危険人物として突然裁判にかけられるーー

彼の所持品だったネクタイやズボン、メガネなどそれぞれが意思を持ち始め、存在を主張し彼と言う存在の転覆を計るシーンは、まるでジョージ・オーウェルの動物農場のようだ。
そこはかとなく漂う全体主義とマルクス主義。そして個人の存在は所有物や他者からのレッテルではなく"存在するから存在する"という人間の尊厳を主張し、失うことを悲しみではなくむしろ自由への切符として推し進める、不思議の国への誘いにも思える。

⬛︎第二部 バベルの塔の狸
狸は全人類が持つ無意識下の存在。
狸は突然、現実世界に乗り込んでくる。そして現実世界を生きる『ぼく』の影を奪う。そして天国に行くためにはバベルの塔に入り、『ぼく』の目玉を捧げなければいけないと。
目は必要のないものであると言われる。
人間の視線はなによりも有毒なのだ。

⬛︎第三部 赤い繭
赤い繭は初期作品であり、読み終えて感じたことにはなるが赤い繭から読み始めても面白いと思う。比較的入り込みやすく、抽象的で想像力(創造力)が必要な箇所が少ないはずだ。
赤い繭、洪水、魔法のチョーク、事業の四つからなる物語だ。
壁に描いた絵が実物となる魔法のチョークの話は、悲しいはずなのに奇妙に終わる。終わり方が好きな作品だった。
特に聖書を少しシュールに読み解いていくことも面白いかもしれないと思わされた。

総じて、安部公房の描く喪失には何故か悲しみがない。どこか明るく喪失していく。
善を成さんと欲して悪をなす社会を無意識側から見るとどうなるか?
無意識を描く作家としては村上春樹も近いものがある。
よりリアリスティックで、文体が美しく、まるで時には哀しい音楽のように無意識に働きかけるのが村上作品だとすると、安部公房の作品は天地がひっくり返る。そしてどちらが上でどちらが下かがわからない。その概念までに疑いをかけてくる。まさにシュルレアリズム作家なのだ。
シュルレアリズムがフロイトとマルクス主義から生まれたということがよくわかる作品だと思う。
ルイス・ブニュエル、ダリなどの【あなたのそれは現実ですか?】という問いとも通じる。
ルネ・マグリットの顔のない紳士の絵を観たことがあるだろうか?安部公房の小説を読むと真っ先にあれが浮かぶ。
カフカほど物悲しさはなく、ルイス・キャロルの童話のような不気味さはあるけれど。

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