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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その17 倭国と邪馬台国の所在地

 ここまで読み解いてきた邪馬台国(邪馬壱国)に関する考察結果をおさらいして、邪馬台国の場所について見解を述べたいと思います。

□判明している倭国の場所

 まず『魏志倭人伝』に書かれている帯方郡(朝鮮半島にあった魏の拠点)から韓国を通って倭国へ至る過程で登場する対馬国、一大国(一支国)、末盧国、伊都国、奴国までの最初の5ヶ国は、九州北部にある。次の不弥国も、候補地の違いはあるが、九州北部にある国というのが一般的な解釈だ。

 「対馬国」は現在も対馬島の長崎県対馬市で名前も同じであり、韓国から日本に来る途中の島国であり、疑いようがない。一大国(一支国)も、対馬から倭国の間にある途中の島国であり、現在の壱岐島の長崎県壱岐市で他に候補がない。途中には、玄界灘の海の当時の名前も登場している。そして伊都国と思われている福岡県糸島からは、弥生時代の遺跡や古墳から当時の中国の漢の銅鏡が多数出土するなど当時の遺跡が多数見つかっている。福岡県福岡市の博多湾近くの平野だと考えられている奴国は、実際に「漢委奴国王の金印」が出土していて、弥生時代の遺跡、古墳が多数存在している。

 このように、現時点で『魏志倭人伝』に登場する倭国で、地域が特定され、物的な証拠も見つかっているのは、実は北部九州の国々だけである。少なくとも、これらの国々が倭国連合、女王国の一部であることは認識しておきたい。

 その1 倭の九州北部の国々
 その2 特別な伊都国
 その3 金印の奴国
 その10 印象深い単語と意味

□倭国の特徴

 『魏志倭人伝』には、「倭国は、暖かい。冬も夏も生野菜が食べれる。裸足で生活している。衣は単衣のようにし、真中に穴をあけて頭を通して着るだけである。稲、苧麻をうえ、桑・蚕を育て紡績する。」などの記載がある。

 これより、倭国は、暖かい温暖な気候であることが分かる。しかも、地球の気候学的には、日本の弥生時代の後期は、今よりも寒冷期に当たり、気温が数度低いそうだ。このことからも、日本の中でも暖かい地域、冬に一定期間の積雪がない地域だと考えられる。

 また、他にも、「倭人は水に潜って魚介類を採取して好んで食べる。体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。竹の矢は、あるいは鉄のやじり、あるいは骨のやじりを使う。桑と蚕を育て、糸を紡いで、織物を作る。人が死ぬと、棺(ひつぎ)はあるが槨(外側を囲う箱などの外壁)は無く、土で封じて塚をつくる。」等の記載もある。

 稲作ができて、海に潜って魚介類をとってなので、海岸線近くの平野部だと考えることができる。

 そして、稲作をする、蚕から織物を作る、矢に鉄のやじりを用いる、墓は土で作った塚であり、遺体を入れる棺はあるが、その棺を囲うような外側の木箱や石室はないことから、邪馬台国の遺跡からは、このような痕跡や墓が見つかるはずである。

 実際に九州北部からは、稲作の跡、農耕器具、鉄のやじり、絹織物、墳丘墓、円墳、外壁はない甕棺墓など、一致する内容物が多数出土している。なお、この時代の機内の墓には、棺(ひつぎ)があり、槨(外側の石室)もあるという特徴がある。

 その11 倭人の文化風習
 その15 邪馬台国が九州内にあった根拠
 その16 纒向遺跡と箸墓古墳

□邪馬台国の場所に関する考察

 ここで、邪馬台国(邪馬壱国)について、これまで考察してきた内容を簡単に振り返ってみたい。

 その5 邪馬壱国と邪馬台国論争

 ここからの内容は、あくまでも私の『魏志倭人伝』を読んで感じたことであり、一般的な通説などではない。実際にそうではなかった内容もあるかもしれないが、ここではこれまで考察してきた結果を信じて整理してみる。

①『魏志倭人伝』の記載内容自体は、ちゃんと信憑性がある。

 倭国とのやり取りにおいて、後の中国側の資料には中国側にとって都合が悪いことまでしっかり記録されている。倭国について、中国側に都合が良い勝手な記載が無い限りは、特に内容を改竄してると捉える必要性がない。中には、数字の誇張や中国側がそうだと考えていた不確かな内容もあるとは思う。

 その8 魏志倭人伝の信憑性

②『魏志倭人伝』に書かれている邪馬壱国(邪馬台国)への行程や、登場する距離や方位は、あまりあてにならない。

 主な理由は、当時の人々も正確に日本列島の大きさや、地図や距離や方向感が分かっていない。倭人は、倭国は、広くて遠いと大げさに伝える。魏からの侵略を警戒して正直に正しい最短ルートを伝えない。中国には、方万里の考えがあるので、一万里を超えたら、それはもう辺境の果ての遠さという意味だから。

 その9 邪馬台国への道のり

③邪馬台国、投馬国、奴国と、狗奴国は、人口の多い大国で広い平野だと思う。

 理由は、倭国の中で万を越える戸数を書かれている3カ国だから。その女王国連合と戦うことが出来る国だから大国で、それだけの人口が養える広い土地、稲作に適した土地があるから。

 その1 倭の九州北部の国々
 その6 邪馬台国と狗奴国

④伊都国と邪馬台国はそれほど遠くはなく、比較的近いと思う。

 理由は、中国からの使者が来たときには、伊都国に滞在するから。一大卒を置いて、周辺諸国を観察しているから。近すぎるとわざわざ伊都国でこれらを行う必要はなく、自国の邪馬台国でやれば良いから。また、遠すぎたら、一大卒の存在に諸国が日頃から恐れたり、従ったりしないと思うから。

 その3 金印の奴国
 その10 印象深い単語と意味
 
⑤邪馬台国と狗奴国はかなり近いと思う。

 理由は、両国が直接争っているから。かなり離れていたら、直接の対決はしないはず。日頃から不仲で争っているのは、お互いが近くにあり領土問題や食料問題や産物などで何らかの争いの火種があるから。

 その6 邪馬台国と狗奴国

⑥阿蘇山の近くや見える場所にも倭国があると思う。

 倭国の名前に3カ国も、蘇の字を用いている国が登場するから。名前から阿蘇山の近くや、阿蘇山が見えるや、何らかのゆかりがありそうだから。後の中国史には、阿蘇山だけが記載されてあるから。

 その4 女王国の国々

⑥奴国は女王国の境界の国だと思う。

 魏志倭人伝に境界の国だと明記されているから。倭国の境界の説明について、記載内容に矛盾は感じないから。境界の国という情報は正しいと思うから。

 その3 金印の奴国

⑦倭国は奴国を回るような円のような位置関係、ある程度の範囲内に倭国があると思う。

 奴国が二回登場するのは、ちょうど倭国が円形のような位置関係だから。倭国が狭い範囲内に繋がってや、点在して存在してると思うから。

 その3 金印の奴国

⑧倭国の東側にだけ倭種が住んでいると思う。

 魏志倭人伝に名前のない別の倭種の人が東側にいる事が記載されているから。つまり、他の方向には、海などで国が無いのか、または、倭国連合の国があったかだと思うから。

 その7 女王国以外の倭種の国々

⑨当時の国名と現在の地名とは必ずしも一致しないと思う。

 記載されている漢字は、中国側の当て字だから。古代中国語の発音と今の発音が同じとは限らないから。後に好字二文字化令(例えば、津(つ)が摂津(せっつ)、越(こし)が越前(えちぜん)、越後(えつご)などに変化。漢字一文字の地名を良い字の二文字に変える)が発令されて地名が変化するなど、律令制や時間の変化で地名が変化してるから。漢字の読み方の音も変化するから。

 その8 魏志倭人伝の信憑性

⑩様々な情報から総合的に考えて、倭国、邪馬台国は、北部九州にあると思う。

 倭国連合は近しい間柄の近隣諸国の関係。だから卑弥呼や台与(壱与)を王として共立できた。近畿内まで行くと倭国の数が足りない。中国側の史書には阿蘇山しか登場しない。九州以外なら、その他の日本にある特徴的な海、山、湖などが登場しない。北部九州の遺跡、出土品が『魏志倭人伝』に記載されている内容と一番一致している。鉄器の出土品は、北部九州が圧倒的に多い。古事記、日本書紀にも、天皇家は元々筑紫出身、筑紫に住んでたと書かれている。

 その12 倭国大乱と卑弥呼の誕生
 その13 壱与の誕生と卑弥呼の暗殺説
 その15 邪馬台国が九州内にあった根拠

 上記の考察結果を踏まえて、考えられるいくつかの案を想定してみる。

 なお、過去の連載で考察してきたように、狗奴国、侏儒国、裸国、黒歯国は、順に鉄器の出土数などから熊本、背の低い人骨の出土例からシラス台地や島国である鹿児島や周辺の島々、裸で生活出来る南国から沖縄、お歯黒の文化も見受けらる台湾あたりの想定となる。後者の二国は実在の特定の国を指していたのか、単に南には暖かい南国の国々やお歯黒文化がある国々があったという情報レベルの話しなのか分からないため、その可能性がある程度の想定である。

 その6 邪馬台国と狗奴国
 その15 邪馬台国が九州内にあった根拠
 その7 倭種とその他の国々

□倭国の範囲で判断に悩むポイント

 九州北部には、海外沿い、河川沿い、山間部の盆地などで、沢山の平野部があり、当時どこまでが倭国連合だったのか、判断するのは本当に難しい。本来は、縄文時代、弥生時代の遺跡から出土した品々、遺跡、墓などの特徴などから、丁寧な考古学的な分析の結果により、どのような範囲で交流があり、同じグループ圏内に属しているのか、別なのかの判断をすべきだと思う(例えば、以前に読んだ本では、北部九州では、福岡市博多近辺と北九州近辺と行橋市近辺あたりでは遺跡の特徴からは、3グループに別れて文化圏が形成されていて、でも、それぞれの交流も認められるというような本を読んだ記憶はあります)。

 私自身、そこまでの遺跡、出土品に関する専門的な知見や情報を持っていないため、考古学的な根拠は乏しいかもと思うが、地理地形や少ない遺跡等に関する知識などから、推測で仮定している。

◇北側

玄界灘沿いの福岡平野部 → 倭国
響灘、遠賀川沿いの直方平野部 → 別国
洞海湾、関門海峡沿いの平野部 → 別国
玄界灘沿いの古賀市や宗像市 → 倭国? 別国?

 古くからの遺跡もあり、古代から栄えていたわけだか、直方や北九州は、地域性や遺跡などから博多湾沿いとは文化圏が異なると思うので、倭国からは外している。

 奴国が女王国の境界であり、女王国の東側には別の倭種がいるというのが、この直方や北九州に相当するのではと思っている。もし、北九州地域も倭国だった場合は、本州の山口県側からが、東の別の倭種となる。

◇西側

有明海沿いの長崎や佐賀の平野部 → 倭国
大村湾沿いの平野部 → 別国? 

 長崎の内部や外側が倭国かどうかは正直分からないが、立地や距離的に違うと捉えてみた。

◇南側

有明海、筑後川沿いの筑紫平野部 → 倭国
有明海、菊池川沿いの菊池平野部 →狗奴国
島原湾沿いの熊本平野部 → 狗奴国
島原湾沿いの八代平野部 → 狗奴国

 倭国とは、抗争中の大国が狗奴国なわけであり、両者の位置関係が、北側と南側になるので、福岡県の南部か熊本に当たる島原湾沿いの平野部が狗奴国と考えている。ここも少し迷う所があり、どこまでが倭国で、どこからが狗奴国なのから菊池平野部の境界線が分からない。もしかしたら、思っている以上に南側まで倭国の勢力だったからこそ、争いが起きたのかもしれない。逆に思っている以上に狗奴国が福岡側の筑紫平野部まで北上してきており、争いが起きた可能性もある。

◇東側

周防灘沿いの今川水域の平野部 → 別国
周防灘沿いの山国川等の中津平野部 →別国
別府湾沿いの平野部 → 別国

 古くからの遺跡も多くあり、様々な伝承もあり、古代から栄えていたのは間違いないが、距離的に当初の倭国とは違う勢力だったと思う。

 実は博多湾沿いから、この周防灘沿いには、海沿いの北九州市を経由していくルートの他に、山間部の飯塚や田川を経由していくルートがある。案外このルートを経由して、山間部の国々との交流から北九州側よりも先に倭国との強い繋がりが出来たかもしれない。もちろん、この当たりの国々と北九州との繋がりもあったと思う。

 これは立地条件からの地政学的な勝手な想像だが、博多湾沿・筑紫平野の勢力と、遠賀川・北九州市の勢力と、今川・行橋の勢力があったとすると、当初は、それぞれが適度に距離が離れているため、うまくバランスがとれて交流していたような気がする。もし、やがて争う関係があったとすると、距離が近い同士の可能性が高く、福岡勢力と北九州、北九州と行橋がそれぞれで争いがあり、離れていてお互いの敵が同一である福岡勢力と行橋勢力は仲が良い関係だったのではと思う。山間部の飯塚・田川を経由すれば、北九州を経由せずに交流が可能と思う。

 この北九州市から南に下った苅田・行橋の地域には、「京都(みやこ)郡」という地域があります。かつての豊前国の中心地であり、律令制の時代の国府跡も見つかっています。
豊前国風土記』には、「宮処(みやこ)郡」として登場しており、「いにしえ、天孫がここから出発して、日向の旧都に天降なさった。おそらくは、天照大御神がいますところであろあうか、云々」という意味深な記述が残っています。
 このような伝承が残っているくらい古くからの歴史があり、記録上の天孫降臨の候補地の1つであり、古くから栄えていた町があり、重要な場所となります。

 なお、この京都郡には、石塚山古墳という3世紀中頃~4世紀初頭頃に作られたとされる日本最古級の全長120メートルの前方後円墳の古墳もあります。

◇中央側

久留米市 → 倭国
飯塚市 → 別国? 倭国?
田川市 → 別国?
日田市 → 倭国?
阿蘇市 → 狗奴国? 別国? 倭国?

 どちらの可能性もあると思うが、現時点では、上記のような範囲が倭国であったと思う。境界あたりの国々は、どちらの可能性や、時代劇によって女王国連合に入ったり、入ってなかったりで異なる可能性もあると思う。また、境界の国々の他国との争いも、当然あり、倭国大乱に含まれると考えている。

 このように当初の倭国とは、かなり限られた九州北部の範囲だったと思っている。

 一方で、『古事記や日本書記』を読んでや、日本古来の神社、天皇ゆかりの神社などからも、大分や宮崎にも、由縁がありそうであり、最終的には、広がりを見せていった可能性が高いと思っている。

 このため、以下では、倭国連合の最小想定範囲(最初の時代?)と、最大想定範囲(最後の時代?)について、記載してみたい。

 ここで九州の大分県日田市の「ダンワラ古墳」で出土したとされる珍しい中国産の鏡の出土品をご紹介します。現在は、国の重要文化財に指定されており、九州国立博物館で展示されています。

 この鏡は「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」と名付けられた鉄鏡で、全面に金銀玉による装飾や龍文や爪などが象嵌されており、漢代の書体で子孫繁栄を祈願する「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれているのが読みとれています。鏡の造りや文字等より、中国の漢の時代に作られた鏡だと考えられています。

 このような金銀で象嵌された鏡は、実は日本国内では、この鏡以外には未だに見つかっておらず、唯一の品であり、また中国内においてさえ稀な鏡の出土例となります。そして、最近に中国の漢〜三国志時代の魏の創始者である曹操の墓を発掘した結果、中国の研究者より、曹操の墓から出土した鏡が、この日本の日田で見つかった「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」に酷似しているという発表をされてます。

 このような大変貴重な鏡のため、当時の倭国のかなり高貴な立場の人物が保持していた鏡であり、魏の皇帝から倭国王へ下賜された鏡ではないかという考えもあります。つまり、この当時にこの鏡を持てるとすると、邪馬台国(邪馬壱国)の女王である卑弥呼(あるいは、台与(壱与)でしょうか)くらいしかいないのではないのかと考える説もあります。

 九州中央側の大分県日田市においても、中国の漢や魏、倭国の邪馬台国、卑弥呼を連想するような、このような貴重な鏡が出土している、当時の重要な場所だった可能性があることをお伝えしておきます。

□邪馬台国(邪馬壱国)の場所は

 これまでの考察により、邪馬台国の比定地となる場所は、以下のように考えています。

 想定案1、最小範囲、初期の頃

 先に記載した上記の倭国の範囲内で、福岡平野、筑紫平野部を中心とした国々が対象。

 想定案2、最大範囲、最後の頃

 先に記載した上記に記載した別国を含んだ国々。つまり、福岡平野や筑紫平野一帯に加えて、響灘、遠賀川沿いの直方平野部、周防灘沿いの福岡県や大分県も倭国、そして九州王朝、筑紫国へ。

 私は、『魏志倭人伝』に記載されていて、漢や魏や晋への朝貢を行っていた倭国(女王国、邪馬台国を含む)が中心となり、やがて九州北部の王朝や筑紫国になったと考えている。

 このため、邪馬台国は、九州最大の平野である筑紫平野の中にあっと思うその場所としては、生活に必要な資源、食料や水が容易に確保できる海、山、川が近くにあり、稲作に適した広い平野部だったと思う。ここは九州の穀倉地帯、米どころ等とも呼ばれる地域だ。だからこそ、一番の人口の多い大国になれた。また倭国大乱時代の国の守りやすさを考えると、山側が後ろにあるなど何らか立地上の守りやすさもあったと思う。

 特に自信はないが、邪馬台国の場所は、現在でいうと、みやま市、筑後市、大牟田市、佐賀市の当たり(つまり福岡県か佐賀県)のような気がする(ちなみに、吉野ヶ里遺跡平塚川添遺跡なども比較的近くに存在している)。この近くには、柳川市もあり古くは山門郡(ヤマトぐん)があった場所だが、特に山門郡にはこだわりはない。必ずしも、昔の古代中国語の発音で、邪馬台や邪馬壱をヤマトという発音だったとは捉えていないからだ。もちろん、山門郡も有力な候補ではある。

 他には、もっと内陸部側に邪馬台国があり、『魏志倭人伝』で邪馬台国の後に多数の倭国の国々の名前が書かれていたのは、それらの国々がもっと奥の筑紫平野部の有明海側にあったからだと考えると、内陸部側の朝倉市、久留米市、鳥栖市(福岡県や佐賀県)あたりだった可能性も十分あると思う。

 特に朝倉市にある甘木周辺の地名は、大和周辺の地名と位置関係と名称が多く一致している事が発見されており、東遷した証拠だという説がある。このあたりには、日向石という地名も残っている。

 福岡県の朝倉市の山田(ヤマダ)という地域には、「長田大塚古墳」という直径が140メートル程の大きな古墳があります。こちらは、九州でも最大規模の円墳です。以前より、邪馬台はヤマダのことであり、魏志倭人伝に記載のある「大作冢径百余歩(計百余歩の大きな塚を作った)」の内容などから、この長田大塚古墳が卑弥呼の墓だと考えている人達もいるようです。個人所有の敷地となっているため、本格的な発掘調査などが行われていないようです。もしかしたら、ここが卑弥呼の墓かもと考えたら、発掘による調査が待ち望まれます。

 古くから、邪馬台国の九州説の場合には、有力な候補地域が、筑紫平野であり、私もそこは同じ見解だ。

 いずれにせよ、伊都国の南にあると書かれている邪馬台国(邪馬壱国)、女王国の境界とされる奴国、女王国の南の抗争中の狗奴国、伊都国に一大卒を配置して諸国を監視しつつ、帯方郡との交流の拠点とした点など、全てが一番しっくりするのである。

 特にこの場所にあると、伊都国の存在意義が際立つと思っている。なぜ伊都国が中国からの使者が必ず留まる外交上の拠点になるのか、それは、有明海側または内陸部に邪馬台国(邪馬壱国)があるからである。長崎の海側の外側を遠回りし船で来て、内海の遠浅の有明海に船で行くのはかなり非効率で難しい。そのため、伊都国に船を留めて、陸路で大宰府や久留米を抜けて南下して邪馬台国に行くか、あるいは伊都国で待ち、伝令を出してもらい邪馬台国からの役人が来るのを待った方が良い。

 逆に、機内の大和に邪馬台国があるならば、そもそも毎回伊都国だけに留まる必要性がない。その時々の状況で、すぐに、船で北九州、山口、広島、岡山、兵庫、大阪と、海岸沿いの各拠点で補給や休憩をしながら、近畿に向かえば良い話しだ。

 実際には、倭国(女王国)が北部九州内にあった事が分かる事は、歴史上の大きな意味があると思うが、その中で首都に当たり、卑弥呼が暮したと思われる邪馬台国(邪馬壱国)がどの辺(郡や町)にあったのかの具体的な場所が分かることは、局所的な話しであり、歴史を大局的に捉えると特に重要ではないと思う。(邪馬台国発祥の地として、新たな観光名所が生まれそこの地域活性にはかなり貢献しそうです。)

⬛次回は、中国側正史と日本神話での倭国について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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