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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その15 邪馬台国が九州内にあった根拠

 今回は、邪馬台国はどこかの絞り込みのため、ここで、まず邪馬台国が九州内にあると考える理由について述べてみたいと思います。

□国の数が少なすぎる

 『魏志倭人伝』によると、倭国は約30ヶ国だ。同じ『三国志の烏丸鮮卑東夷伝』内には、朝鮮半島の南部の地域の今の韓国に相当する「韓」国についての説明も記載されている。「韓は、南は倭と境を接していて、馬韓、辰韓、弁韓(弁辰)の三種類に別れている。馬韓は五十与国、辰韓ははじめは六国で後に分かれて十二国、弁辰(辰韓)も十二国」とある。

 つまり、韓は合計すると約80ヶ国だ。仮に倭国が日本の近畿地方までだとすると、当時の国の規模らして、倭国が少なくとも百ヵ国以上はないと、数が合わない。実際に、九州地方、中国・四国地方、近畿地方で、これまでに発掘されている主要な弥生時代の遺跡だけでも、それぞれに20箇所程づつは十分にあり、近畿地方まで行くと国の数が全く合わない。この時代は遺跡からも、九州北部だけでも、30ヵ国は十分に存在していたと考えられている。また、途中にあるはずの出雲、吉備、安芸や、伊予、讃岐、阿波などを思わせる国名が1つもないことも違和感がある。

 実際に、邪馬台国の機内説の場合、不弥国は、九州北部(直方、北九州、行橋、宇佐辺り)が多い見解で、実は、そこから奈良の邪馬台国までの山口から大阪までの長い間で、残りは投馬国の1カ国しかなく、吉備や安芸や出雲など、様々な説があるものの、どこに配置しても国の数が全く足りておらず、違和感がある。山口から兵庫あたりまでの西日本の広い範囲を投馬国と考える案もあるようだが、もしそうならば、日本一の圧倒的な国土の広さを持つ強力な国であり、逆に周辺にある畿内も北部北九も投馬国の支配下に置かれてしまうだろう。

 くどいようだが、邪馬台国(邪馬壱国)は、魏志倭人伝に登場する8番目の倭国の国となる。その5番目(奴国)の国までは北部九州が確実視されていて、6番目(不弥国)の国も北部九州にある説が有力だ。その状況下で、8番目の邪馬台国が突然に畿内となるのはかなり不自然であり、北部九州にあると考えた方がよほど自然だ。

※北部九州に比定される国々については、以下を参照。

魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その1 倭の九州北部の国々

 もう1つ注目したいのは、お隣の韓国では、この時代でも、元々は六国だったのが、さらに分かれて十二国になっていることだ。現代人の目線では、ついつい小さな国々が、段々と力の強い国に統合されていき、1つ1つの国が大きくなり国の数はどんどん減っていき、やがて1つになるような一直線なイメージを持ってしまう。しかし、確かに、その過程内でも、隣接国の力関係、方向性の違い、文化や宗教の相違などで、一次的にくっついたり離れたりを繰り返しているような過程があると思う。

□鉄の出土は、北部九州に集中

 卑弥呼の時代の弥生時代に、実際に鉄製品が多く出土している県は、1位福岡、2位熊本、3位大分となる。特に福岡と熊本が300件以上と圧倒的に多い。この上位3県の鉄製品の合計出土数は、他の全ての県の出土数を足しても、勝てないくらいの差がある。当時は、北部九州でほぼ鉄器を独占しているような状況だ。なお、奈良県では、鉄器は数件の出土例という規模感だ。(実は鉄器だけではなく、『魏志倭人伝』に登場する蚕、絹、布等の織物に関する出土品も北部九州に多く、他地域は少ないという全く同じ傾向があります。その他にも、この時代での文字を書いた事が示唆される硯と砥石の出土も、福岡県を中心とした九州からの出土がほとんどで、圧倒的に多く時期も早いです。)

 『三国志 東夷伝』には、韓国の説明内に「弁辰(朝鮮半島の南部)の国々は、鉄を産出し、韓、濊(わい)、倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商品取引にみな鉄を使い、通貨の代わりに用いている」という記載がある。『魏志倭人伝』でも、倭人が矢じりに鉄を用いている記述がある。当時の鉄の貴重さと、倭人が鉄を取得して活用していることが良く分かる。

 当時、鉄は剣や槍や弓矢の矢じりなどで戦争時の強力な武器となり、また、普段の生活では食料調達のための獲物の獲得、農具に用いて農地の開拓など、国力の発展に欠かせない新しい文明の技術だと思う。

 『魏志倭人伝』には、「邪馬台国から伊都国に一大卒が置かれ、九州北部の諸国を監視していて、諸国が恐れていた」という記載もある。

 過去の歴史において、明らかに武力で劣る方が武力で勝る方を倒した事例はまず無い。当然、武力で勝る方が、相手側を不必要に恐れる道理もない。

 つまり、近畿(あるいは九州以外)に邪馬台国があると、鉄を用いている事との辻褄が合わず、北部九州にあるとすると話しが一致する事になる。特に邪馬台と敵対していた狗奴国が南側にある熊本だとすると立地的にも一致する。

□特徴的な海や島が登場してこない

 仮に、近畿地方に邪馬台国がある場合、関門海峡のような狭い海、渦潮の発生する激流を抜け、瀬戸内海を抜けて移動するのが自然だと思う。日本海、玄界灘のような波が強い外海とはまるで違う穏やかな瀬戸内海の内海を抜けて、百を越えるような多数の大小の島々をみて、四国の大陸のような巨大な島、淡路島のような大きな島を通過することになる。中国、韓国とは異なる特徴の地理であり、普段は決して見ることがない風景だ。このような特徴的な場所を通過していて、それを連想させるような記載が1つも残っていないという事が、信じられない。もし、近畿ならば、対馬国、一大国のように、島である淡路国とかが登場してくるはずだ。

 仮に地名や島などの名前が書かれてなくても、まるで川のように狭い海を抜けて、渦巻く潮を抜けて、百余ある島々を通り、まるで湖のような穏やかな海を水行し、大陸と思うような巨大な島があったなど、何かが書かれていてもおかしくない。仮に日本海側から近畿を目指し、滋賀県の琵琶湖周りや、途中にある山脈を越える行き方でも同様で、海のように大きな波もある湖や険しい山々を越えてのような特徴的な記載が無いのがおかしいと思う。

 上記の補足です。『魏志倭人伝』に書かれている邪馬台国への道のりで、最後に陸行1ヶ月が出てくるので、それは日本海側から奈良にいく行き方だからだという説があります。このため、上記の日本海側からのルートにも触れています。しかしながら、もし機内に邪馬台国があったと仮定すると、畿内から九州北部までを勢力圏に抑えていて、九州北部の伊都国および、その周辺国でさえにらみを効かせている邪馬台国が、あえて遠回りで荒波の日本海側を行き、その船を置いて、献上品や下賜品など多数の荷物を持った状態で、最後に長い陸行で山を越えて畿内へ行く行き方になります。このような、不便、手間やリスクを侵す必要が全くないため、このルートでの行き方の可能性はないと思います。例えば、後の日本からの遣唐使船も、大阪湾を出て瀬戸内海を通るルートとされています。

 実際に、魏志倭人伝には、「瀚海(玄界灘)」のことが書かれているし、後の時代の『隋書』等には、倭国にある「阿蘇山」のことが書かれている。つまり、何も書かれていないのは、見聞きしていない、そこではないからだと思う。

 同様に南九州の桜島の周辺に邪馬台国があったこともないと思う。桜島というとても特徴的な活火山のある地域、桜島の影響でシラス台地がある場所では、必ず、火をふく山の麓とか、水を吸う痩せた土地とかが何らかの記述により登場すると思う。実際にシラス台地では稲作も不向きで、条件が合わない。

□三角縁神獣鏡は卑弥呼の貰った鏡ではないはず

 古くからの機内説の根拠の1つに、三角縁神獣鏡が、近畿の遺跡を中心に多数出土しており、これが卑弥呼が魏から送られた鏡百枚にあたるという説がある。

 しかし、この鏡は既に国内で500枚以上の出土品である。しかも、その多くは魏の滅んだあとの時代である四世紀の古墳から出土している。魏や卑弥呼とは時代も違う。逆に中国(北部の魏)では三角縁神獣鏡が出土していない。似た鏡では、当時の中国南部の呉(魏の敵対国)から出土した神獣鏡がサイズや紋様等の造りが日本の三角縁神獣鏡と似ているそうだ。中国側では、鏡の様式から三角縁神獣鏡は、日本に渡った呉の鏡職人が日本で製作したものと判断している学者もいて、そもそも作った年月を鏡に記すのも、魏ではなく呉(呉は魏の敵対国)の風習だそうだ。朝鮮半島の方にも日本の三角縁神獣鏡とは異なる形の神獣鏡は見つかっているようだ。となると、呉や朝鮮半島で作られていたのか、呉から日本へ移り住んだ技術者達が、あるいはその人々から教えて貰った当時の日本の人達が、中国や朝鮮半島から輸入した金属や道具等を用いて作成した鏡だと思う。後に、国産の金属や道具で製造出来るようになったのかもしれない。

 実は、三角縁神獣鏡には、卑弥呼が魏に使者を送った「景初三年」の魏の年号が書かれているものもあれば、景初は三年で終了しているのに、「景初四年」という実在しない年号の鏡もある。知らずに作ったとしか思えない。また、鏡に書かれている銘文が非常に稚拙なのも特徴で、例えば「陳(や張や吾等がある)がこの鏡を作った。この鏡を持てば子孫が繁栄する。位が三公(中国王朝の最高位の大臣の役職)にまで至る」のような鏡を作った職人の名前や、鏡を持てば良い事があるのような謳い文句が書かれている。まるでお土産品や庶民間でのプレゼントの品のようで、とても、中国王朝の皇帝が、倭国の王にわざわざ下賜する鏡の品質とは思えない。中国王朝が倭国王に朝貢の返礼品に渡す品にあえて文字を刻むならば、中国王朝の皇帝の徳の偉大さ、忠節を尽くし忠勤に励むこと、朝貢への労いの言葉など、他にふさわしい言葉があるはずだ。少なくとも中国皇帝が倭国王に下賜するような言葉が書かれることはあったとしても、陳さんや張さんが作った鏡だ、とはならないはずた。

 なお、実際の卑弥呼の鏡百枚は、後漢時代からの鏡であり中国や朝鮮半島、日本でも出土している「内行花文鏡や方格規矩鏡」であった可能性が高いと考えられる。これらの鏡は国内では伊都国を中心とした九州北部からの出土が非常に多い(有名なのは、糸島の平原遺跡三雲南小路遺跡等)。朝貢は、中国の周辺諸国の各国が実施している。返礼品、褒美の品物も、国による差はあるはずだか、だいたい同じような品物になるはずだ。三角縁神獣鏡がその鏡なら、中国(魏)だけでなく、韓国などの周辺諸国でも同じ鏡が出土しておかしくない。実際には日本以外からは出土していない。少なくとも、辺境の東夷にあたる倭国にだけ、わざわざ専用の鏡を作って、他の国には別の鏡をという事はないと思う。

 ということで、どう考えても、三角縁神獣鏡は、魏の鏡、卑弥呼の鏡とは無関係の鏡で、初期には、呉か朝鮮半島から入ってきたものがあったかもしれないが、呉の鏡職人が関与(渡来した人達が製造や製造方法を倭人に指導)して、主に四世紀におそらく国内で造られた鏡ではないかと思う。

□放射性炭素年代測定による結果、機内より九州の方が古くから弥生文化がスタート

 「放射性炭素年代測定」(炭素測定、C14、14C)という理科学的な遺跡品(炭素を含む物)の年代測定方法がある。これは、地球上の動植物が等しく保有している炭素14の値が、死後にある程度一定の速度で減少していく性質を利用し、炭素14の半減期が5,730年であることを利用し、出土した遺跡品の年代測定を行う方法である。既に世界の考古学では常識で、信頼出来る一般的な年代測定法として用いられている。

 実は、日本の考古学では、古くから、出土した土器の形状など、出土品を元にした考察、縄文→弥生→古墳→飛鳥時代のように考えられる時代の流れがあり、この中で編年式で、考古学者の知識や地層などから、人の判断に基づく職人技による年代比定が一般的だったそうだ。分かりにくいと思うので、ざっくりな表現をすると、「まず畿内を中心にした大和政権が全国統一して倭国、日本が出来たというベースの考え方がある。仮に奈良の古墳遺跡と出土した品物があり、それが文献や地層などから五世紀半ばの物だと推定される。次に、それと同じや、それと類形の古墳や出土品が九州や中国四国や関東で見つかったら、それは、少なくとも五世紀半ば以降や六世紀の遺跡の扱いになる。なぜならば、畿内が発祥地だから。畿内が全国統一してからだから。」という考え方だ。

 この考え方の危険性は説明するまでもなく分かると思う。実際に、近畿以外の場所にも、縄文、弥生から多数の遺跡があり、古代より人類が暮らして栄えていた事は分かっている。仮に、九州や関東の方が発祥だったら、あるいは同時期に各地で生まれていたら、仮に朝鮮半島から九州や出雲や吉備に伝わり、それが畿内に伝わっていたら、年代は逆転してしまう。

 そして、近年は、日本の考古学会にもこの炭素14による年代測定が導入され、徐々に全国の遺跡や出土品の年代測定が行われてきているようだ。この測定の結果、畿内は、例外(従来より古くなる)もあったが、概ねこれまで考えられていた年代とほぼ同じような結果が得られ(これはこれで、日本の考古学者の優秀さ、職人技の凄いことだと思う)、九州や関東は、考えられていた年代より、軒並みかなり古い結果(100年以上、200年以上、もっとはるかに古いケースも)となった。この結果、九州地域では、縄文時代から稲作が始まっており、紀元前500年以上前から弥生文化が始まっていて、200年頃には、いち早く古墳時代が始まっていた事が分かってきた。実際に250年頃になった卑弥呼の死んだ際にも墓を作っている。従来からの通説的には、紀元前300年頃から弥生時代が始まり、250年や300年頃から古墳時代が始まったとされている。

 ここで何が言いたいかというと、世界常識の最新の科学的な遺跡、遺物の年代測定の結果では、近畿より九州の方が明らかに古くから先に弥生時代、そして古墳時代が始まっていた。その最初の国々である倭国、その主たる女王国、邪馬台国が、先に始まっている九州にある方が、当時の弥生文化の後発にあたる近畿にあるより、明らかに自然だという事だ。少なくとも、倭国大乱時代から邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送った3世紀半ば以前においては、畿内で九州を越えるような規模や発展を表すような集落の遺跡が見つかった話しは聞いたことがない。

□装飾古墳は九州に圧倒的に多数存在

 古墳時代の古墳の特徴の1つに、4世紀から7世紀にかけて作成されていた「装飾古墳」という種類がある。装飾古墳とは、古墳の中の遺体を安置する部屋や石室などに、絵画や彫物などにより綺麗に装飾されたタイプの古墳だ。主に横穴式の作りで、外部の蓋となる壁石を外した状態で外から見たときに、描かれた飾りが見えるようになっている。非常に芸術的で太古の人々の豊かな芸術性や表現力を感じる事が出来る。この装飾古墳は、圧倒的に九州の福岡県、熊本県に多く存在しており、他には、関東地方や東北地方、あるいは出雲地方にもまとまって存在している。福岡県は、倭国連合の数々の国が存在していた場所であり、熊本県は、その敵対していたライバル国のがあったと考えることが出来る場所だ。しかしながら、近畿のヤマト政権の古墳には、無いと言えるほどほとんど存在していない。このため、古墳文化は畿内から、九州や関東に広まったわけではなく、むしろ別々の地域でそれぞれに発達したのか、九州の倭国が発祥で関東地方などに広まったことを暗示していると思う。

 近畿内のヤマト政権が全国統一により古墳文化を広めたならば、むしろ装飾古墳ではない古墳が全国に広まっていくはずだからた。そうではないということは、九州と畿内で別の文化圏を持つ勢力がそれぞれに存在していたことになり、倭国は、既に場所が比定されている国々が存在していた九州北部の勢力だったことを示していると思う。

 なお、弥生時代の古墳・遺跡のお墓についても、棺はあるが外壁(石室)などが無いという『魏志倭人伝』に記載されている特徴が、甕棺墓と呼ばれている九州北部の遺跡には多くあり、お墓の記述内容と一致している。逆に機内の古墳・遺跡では、遺体を安置する石室があるのが一般的で、この点も、邪馬台国の特徴とは異なっている。

□日本書紀、古事記に自分たちのルーツは邪馬台国や卑弥呼だという記載なし

 ここは逆説的に捉えての考察となる。日本書紀、古事記が作成されたのは、日本の神話や日本の歴史や天皇家の由緒正しさや、ヤマト政権の正当性や、天皇家の偉大さ等を内外に説明や認めさせる目的があったはずだ。そして、日本書紀、古事記がまとめられたときには、当然、元や参考となる日本や中国の文献など、様々な当時のあらゆる文献が参照された。そもそも、日本書紀の原文を漢文で書いたのは、その文法や漢文の正しさから渡来人の中国人だともされている。また、ヤマト政権の王族、豪族の知識人ならば、当然、自分たちの家柄、先祖のルーツについての一族の口伝による伝承知識もあるはずだ。当時の編纂者達も、中国の書物、魏志倭人伝には、倭国、奴国、邪馬台国、女王卑弥呼、台与などの存在が記載されてあることは、当然分かっていたはずだ。実際に、『日本書紀』には、中国の『晋書』の「倭国の女王が度々朝貢してきた」という記載が書かれている。にも関わらず、『日本書紀』、『古事記』に邪馬台国、卑弥呼等の説明が一度も登場しないのは、逆にヤマト政権とは、本来のルーツが異なっているからだとしか思えない。もし、倭国、女王国、邪馬台国が、そのまま畿内のヤマト政権のルーツであるならば、そう記載すれば、1番話が早いからだ。そう書かずに、『日本書紀』では、わざわざ、遠回しに「気息足姫尊(神功皇后):おきながたらしひめのみこと」を倭国の女王(卑弥呼)と遠回しに受け取れるかのような匂わせる形で記載している。なお、『古事記』には、「おきながたらしひめのみこと:息長帯日売命(神功皇后)」について記載されている段落は無い。

 邪馬台国や卑弥呼から繋がるヤマト政権であることが明確に触れていないことは、歴史を語る上でいかにも不自然であり、このことからも、逆に本当は直接的な先祖ではなかったという、事実を隠したかったからということだと思う。

□その他の場所だと

 その他の場所の例を上げると、以下のような諸説があり、本当に多数の説がある。全ては書けないので、一部のみ記載している。

  • 天孫降臨した場所、高天原のある宮崎、大分、熊本あるいは鹿児島が邪馬台国だという説

  • 古より神々のいた由緒がある地で、比売大神、神功皇后を祭っていて、今でも全国の八幡宮の総本社である宇佐神宮のある大分説

  • 古事記に記載のある豊(トヨ)の神々の国である福岡の豊前、豊後、京都郡あたりという説

  • 邪馬台国の邪馬はヤバと読むのが正しくこの読み名の通り、大分県の耶馬渓(ヤバケイ)、中津辺りにあった国説

  • 魏志倭人伝に記載のある倭人の全身入れ墨、温暖な気候や暮らしぶり、行程で水行20日や10日などから邪馬台国は沖縄にあった国説

  • 魏志倭人伝に記載のある行程の通りにいくと実は四国になり、四国がまるごと邪馬台国だったや、四国に邪馬台国とその他の女王国があったという説

  • 魏志倭人伝には牛馬がいないと書かれており、当時の四国にはいなかった(九州北部や近畿では馬具の出土品などから既にいたと考えられる)から四国説

  • 大国主命がいた出雲の国譲り神話があり、出雲大社がある出雲も島根説

  • 古くから渡来人が移り住んで栄えていた越前、越後の越(こし)の国、行程的にも距離感の道のりが丁度合うという説

 ここでは、九州北部以外のいくつかの候補地説について少しだけ考察してみる。

 もしも、肥後国、鹿児島県に邪馬台国があったとすると、年中温暖な気候はマッチする。しかし、南側に狗奴国となる敵の国がいない(海か島しかない)、シラス台地で稲が育たないため大規模な人口が暮らせない、あれほど目立つ桜島が記録に出てこないのが不自然、東側には、別の倭種が存在しない(海)、鹿児島では鉄器の出土品が少ないなどの点があり、鹿児島県には邪馬台国は無かったと思う。

 もしも、出雲に邪馬台国があったとすると、中国との行来がしやすいこと、古代にかなり栄えていた国があったことはマッチする。かなりの大国だった遺跡あとや、戦乱があったと思われる痕跡も見つかっている。しかし、東西の地域の国々の連携や争いはあったとしても、倭国・女王国連合国を築くような多数の周辺国は周りに無く、争っている狗奴国があるはずの南側には深い山々しかなく、狗奴国が存在しない。海に面した汽水域の湖である特徴のある宍道湖も登場してこない。鉄器の出土品も北部九州に比べて圧倒的に少なく、魏志倭人伝の特徴とは一致しない。後の出雲の国譲りの神話にあるように、この近辺で独立した国があり、古くから栄えていたのは間違いないが、特徴的に邪馬台国とは別の勢力だと思う。

 もしも、瀬戸内海側の中国四国地方だったら、温暖な気候、魚を取る生活、南に四国側に狗奴国、東側には別の倭人など、気候や地理的には魏志倭人伝の記載内容に合う点はかなり多いと思う。古くからの遺跡も多数見つからている。本州側には、山口や広島や呉、尾道や福山、岡山や倉敷など、四国側には、愛媛、香川、さらには徳島、高知があり、人々が暮らせるだけの土壌はある。しかし、位置や立地上から日本の歴史上、四国が最も栄えた時期はなく、卑弥呼の時代だけ、首都になる程人口増加し栄えれる条件がない。また、最大の特徴である必ず通過するはずの関門海峡や、瀬戸内海とその間にある大小多数の島々が登場しない点、北部九州のように鉄器が多数出土していないことなど、違和感を感じる部分がかなりある。少なくとも、北部九州の方が全てにおいて、状況、条件がより一致するのである。

 もしも、越前、越中、越後に邪馬台国があった場合、東側に別の倭人は、見つかりそうだ。朝鮮半島やロシアとの往来も可能だったと思う。中国大陸南部やベトナム北部に広範囲に暮らしていた稲作文化を持つ越人が日本にやって来て帰化して出来てきたルーツには何らかの繋がりがあるかもしれない。しかし、これらの地方は、冬は日本海側の寒い豪雪地域だ。日本の弥生時代は、いま現在よりも寒冷期にあたり、いまより数度は寒いと思われている。倭国の年中温暖な気候での暮らしとはマッチしない。また、南側には、日本山脈があり、狗奴国に相当する国が見当たらない。

 その他にも、暖かい気候や弥生時代の遺跡などから、沖縄、宮崎、高知や、広大な土地や遺跡などから関東や東海や東北などの説もあるが、周りに女王国や狗奴国や別の倭種の存在出来るだけの地理がなかったり、年中、薄着、裸足で冬でも生野菜が食べれる温暖な気候が合わなったり、鉄器や織物の出土品がなかったり、魏や朝鮮半島との交流に不向きな場所や交流を示す痕跡がなかったりで、特徴や条件が一致しない。

 上記のいずれの場所にせよ、伊都国に一大卒をおいて、諸国を統率する、監視する、そして諸国が恐れるのに適した場所には感じられない。そして、弥生時代の遺跡からで、大規模な環壕集落、城柵、楼観、多数の銅鏡、刀、矢じり、勾玉、ガラスの管玉、織物、布製品、外壁・石室は無い棺だけのお墓など、『魏志倭人伝』に登場する物が、全国で一番多く見つかっているのが北部九州だと思う。

 邪馬台国が九州には無かった説の根拠として、昔から言われている1番の理由は、魏志倭人伝に記載されている、以下の記載内容より距離的に遠いため、邪馬台国は、九州内ではなく、もっと遠く(例えば、畿内、越、中国・四国地方、関東など)にあるはずという理由です。

南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

結局、この上記の原文をどう約すのか、どう解釈するかによって答えが変わってきます。例えば、2行目を例にすると以下のような感じです。

・水行なら10日または陸行なら1月なのか、
 水行10日して、その後にさらに陸行1月なのか。
・帯方群から出発して水行十日陸行一月なのか、
 投馬国から出発して水行十日陸行一月なのか。
・陸行一月が正しいのか、陸行一日だったのが、
 記載時や写本の転記時の転記間違いなのか。
・当時の中国人は、自分達の大陸と同じように
 九州を大国と思っていたのか、正しく小さな島
 だと分かっていたのか。
・実際に使者が邪馬台国に行った体験を書いた
 のか、倭人の説明を聞いて書いたものなのか。
・倭人が正しく最短ルートを伝えたのか、
 三国志の戦乱の戦闘国である魏を警戒し、
 遠回しの道のりで使者を連れていくや、
 あやふやな道のりを説明したのか。
・ここで書かれている水行が、例えば私の考える伊都国から東に行くのではなく、有明海海側にある邪馬台国に行くため、そこから船は西側に戻り、今度は長崎の外周をぐるっと周り南下して、内海の有明海側に移動する場合だったら水行は長くとも距離はさほど離れない等。

このように、実はいかようにでも捉えることが可能なため、この記載内容の距離感についてのみ考察や議論しても、正しいと断定出来る答えは無いとは思います。このため、この記述より距離的に遠いはずという理由だけで、九州ではないと断定されるものでは無いと思っています。

 邪馬台国が九州には無かった説で、あともう1つの定番の理由は、北部九州は、ヤマト政権が起こった畿内ではないと言う理由からです。古代の日本の中心、ヤマト政権の舞台は近畿奈良なのに、日本の正式な正史である『日本書紀』にもそう書かれているのに、古墳時代、飛鳥時代の遺跡だって沢山あるのに、その前の前身の時代に当たる倭国、邪馬台国が北部九州の田舎にあるわけがないと言うような考え方です。これに対する見解は、これまで邪馬台国が北部九州にあると思うと説明してきた内容になります。

□縄文、弥生時代は、日本中に遺跡がある

 最後に、倭国、女王国、邪馬台国は、九州にあったと思う理由を書いてみたが、これは、決して古代に九州だけが栄えていたとか、九州だけ文明、文化があっとか、他には大国や文明が無かったとか、九州が日本全国を支配していたとかを述べているわけではないことを強調しておく。近畿地方にも、中国四国地方にも関東地方にも、北陸地方にも、立派な縄文文化、弥生文化を示す遺跡は沢山見つかっている。全国各地に大規模な集落跡なども見つかっている。もちろん九州地方も同じだ。それぞれに異なる点や特徴があると思う。

 ここで述べているのは、日本中に縄文時代、弥生時代の集落があり、大小様々な国々があった、お互いになんらかの交流等もあり、それぞれの国々が栄えていたと思っているが、少なくとも、その中で漢や魏へ朝貢して『魏志倭人伝』に書かれている倭国、邪馬台国というのは、記載内容との一致により、その中の北部九州勢力の国々だと思う(私がそう思っているだけです。結論の断定は出来ません。)ということである。誤解がないように明記しておく。

⬛次回は、纏向遺跡と箸墓古墳について

 次回へ続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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