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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その7 女王国以外の倭種の国々

 こここでは『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の倭国連合とは異なる別の国々について考察します。

□倭国以外の国々

魏志倭人伝には、以下のような国々の記載があるる。

国名の記載がない国(31番目の国)
 女王国より東、海を渡りて千余里、
 また国あり。倭の一種。

侏儒国(32番目の国)
 上記の国の南
 人の身長が3、4尺しかない小人の国
 女王国から四千余里

裸国・黒歯国(33番目、34番目の国)
 侏儒国の東南にある
 船旅で一年で至る

 小人の国まで登場してきて、まるで神話やおとぎ話のようだ。しかし、歴史に関するこの手の話しには、必ず元となっている重要な実話なり、モデルとなっている話しなり、そう思った考え方なりの理由があると思っている。そこを読み解きたい。

□倭種の名もなき国

 名前もない国だから、考えたところで、何の意味もないと思うかもしれないが、この記載内容からも、考察して分かることもあると思っている。

 これまで、倭国あるいは、女王国(共に女王を共立した邪馬台国、伊都国、奴国等を中心とした約30ヵ国の連合国家)が説明されている。

 奴国は、その北の境界の位置づけだ。つまり、当時から東側には倭種の他国があると認知されていた事を示している。逆説的に捉えると、東西南北の全方位的に倭種の異なる国々があったわけではないだろうという事だ。もし、そうならば、周囲にも倭種の国々のある事を書くか、わざわざ東だけを書かないからだ。

 つまり、倭国連合地域の東には倭国以外の倭種の別の国々があり、南には戦争中の敵対国の狗奴国があり、北と西は、倭国連合の領土または海という立地関係が見えてくる。

□侏儒国という小人の国

 3~4尺(今の1尺は約30cm、昔の中国では約二十数cm程らしい)の小人なんていないから、侏儒国の記述には信憑性が無いと思うかもしれない。私は、これは中国古典での「怒髪天」のように少し誇張して大袈裟に表現しているだけだと思っている。

 つまり、比較的少し背が低い人達が多い印象の国だったと考えると、1つだけ思い当たることがある。鹿児島の桜島とそれによるシラス台地だ。あるいは、その周辺の小さな島や半島だ。(どちらも水田に適した水や平野や土がない。)

 生物の大きさは、遺伝に合わせて成長期における環境、栄養取得にも大きな影響を受ける。シラス台地や小さな離島は、米や食物の生産には適しておらず、実り豊かな環境ではない。弥生文化への発展の大前提となった米栽培に適してないため、当時から人々は食糧調達に苦労したと思われ、結果的に一時代において背が低い人が多い傾向となっていても不思議はない。

 なお、実際に、種子島や奄美大島など九州南部地域から出土した弥生時代の遺跡の人骨が、当時の弥生人の人骨と比較して、極端な低身長の特徴があり、侏儒国は、種子島という説がある。東南アジアの国という解釈も一般的なようだ。私は、薩摩など九州南部の地域(の島々も含め)と捉えたい。

 全くの余談ですが、本州での「さつまいも」は、九州では一般的に「とういも」と呼んでいます。九州だと江戸時代に中国(唐の時代の後も長らく中国のことを唐と呼んでいた)から九州にやって来た芋だからで、本州の人々からみると、薩摩(鹿児島)から本州にやって来た芋だからです。鹿児島、宮崎の対象地域では、シラス台地での栽培に非常に適した唐芋や大豆等が現れる近代まで、人々は生活のため安定した食糧調達に苦労し、開墾、農業への努力をし続けてきたという歴史があります。

□裸国・黒歯国

 侏儒国の南には、裸国歯黒国があると書かれている。記述されている距離感より、もはやここまで来ると、東南アジアの国々、台湾、ハワイ、南米エクアドルなど、多種多様に幅広く諸説があるようだ。三国志の魏の時代に国として一度認知されたのに、その後の監視がなくなり中国史書には別名ですら全く登場しなかった国が比定地だと、不自然に感じる。中国側の記録には、周辺諸国の動向や情勢を把握し、監視する意味合いもあると思うからである。

 名前が表している通り、人が裸で生きていけるくらい暖かい国なのだから、暖かい南方の国、そして、歯が黒いのだから、お歯黒の文化のある国なのは、間違いない。確かな事は言えないが、後の『隋書』以降には琉球国の記述があるが、この時代にはまだ未登場のため、個人的には、沖縄やあるいは台湾あたりではないかと思う。どんなに離れていた場合でもフィリピンまでだと思う。
 あるいは、特に特定の国を指し示していたわけではなく、既に当時の中国では、遠く南方に行くと裸で暮らせるくらい暖かい場所があるという知識や、実際に遠方との交流のあった人達から、遠くには歯を黒く塗っている珍しい種族を見たというような驚きの伝聞が情報として伝わって認知されていたという意味だと思う。少なくとも当時、そういった知識が中国側にはあったという事だと思う。

⬛次回は、魏志倭人伝の信憑性について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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