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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その5 邪馬壱国と邪馬台国論争

 いよいよ邪馬台国の登場ですが、ここでは、まず邪馬壱国と邪馬台国、そして邪馬台国論争について説明します。

□実は魏志倭人伝には邪馬台国とは書かれていない

邪馬台国については以下のような記載がある。

邪馬壱国
 投馬国から南
 女王の都する所
 七万余戸あり
 ここまで、女王国に属する国
 女王の名は、卑弥呼
 中国の魏に使者を送り、
 親魏倭王の金印と紫綬を受けた
 卑弥呼の死んだ後に男の王を立てたが、
 国中が従わず、殺しあいをして、
 千余人が死んだ。
 そこで、卑弥呼の宗女(一族の娘)の
 13歳の壱与を王にしたら、治まった。

 実は現存する原文の『魏志倭人伝』には、「邪馬台国」という国名の漢字は出て来ない。この点から邪馬台国は存在しなかった、のような説や本も出版されている。

□邪馬壱国が邪馬台国になる理由

 主流の通説は、邪馬壱国は、邪馬台国であり、原文からの写本時に、壱は台の書き間違えとなっている。現存している写本が間違っていて、失われた本来の魏志倭人伝の原文では、邪馬台国と書かれていたという解釈だ。

 三国志の前の時代に当たる『後漢書』には、「大倭王は、邪馬台国に住んでいる」という記載がある。後の時代の『隋書』には、「魏志倭人伝でいう所の邪馬台である」のような記載がある。このため、邪馬壱国を邪馬台国と読み替えて良いというのが一般的な解釈だと思う。

 ちなみに、ここでの邪馬壱国は、今の新書体の常用漢字を使って表記している。原文の中国の漢字は、旧書体のもっと難しい漢字で、邪馬壹國(邪馬壱国)と邪馬臺国(邪馬台国)の違いになる。確かに今の日本人の目から見れば似ている漢字ではある。なお、卑弥呼の次の女王となった壱与(台与)も同様で、壹與(魏志倭人伝での記載)と臺與の違いになる。

 補足ですが、邪馬臺国(邪馬台国)は存在せず、実際にあったのは、邪馬壹国(邪馬壱国)だという説の主な根拠は、以下です。

 もともとの『魏志倭人伝』には、「壹(壱)」としか書かれていない。「臺(台)」という字が使われたのは、それより新しい時代の史書のみ。
「臺(台)」という漢字は、当時の漢や魏という国において、宮中で使うような非常に高貴な意味合いの漢字であり(夷、倭、邪馬、卑などとは真逆の意味合い)、わざわざ蛮夷に相当する倭国に当て字で使うような漢字ではない。同じ三国志の記述の中で、「臺(台)」と「壹(壱)」の使い方を調べても、間違って混合して使っているような箇所がない。

 考古学会の歴史学会における通説にはなっていませんが、波紋を広げた非常に有名な説でもあり、なかなかの説得力があります。

□実際はどちらなのか

 私には、中国の正史に当たる書物を書く、あるいは、書き写しの写本を作成する大事な職務に当たる漢字の専門家達が、中でも肝心な女王国である「邪馬臺国(邪馬台国)」を「邪馬壹國(邪馬壱国)」と単純に書き間違えたという解釈が正しいのかは分からない。ただし、一大国も他では一支国と書かれており、同様のケースはある。

 一方で、後の中国の書物にも倭の邪馬臺国(邪馬台国)という記載があるのは事実である。

 そこで、仮に同一国だったとしても、仮に女王国(倭国)内に別々の2カ国があったとしても、歴史を大局的に見れば同じ倭国内の話しであり、大きな差はないとおおらかに考えている。『魏志倭人伝』には、他にも「邪馬国」という名前の国も登場しているので、仮に別の類似した名前があったとしても不思議ではない。(邪馬台国の比定地等については、「その17 倭国と邪馬台国の所在地」をご参照ください。)

 なお、邪馬壱国(ヤマイチ)ではなく、邪馬台国(ヤマタイ、ヤマト)であり、邪馬台国が機内(奈良の大和)にあり、やがてそれが後の大和政権(ヤマト)になったという解釈。あるいは、壱与(イヨ)ではなく、台与(トヨ)であり、このトヨがやがて『古事記』や『日本書紀』に出てくるトヨ(豊)の字が付く多数の神々に繋がっているという解釈。このようなストーリーを考えている人達にとっては、ここは大きな違いであり「邪馬台国、台与」が絶対的な大前提となっている。

□卑弥呼は倭国の女王

 『魏志倭人伝』の中で、倭国や王について記載がある箇所を登場順に概ね抜き出すと以下のような記載となる。

倭人は帯方群の東南大海の中に在り。
(帯方群)群より倭に至るには海岸に従い水行し、
皆、女王国に属す
南して邪馬壱国(邪馬台国)に至る。女王の都する所なり。
次に奴国有り、これ女王の境界の尽きる所なり。その南には、狗奴国あり。
(帯方群)群より女王国に至るまで、一万二千余里なり。
倭の地は温暖にして冬も夏も生野菜を食す。
女王国より以北には、特に一大卒を置いて、諸国を検察させ、
(帯方群)群の倭国に使いするときには、
倭国乱れて相攻伐すること年を歴たり。
王となりて以来、見ゆることある者少なし。
女王国の東、海を渡りて先余里、また国あり。皆、倭の種なり。
倭の地を参問するに絶えて、
詔書有りて、倭の女王に報えて曰く、
詔書、印綬を奉じて倭国に至り、倭王に拝仮す
倭王使いに寄りて表を上り、
倭王、復た使いの大夫、伊聲耆、掖邪狗等八人を使わし、
倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。
壱与、倭の大夫、率善中郎将、掖邪拘等の二十人を使わし、

 太字にした箇所が特に重要な説明箇所となる。この一連の記載内容をまとめると、以下のような捉え方となる。

 ・倭人=倭国、ではない
 ・倭国=女王国、である
 ・倭国/女王国の東には、別の倭人がいる
 ・倭国/女王国の南には、別の狗奴国がある
 ・卑弥呼=邪馬台国の女王、ではない
 ・卑弥呼=倭国/女王国の王、である
 ・邪馬台国=倭国の都、である

 邪馬台国の女王卑弥呼というのは正確な解釈ではなく、倭国の中に約三十ケ国があり、その中の1つの国が邪馬台国であり、その邪馬台国の中に倭国の都があったことになる。邪馬台国が女王の都と書いてある以上、素直に解釈すれば、おそらく、卑弥呼も邪馬台国に住んで統治していたと思う。魏志倭人伝に記載のある卑弥呼の住居や生活に関しては、邪馬台国の中での話だと思う。

 なぜ、わざわざ、倭人>倭国、卑弥呼=倭国/女王国の王であること、つまり、倭人が住む国が全て倭国ではなく、また邪馬台国の女王が卑弥呼というわけではないことを書いたのかというと、この概念、前提を正しく認識しておかないと、『魏志倭人伝』を正しく捉えきれず、ミスリードしてしまうと感じたからである。

□邪馬台国論争について

 ここで、邪馬台国論争について、少しだけご紹介します。もともと江戸時代より前は、邪馬台国はヤマト政権の発祥地である大和にあったと考えられていたそうです。

 最初は、江戸時代の中期、七代将軍の徳川家宣のブレインであり儒学者の新井白石が、古典の地名から比定を試み、著者の『古史通惑問』で、一旦、邪馬台国を大和として発表しました。しかし、その次に『外国之事調書』で、邪馬台国を筑後国山門郡に比定して、九州説を発表しました。

 これが、九州説のスタートのようです。その後、江戸時代の中期の国学者の本居宣長が、魏志倭人伝の記載内容を確認し、『馭戎慨言』の中で、中国に使者を送ったのは今の朝廷ではなく、九州の熊襲の王とし、大和政権と邪馬台国は無関係という説を発表しました。江戸時代から邪馬台国論争はスタートしているようです。

 明治になり、東京帝国大学の白鳥庫吉が『倭女王卑弥呼考』で、陸行一月は、陸行一日の誤写で、邪馬台国は、福岡県山門郡と比定しました。京都大学の内藤湖畔は『卑弥呼考』で、魏志倭人伝を批判的に捉え、方向の誤りがあり、南を東の間違い、当時の日本の地理認識が間違っていたとして、機内説をとなえました。この結果、東大学派閥の学者は北部九州説をとなえ、京都大学派閥の学者は機内説をとなえという対立構造も生まれたようです。

 ここは、勝手な推測ですが、日本人という国民性からは、所属するグループの派閥の長や恩師や大先輩に当たる人達が○○説を強く唱えてる中で、下の立場の人達は、逆の違う説はなかなか言えない空気間や忖度が働くようになるのではと思いました。そもそも学生時代や研究員のスタート時代から、上からずっとその説が正しいと教えられ指導されてきたら、結果的にも、その説を信じていくように思います。結果、より対立構造が維持されてしまいそうです。

 その後も、様々な学者、歴史家、作家、別の学者などの様々な著名人、歴史愛好家の素人も含め、多数の諸説が生まれつづけており、未だに邪馬台国論争は決着していない状況です。少しだけ過去に邪馬台国論争あるいは、古代史ブームを盛り上げた有名な方々を並べてみますと、津田 左右吉氏、江上波夫氏、手塚治虫氏(火の鳥)、宮崎公平氏、松本清張氏、井上光貞氏、梅原猛氏、古田 武彦氏、井沢元彦氏、関裕二氏など早々たる方々がいると思います。(他にも沢山いらっしゃいます。もちろん、私自身も色々な方々の様々な考えの影響を受けています。)

 いま現在で一般的に言われている情報では、纒向遺跡の発見があり機内説が少し有利とされているようです。また、歴史が専門の学者の方々は、機内説を支持している割合がかなり多く、一般の在野の方々は九州説を支持している割合がかなり多いようです。それぞれの立場でのマジョリティが違う結論というのが面白いです。果たして、どちらが正しかったのか、分かる日が早く来ると嬉しいです。

□魏志倭人伝から単純に場所が分かるのならば

 『魏志倭人伝』には、「倭人は帯方郡(今の韓国ソウル付近)の東南大海の中に山島に住んでいる」、「帯方郡から女王国(邪馬台国)までは一万二千里」、「元は、百ヶ国ほどあり、漢の時代に使者が来た国が30ヶ国ほどある」というような記載があります。

 これらの記載から、以下のような解釈も見聞きします。

 「地図を見たら一目瞭然で、帯方郡から東南にあるのは九州です。機内だと明らかに東の方位になります。帯方郡から一万二千里だと、ちょうど北部九州までの距離です。機内はもっと遠いから距離が合いません。このため、邪馬台国は北部九州にあったことが明らかになります。」

 「百カ国あったのが、倭国大乱により、全国で30カ国まで統廃合が進み淘汰されたことが分かります。全国統一を実現したのは、ちょうど日本の中心にいて、後のヤマト政権を生み出した機内の勢力なので、邪馬台国も機内にあったことが明らかになります。」

 もしかしたら、書かれている通りや、考えられている通りの事が事実なのかもしれません。

 しかし、ここで、中国古典の大前提として、もう一つの見方があることをお伝えします。

 百カ国というのは、数え切れない程の沢山の国々という意味を数字で表しただけです。ときには、実際の数字よりも、オーバーな数字で誇張されて表現されます。同じく、一万二千里というのは、当時の中国の監視対象範囲内(それが一万里や一万里ニ千里)を超えた辺境の最果てを現します。自分たちの国から想像を超えるような遥か遠くの国という意味を、数字で表現しているだけという解釈です。

 また、方位や距離ですが、今の中国、韓国、日本の地図をみながら、東南や東をみれば、確かにその説の通りなのですが、当時の人達が認識していた地図上(例えば、九州の下の南側に日本列島が伸びていた島と思われていた、本州が九州よりかなり小さい島だと思われていた等)だと、どういう位置関係になっていたかは分かりません。

 古代中国の距離感や方位感は非常にいい加減なものであり、時代によっても変わるため、書かれているからといって、そのまま信じる方がおかしい、考察する意味がないという考え方もあります。

 つまり、魏志倭人伝に書かれているからと言って、あるいは、一箇所を修正しただけでなんとか辿り着けそうとなったとしても、その表現に複数の論理的な解釈がある以上、そんなに単純には決まらないという事になります。

 そもそも、南は東の書き間違いだ、一月は一日の書き間違いだ、という話は、目的の結論の場所が分かっていて、そこに正しく行くための方向や距離が間違っていると分かっているからこそ、書き間違いと言えるわけなので、どこか目的の場所なのがか分かっておらず、場所を探している中で、間違いと結論出来るものではないと思います。

 このように、ときには単純に読み取るだけではなく、中国古典における記載の特徴、数字の表す意味の常識や、当時の人達の常識や考え方などを踏まえた上での総合的な深い考察が必要になると思っています。(このような考察に基づく私なりの解釈が、本歴史コラムの記載内容となります。)

⬛次回は、邪馬台国と狗奴国について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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