魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その2 特別な伊都国そして倭双国
ここでは、伊都国について考察します。『魏志倭人伝』の中でも邪馬台国の次に一番多く説明が書かれている国です。これだけでも、伊都国の重要性が伝わってきます。
□伊都国は特別な役割がある重要な国
『魏志倭人伝』の以下の記載内容より、女王国(邪馬台国)に属していた伊都国(福岡県糸島)はとても重要な国であることが分かる。
代々王が治めている国ということで、急に出来た国ではなく、古くからの歴史がある国だと分かる。また、中国からの使者が必ず泊まる場所だから、中国との窓口、玄関的な役割を担う国だと思われる。伊都国(イト)の国名にあえて都(みやこ)の字が当てられているのも意味が込めらてそうで意味深だ。邪馬台国や卑弥呼のように中華思想による悪字が多く用いられている中ではとても珍しいと思う。
そして、邪馬台国から派遣された周辺国を監視する立場の責任者が住む場所となっている。周辺国からも恐れている存在だから、名実を伴った力のある存在である。このことは、当時を知る上でとても貴重な情報である。
□一番の監視対象はどこか
あえてこの伊都国に監視する立場の一大卒をおいたのは、場所の利便性と、邪馬台国との関係性の高さを示していると思う。邪馬台国は、重要な外交の窓口や拠点としての役割を伊都国に任せ、そして近隣諸国の監視役を配置する国として伊都を選んでいるわけで、伊都国をかなり信頼出来る国と判断して信頼していると思う。歴史ある伊都国の王族の血統は権威あるものと推察され、王族間での婚姻による血縁関係の結びつきなどもあったのかもしれない。
そして、わざわざ周辺国を監視しているのだから、きっとその周りにはその対象となる警戒すべき国、さほど信用できない国があったのだと思う。そしてそれは、この近辺では一番人口が多く大国だった奴国なんだと思う。小さな国ならばそんなにわざわざ警戒する必要性がない。逆に、もし邪馬台国が奴国との強い信頼関係があれば、この辺りで一番の大国の奴国に使者を招き、一大卒を置けば良いと思うからだ。
□邪馬台国と伊都国の距離感
私は、邪馬台国と伊都国は、少し距離が離れていると思う。ただし、そんなに遠く離れているとは思えない。
なぜならば、すぐ隣など近くに隣接する国ならば、わざわざその国に監督者を派遣する必要や使者を留める必要はなく、邪馬台国が直接やれば良いからである。
また逆に距離が遠く離れすぎていたら、代々王が治めているような国に監督者が常駐して、その監督者が力を持って諸国を監視をしたりすることは出来ず、女王国に属する諸国もこれを恐れたりしないと思う。
つまり、もし諸国が反乱するなど一大卒を害した場合には、当時の移動手段であっても、例えば1~2週間ほどで、長くとも1ヶ月もあれば、戦の準備を整えて、すぐに邪馬台国からの兵隊が現実的に攻めてこれるような距離感だと思う。
そして、もし博多湾の海側に邪馬台国があったのであれば、伊都国に寄ってからでも、すぐに船で邪馬台国まで行けば良いので、邪馬台国は博多湾などの海側にあった国ではなく、少し内陸部の山側にあったのか、例えば船では簡単には行けない有明海等の内海側にあったと思っている。
この距離感に関しては、一大卒が監督者(管理者、大将軍等)としての役目を担いながら、その国(伊都国)で実際に人として生活を行うという別の視点から考察してみても、同様の推察が可能だ。
もしも、海、山、河を超えるような、長き道のりの遠い国から派遣される場合、任期は最低でも数年、またいつ帰れるかもわからないと思われるため、家族も一緒にやって来て伊都国で生活した場合、もはや家族と共に伊都国の人になってしまうと思う。また家族を自国に置いてきたや、家族がおらずに伊都国に来た場合、伊都国で妻を娶り新しい家族が出来てしまうと思う。そうなるともはや伊都国の人になってしまい、監督者としては、おそらく不適切だ。
また、もし、遠い国から来た監督者が、権威を持ちえばりちらしたりしてしまったら、あるいは、伊都国の判断を認めずに自国の理論で1人頑なに反対などしたら、もはや事故や病気で亡くなられたとして、実際には、こっそりと暗殺してしまうと思う。次に来る新しい自分たちに合う人、都合の良い人が派遣されるのを待てば良いだけだ。距離が近いと他にも交流ルートがありバレてしまう可能性も高まるが、距離が遠く交流ルートが限られるとなかなか分からないと思うし、もし仮に疑われても、確証となるような証拠もない。
このため、一大卒を派遣する国は、長くとも1年か2年かの比較的短い任期での交代が確実に可能な距離感にあり、伊都国との癒着や、周辺国との癒着が論理上に起きにくい距離感だったのではないかと考えている。
□伊都国に常駐する使者とは
伊都国の説明では、以下の記載がある。
この文章の意味的には、最初に記載した通りで、「代々王がいる。皆女王国に属する。帯方群から使者が来たときに常に駐まる所である。」のような訳になると思う。ここで気になっているのは、この「常に駐まる所」の箇所だ。常に駐まるわけで、つまり「常駐」である。そう考えると、この文章からは、以下の2つの可能性があると感じた。
必ず立ち寄るの意味合いで、帯方群の使者が邪馬台国に行くときには、必ず伊都国に一度は滞在し、休憩や物資補給や宿泊などしてから、邪馬台国へ出発する。
常駐の意味合いで、帯方群からの使者が倭国・邪馬台国に来たときには、常にこの伊都国に滞在する。そうすると、伊都国からの帯方群からの使者が来た知らせを受けて、卑弥呼または、官のある立場の人(今で言う外務大臣や防衛大臣)等が、邪馬台国から伊都国にいる使者に会いやって来る。
1つ目が通説的な解釈だと思うが、もし、2つ目の解釈が正しければ、伊都国のお隣にある福岡市の奴国の後から、急に邪馬台国への道のりの説明の記載方法が変わりあやふやになる理由が分かってくる。実際に行っていないから、正確な道のり、方向、距離などが書けないわけだ。また、そうする理由は、中国皇帝からの命令でやってきた帯方群からの使者を中国皇帝に見立てて最大限に敬うや、戦乱中の軍事国家である魏に攻めて来られないように邪馬台国の場所を教えない、伊都国当たりまでは船で来れるが、その後は陸路になるので船と共に滞在して貰うため等の理由が考えられる。
こういう可能性もあるかと思ったため、ここに記載しておく。こういうちょっとしたところの解釈次第で、話が全然変わってくるのが、魏志倭人伝の面白いところだと思っている。
⬛次回は、奴国について
最後までお読み頂きありがとうございました。😊
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