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謎の古墳時代を読み解く その4 隋書の倭国 前編 異なる倭王

 ここでは、隋の時代の倭国について考察します。日本では、『日本書紀』に書かれている推古天皇の時代に聖徳太子が遣に小野妹子を派遣したとされるエピソードが非常に有名です。

□隋書とは

 は、中国の南北朝時代を終わらせて約300年ぶりに再び統一国家となった国で、581年から618年に存在した国です。『隋書』は、本紀5巻、志30巻、列伝50巻からなる書で、本紀と列伝が636年に、志が656年に完成しています。中国の24正史の中の1つです。国が滅んだすぐ後の時代に書かれたためと、特に志が通史となっており、全体の流れが把握出来るため、内容に関する評価はかなり高いです。編纂は、魏徴顔師古孔穎達許敬宗長孫無忌于志寧、李淳風、韋安仁、李延寿など唐の政治家や歴史家が行っています。

 『隋書の東夷伝』では、倭国については、倭国(ワコクあるいは、イコクとも読める)という漢字ではなく、一貫して「俀國(イコクあるいは、タイコクとも読める)」と書かれています。これについては、倭の誤字や誤植だ、唐の時代での略字の扱いで倭を俀と書いた、当時の発音が同じ字で書いた、邪馬台国や邪馬壱国のタイやイチの国名や、その国の女王卑弥呼にちなんで女という漢字が入る「俀」にしたなど、諸説があります。

(イコク(倭国)については、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その2 特別な伊都国をご参考ください。)

 ここでは、不要な混乱をしないように、一般的な「倭」という表記で統一して記載しています。

 『隋書の倭人伝』の中では、『魏志倭人伝』の記載内容と同じような邪馬台に関する内容や、倭人の文化風習、中国への朝貢の記録などが記載されています。

(『魏志倭人伝』については、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その8 魏志倭人伝の信憑性をご参照ください)

□驚きの遣隋使の内容

 隋書には、以下のような記載がある。

600年に、倭王で、姓は阿毎(アマ、あるいはアメ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、号は阿輩雞彌(アハケミ、これはオオキミのことだと考えらる)の使者が遣使してきた。

中国皇帝の高祖文帝が担当の役人に使者にその風俗を尋ねさせた。使者は、「倭王は天を兄とし、日(太陽)を弟としている。天がまだ明けない時に出てきて政務を行い、あぐらして坐っている。日が出ると政務を執ることをやめ、あとは我が弟、太陽に委ねようという」と答えた。

高祖文帝は「それは、甚だ道理がないことだ」と言い、倭国に命じて、これを改めるように諭した。

倭国王の妻は、雞彌(ケミ、あるいは、キミ)と号している。王の後宮には女が、六、七百人いる。太子は、名を利歌彌多弗利(リカミタフリ)という。城に城郭はない。

 はじめて読んだ方は、倭王の政務方法に驚いたかもしれない。実は、遣隋使における日本の歴史上の観点からも、上記の短い内容の中には、衝撃的な驚くポイントがいくつもあるため、順に考察したい。

 また、古代倭国では、天と太陽では、天の方が扱いは上で、太陽の方が天よりも下の位置づけというのも古代人の思想に触れる事が出来てロマンを感じる。おそらく、天は広く昼も夜も全体を司り、天の方が遥かに大きな存在。太陽はその天の中に浮かぶ1つの存在で、日中だけに光輝く存在のような解釈だと思う。

 まずは、驚きの不思議な点について考察したい。

①王の性別と名前が違う

 600年は、日本では、推古天皇8年となる。つまり、この年代の日本の王は、「推古天皇」だ。推古天皇は、日本の最初の女性の天皇であり、断じて「アマタリシヒコ」という男性ではない。王の妻が「ケミ」となっているから、この王が男性を示すのは間違いが無い。推古天皇の名前は、諱は「額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)」、号は「豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)」で、他には、「豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)」や「炊屋姫尊(かしきや)」等となっている。少なくとも「ケミ」ではない。(近しい音の例として、過去に卑弥呼の次の女王がトヨ(台与)またはイト(壱与)という2音の女性名だったことや、邪馬台国時代の倭国連合の中の投馬国にミミ(彌彌/弥弥)という官名があったことを紹介しておきます。)

 仮に王が聖徳太子のことを示していたとしても、聖徳太子の妻は、菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)、刀自古郎女(とじこのいらつめ)、橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)、膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)等で、「ケミ」に通じる名前ではない。

 なお、ケミではなく、キミであり、キミという名前だったや、あるいは、キミという号のような呼び名、称号だった場合もありえると思う。そして、おそらくは、こちらの解釈の方が自然な気がする。王を阿輩雞彌(アハケミ→オオキミ)、その妻を雞彌(ケミ→キミ)と読んだのように解釈すると、一応の辻褄は合う。

②第一回目の遣隋使の年が違う

 『日本書紀』では、遣隋使の第1回目は607年に聖徳太子小野妹子を大唐への使者に送ったという記載内容になっている。600年と607年の違いがある。なお、後述もするが、隋書には、607年の倭国からの遣隋使が来たことも書かれている。つまり、600年の最初の遣隋使の記録だけが、日本側には記録されていない。中国側の記録として、ここまで具体的な情報がある記載内容が嘘の記録とは考えられない。中国側にこの内容でわざわざ捏造する必要性もメリットも無いからだ。

 なお、『日本書紀』では、中国の国名が当時の隋ではなく、その次の唐になっていて、「大唐」という表現だ。なぜ隋では無いのか、ここにも別の謎があると思う。随のあとに唐になったから唐に配慮してという解釈や、国の違いが分かって無かったなどの解釈もある。本当だろうか。(私はまた別の理由からだと考えている。)

③皇太子の名前が違う

 倭王の太子は、「利歌彌多弗利(リカミタフリ)」となっている。推古天皇の時代の太子といえば、おそらく誰もが知っている日本一有名な太子である「聖徳太子」である。聖徳太子は、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)、上宮王(かみつみやおう)、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)など非常に多くの別名がある存在だ。しかし、その中には「リカミタフリ」に通ずる名はない。

 なお、日本では有名な遣隋使の使者である「小野妹子」の名前も登場していない。しかしながら、使者の名前は、中国側の記録には記載されていたり、記録されていなかったりなので、記載されて無かったとしても特に不思議ではないと思う。

④倭王は日中は政務をせず弟に委ねる

 倭王の政治の仕方が、日が昇る前に行い、日が昇ると弟に委ねる倭王ではなく、その弟が太陽に見立てられている。これは、現代人の目から見ると、意味が分からないかなり不思議な政治スタイルだ。まさに同様に、中国皇帝からも道理に合わないとして、改めるように命じられている。

 実は弟が太陽、つまり男性が太陽に見立てられるというのも個人的には少し不思議な印象があり、本来の倭では、天照大御神(女神)が太陽神、卑弥呼(女性)が日御子や日巫女で太陽を表すのが、日本人文化のような気がしている。

 以上のように、隋書には、かなり不可思議な記述内容がある。次に、その理由を読み解いてみたい。

 なお、後宮には六、七百人は、当時そんな大規模な宮殿はなく、中国人が得意なオーバーな誇張表現と思う。江戸時代の徳川将軍家の江戸城のお奥は、数百人から最大時で3,000人規模と言われている。もはや、そういった規模の建造物が無いと暮らせないレベルの人数だ。この時代にそこまでの人数が一緒に暮らせるような巨大な建造物は未だ見つかっていない。

 また、城に城郭は無いとある。これは、中国の城と日本の城の違いを表している。中国は、大陸で陸続きのため、常に隣接する国々や外的からの侵略を受け続けてきた。そのため、中国では街の中心に城を作り、周りに市民が暮らす街があり、この街ごと外壁を作り守っている。広い平地の土地だから造れる、造らないと守れない、という即面もあると思う。中国人からみたら日本の街や城が自分たちの城のような要塞とはなっていないため、珍しいと感じて記載していると思う。

 ただし、『魏志倭人伝』の邪馬台国のときには、宮殿には城柵があることが書かれている。宮殿や国の規模が大きくなり、周りの城柵が無くなったのか、あるいは、街全体には城柵は無いという意味での記載なのかが考えられる。

□隋書から考えられる論理的根拠

 この連載を読んで頂いている方は、宋書の倭の五王等と同じく、またしても日本側と中国側の歴史書の名前が一致しない現象だと思われたと思う。古代日本のヤマト政権、飛鳥時代には、名前が阿毎(アマ)多利思北孤(タリシヒコ)という大君も、利歌彌多弗利(リカミタフリ)という皇太子も、存在しないのだ。

 もしかしたら、中国側では日本人は毎回違う名前になるのではと思う方がいるかもしれないが、決してそんな事はない。例えば、この隋の次の唐の時代について書かれた『旧唐書』では、使者として日本史でも有名な「朝臣仲満(阿倍仲麻呂、姓が朝臣のため)」の名前が記載されている。この後の時代に中国側の史書に登場する名前は、基本的に全て日本史の名前と一致しているのだ。歴代天皇の名前なども日本側と同じ名前で記載されている。一致しないのは、この時代までだ。

 それは当然だと思う。中国側は、正しい漢字を知らない倭国側の固有名詞の場合には、使者が話した名前、通訳が説明した名前を中国の漢字で、倭国王は、阿輩雞彌(アハケミ→オオキミ)と号したと書かれているように、ただ聞いた似た音の字を割り当てて書いているだけだ。

 つまり、『隋書』に書かれた倭国は、畿内の日本のヤマト政権の話しではなく、邪馬台国の時代から繋がっている北部九州の倭国の話しだと捉えるのが、一番自然で辻褄が合う説明になると思う。北部九州の倭国の話しだから、畿内のヤマト政権の『日本書紀』には一切、これらの人物名が登場しないのだ。逆に当時の北部九州の倭国には、これらの人物が王族としていた事を意味している。

 そう思わせる根拠が、倭の風俗としての政治形態だ。邪馬台国では、女王卑弥呼と、その弟が登場し、兄弟で支え合って統治していたと思われる。ヒメヒコ制(男女)やエオト制(兄弟や姉妹)と呼ばれる、祭事(占い、呪い、祭り、神頼み等)を司る役割と、政治(行政、統治、軍事、外交等)を司る役割とでの共同での政治体制だ。時代による変化や進化はあったと思うが、祭事を司る立場と実務を司る立場の共同統治がベースにあったと考えられる。

 実は、いまの日本の歴史の通説では、隋書には、なぜこのような推古天皇朝とは全く異なる人物名が記録がされているのか、論理的な明確な説明はなされていないのだ。

 例えば、推古天皇は女性なので、倭国が中国側に王が女性と思われないように伏せたや、ここに書かれている王が聖徳太子のことを示すなどの説がある。私は当時の日本には王が女性だと恥ずかしいや馬鹿にされると思うような男尊女卑の考え方は、現代日本とは異なりほとんど無いと思う。なぜならば、実際に古代日本には複数の有名な女王や皇后が実在し、しかもちゃんと尊まれていて活躍しているからだ。さらに、女性の巫女も神に通じる力を持ち、占い、呪い、口寄せなど、重要な判断を任され、絶大な信頼をされている。

 また仮に聖徳太子が倭国王として説明されたとしても、妻や皇太子の名前も異なる。過去には卑弥呼や台与(壱与)の例もあり、むしろ、中国側では、この『隋書』にも邪馬台国の女王の記載があるくらいで、倭国の女王がいたことは代々の中国の国家で認知もされている。なぜいまさら隠すのかや、そもそもなぜ名前が違うのかについては、納得のいく説明ではない。

 推古天皇が象徴天皇で祭事を担い、聖徳太子が実際の政治を担うヒメヒコ制での統治という解釈もあるようだが、それだと大君が男性で、日が昇るとその弟と入れ替わったという記載とは辻褄が合わない。(推古天皇が男性となり、聖徳太子はその実の弟の関係性になるため。)

 他にも、推古天皇は卑弥呼と同様で、宮殿の中で過ごし限られた人物としか会わない。中国側から来た使者も、皇太子の男性としか会っていないから、男王と誤解したという説がある。しかしながらこれも、推古天皇が王だと伝えれば良いだけの話で、卑弥呼のときと違って女王だと伝わっていないため、同様の解釈にはならないと思う。

 少なくとも、現時点において、私は北部九州の倭国説以外では、この全ての謎について確かにと思えるような論理的な説明を見聞きした事は無い。

 アマタリシヒコ(阿毎多利思北孤)は、和名で書くと、「天足彦(アマタリシヒコ)」や「天垂らし彦(アマタラシヒコ)」だったのではと考えられています。意味としては、「天の満ち足りた男」や「天から降りてきた男」などの意味となります。いずれも天孫降臨高天原を起源とした人物名だったと考えられています。天孫降臨、高天原系の一族と言えば、言うまでもなく、九州に多くの神話や伝承が残されており、ルーツは九州にあると思えます。
(九州ルーツに関しては、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その18 中国の正史と日本神話での倭国をご参照ください。)

 なぜアマタリシヒコが聖徳太子に比定されるかというと、600年や607年という年代と男性だったのは明らかなため、その時代の女性天皇であった推古天皇は除外されます。そうすると、皇太子であり、実質的に摂政として政治を行っていたとされる聖徳太子が倭国王として中国側に接していたと考えられるためです。

 また、天足彦というのが、個人を特定する名前ではなく、一般的な王を表すような汎称だからとう理由もあると思います。特定する個人の名前ではなく、天に関連する王である事を示しているだけという解釈です。しかし、例えば、古代天皇の名前では、タラシナカツヒコ(足仲彦)は仲哀天皇で、ワカタケル(若建、幼武)は雄略天皇を示し、オホドオウ(男大王、雄大王)は継体天皇など、古来天皇名は一般的な意味合いの名前を持つ天皇が沢山います。このため、アマタリシヒコも、単に王という事を表すわけではなく、そう呼ばれていた実在の人物を示し、アマタリシヒコという名の王がいたと考えています。なお、日本史では天足彦と言えば第5代孝昭天皇の息子である「天足彦国押人命」がいます。この異母弟が、第6代の孝安天皇も「日本足彦国押人天皇」と言う名前です。

 別の説としては、アマタリシヒコは、蘇我馬子だったという説もあります。蘇我家は、日本史ではかなりの悪者にされています。しかし、その理由は、乙巳の変でクーデターを起こし蘇我氏(宗家)を滅亡に追いやった勢力や一族が後に書いた歴史書だからであり、自分達の正当性を訴えるために蘇我氏を悪者にしたという考え方です。そのため、聖徳太子が行っていたとされる数々の政治は、実際には蘇我馬子が主導して行っていたもので、この当時の実質的な王あるいは、摂政は、蘇我馬子だったという考え方です。
 
 様々な善政を行っていた蘇我氏を宮中で暗殺して滅ぼした勢力が自分達だとは書き残せないため、聖徳太子という存在を作り出し(厩戸皇子を聖徳太子にしたて上げ)、蘇我一族を悪者にして、善政は聖徳太子が行ったことにしたという考え方です。(蘇我宗家の一族は、本当は悪者ではなかった、自分達の正当性を訴えるため悪者にされただけという考え方は、私もそうだと思っています。またいつか書きたいと思っています。)

 中には、蘇我家は当時の天皇家であり馬子が天皇だったや皇太子だったという説や、蘇我馬子が聖徳太子だったという説や、そもそも聖徳太子などいなかった(創作された人物)というような説もあります。また、そもそも聖徳太子が行っていたとされる政治は、九州倭国の王族が倭国内に実施していた政治制度であり、それをヤマト政権も真似して似たような政策を行っていたや、それをあたかも自国でのことのように模写して書かれたというような説もあります。

 もちろん、歴史の解説本の中には、「阿毎多利思北孤(アマタリシヒコ)とは、すなわち聖徳太子の事である。この時代に政治を行っていた皇太子は聖徳太子であり、他に王と呼べる存在はいないため、疑いようがない。」というように断定的に力強く書かれている歴史書も多々あります。こちらの方が一般的な通説になっていると思います。

 このあたりについては、このように複数の諸説があり、まだまだ様々な謎がある状態です。

□消えた第1回目の遣隋使の謎

 そしてもう1つの謎が600年の第1回目の朝貢が、日本側の記録では記載がなく、無かったことにされていることだ。

 実はこれには、日本では最もらしい通説がある。現在の通説では、「600年の遣隋使で、日本の政治体制が遅れていること、随の皇帝から指摘されたことを倭国が恥じた。そのため、600年の遣隋使の1回目は日本の記録からは抹消した。国際社会(中国、朝鮮半島、東アジア)で通用するように、聖徳太子が急いで冠位十二階や十七条憲法を制定し、中国を真似して律令制を推し進めた。さらに中国と対等な立場で外交するために、607年に小野妹子を使者に派遣し、「日出ずる処の天子書を日没する処の天子に致す恙無きや」という書き出しの国書を持たせた。」という事になっている。日本史においては非常に有名なエピソードでもある。

 とても素晴らしく最もらしい通説なのだが、皆さんは、どう思われるだろうか。実は、私は、この解釈には、いくつかの大きな違和感がある。それを順に述べたい。

中国に指摘されたのは、あくまでも倭王である大君(つまり天皇)の政務の仕方、倭王の慣習である。律令制のシステムが国に導入されているかどうかの話しではない。改める箇所が違っている。改めるならば、大君である兄と弟での祭事や政治のやり方や時間帯だ。

②倭王の政務についてちょっと指摘されたくらいでは、まさに長年の積み重ねで生まれた文化、風習の話しであり、王族内の兄弟(ときには、親子や兄弟姉妹や夫婦等)での政務の役割分担の話しであり、大君のあり方をそんなに簡単に改めるわけがない。

 倭国内では、自分たちの大君こそが絶対のはずだ。我々日本人は、外国の文化を取り入れるのは昔から得意だが、必ずいいとこ取りや、日本風にカスタマイズして取り入れる。その際の根っこには、倭人の文化風習、神道などの根強い信仰がある。仮に今、日本の伝統儀式が、他国から古臭いや非効率や意味がないと言われたら、すぐ改めるだろうか。そんな訳はない。我々日本の伝統文化を馬鹿にするなと怒るか、その伝統儀式の大事さ、素晴らしさ、背景や歴史を語って意味を伝えようとするだろう。

③倭国には、とっくの昔に、既に中国の律令制は導入されているはずた。その証拠に『宋書の倭国伝』には倭人の三公(中国の律令制の最高位の官職)の司馬が登場している。いまさらの話しではない。

 倭国は、そもそも中国、朝鮮半島の情勢、政治システムなどには、昔からかなり精通している。大陸側からの渡来人だって沢山日本に来ているのだ。この遣隋使のときに、初めて律令制を知って驚いたわけではない。倭国は何百年も前から中国へ朝貢してきている。朝貢だって中国の政治システムだ。中国の国や皇帝や、帯方郡の長官が代替わりの節目でのタイミングの良い朝貢記録や、中国側を良く把握して書かれた倭国王の武の上表文の内容などを思い出してほしい。律令制について言えば、いまさら急に焦ってどうこうという話しではない。

(当時の日本が中国や朝鮮半島に詳しい様は、謎の古墳時代を読み解く その2 宋書の倭の5王と朝鮮半島への関与を参照のこと)

④例え日本側の記録を抹消しても、中国側の記録に残されることは知っている。『日本書紀』を書いたとき、中国の正史が引用や参考にもされているからだ。どうせバレるから意味が無い。

(古代日本に女王がいたこと、中国側の記録が日本側の記録にあることは、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その12 倭国大乱と卑弥呼の誕生を参照のこと)

⑤中国皇帝に大君の政務の仕方を改めるように言われて、直ぐに素直に改めようとするような考え方の弱い立場の国が、急に対等(あるいは、少し上から目線な印象も)な立場で、外交をしようと、中国皇帝に国書を書くだろうか。そんな覚悟や勇気があるなら、最初から、自国の文化風習を曲げてまでも、あわてて中国の模写はしないはず。

⑥600年から607年の短期間の間に、冠位十二階、十七条憲法、屯倉を各国に設置などの改革を行っており、あまりにも突然で急すぎる。当時の日本で、昔ながらの慣習がある中で、本当に根付いたり、全国に広まったりしたのか。そもそも、そんなに短期間で準備や内容の作成が出来たのか。仏教だって、そんなに簡単には導入出来てない。崇仏論争が起きて内乱に繋がったくらいだ。

 以上のように、この通説には、矛盾する点や疑問点が多いのである。これだけの違和感があるのだ。おそらく、この通説とは全く異なる真の理由があるはずだ。

 別の考察として、この隋書の600年の朝貢で書かれた倭国王の政治スタイルが呪いじみているのは、ここからが中国に疎い機内のヤマト政権からの使者だったからだ。中国に精通していた北部九州の政治はこんな迷信じみたスタイルではなく、北部九州の倭国からの使者は、宋書の時代までかもしれないと、以前に少し考えてみたこともあります。

 しかし、もしそうだとすると、やはり、中国側と日本側で王族の名前が全く違うことへの論理的な説明がつかない為、やはり、北部九州の倭国からの使者だったと考えるようになりました。倭国王の祭事と政治の統治スタイルは、当時の倭人にとっての立派な真理であり、むしろ倭の大切な文化であり、弥生時代からの守ってきた伝統なのだと感じています。

 そうすると、また今度は、機内のヤマト政権が日本の中心になってきた時代に、なぜまだ北部九州の倭国が使者をという別の疑問も浮かびます。その答えは、まだ北部九州の勢力が完全に衰えたわけではなく、まだ地方勢力としての力を持っていて、これまで培ってきた中国とのパイプを失っていなかったからだと思っています。

 このような考え方に基づいて、今回の考察を書いています。

 (長くなってしまったので、隋書編は、前半と後半に分けました。次回に続きます。)

■次回は、隋書の倭国の後編 中国からの使者について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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