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謎の古墳時代を読み解く その2 宋書の倭の5王と朝鮮半島への関与

 ここでは、一般的には全く知られていない存在かもと思いますが、歴史好きにとっては日本の古代史において大変有名な『宋書』に書かれている「倭の5王」について考察します。

□宋書とは

 『宋書』は、中国の南北朝時代の南朝の宋の時代の420年〜479年の約60年間について書かれている歴史書です。宋の時代に何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰などによって既に書かれていた内容の『宋書』を元に、沈約により編纂され、488年に完成しています。中国の24正史の1つです。

 宋の時代から書かれていた内容を元に、宋滅亡後にすぐに当時の人々により、当時の資料を元にして作成されているため、内容の信憑性はかなり高く、歴史的な価値が高いと評価されています。また、日本の歴史においても、倭の5王の朝貢の記録があり、当時を知る事が出来る数少ない貴重な情報源となっています。

 『宋書の倭人伝』は、『魏志倭人伝』等と比較しても非常に短く、原文の漢文ならば、1ページに収まる内容の文章です。

□宋書の倭の5王

 『宋書』には、倭国の王が代々朝貢している記録、倭国の5人の王の名前や一部の使者や部下の名前、中国から官位を与えられたり倭国王から官位を求めて自身や部下に官位を授けられている記録、そして高句麗を撃とうとする倭王の武の上表文等が記載されている。朝貢の記録としては、以下のような内容となる。

倭は高句麗の東南海中にあり、代々朝貢に来る

421年 宋の皇帝より、倭国王の讃(さん)に対して、はるか遠くからの朝貢を評価し、官職を授ける。

425年 倭国王の讃が、司馬の曹達を使者とし朝貢

倭国王の讃が死に、弟の珍(ちん※)が後を継いだ
珍は、自身の臣下の隋など13人に、将軍の官位を求めた
安東将軍・倭国王に任命

※宋書では、珍となっていますが、次の梁書には、珍ではなく彌(弥)という記載になっています。また、彌(弥)の子供が、済になっています。後は同じです。

443年 倭国王の済(さい)が朝貢
    安東将軍・倭国王に任命

451年 倭国王の済と臣下の23人に将軍等の官位を授けた

倭国王の済が死に、子の興(こう)が後を継いだ

462年 倭国王の興が朝貢し、安東大将軍となす

興が死に弟の武(ぶ)が倭王になった

478年 倭国王の武が朝貢

479年 倭国王の武が鎮東大将軍となす

※宋書の記録はここまでですが、次の『梁書』では、武が次の位を授与された記載があります。

502年 倭の武の号を征東大将軍に進む

 なお、上記の478年の朝貢の記録の後は、中国の記録からは朝貢の記載が無くなり、再び朝貢の記録がされるのは、次は600年の遣隋使からとなる。

□珍と彌(弥)について

 珍と彌(弥)が同一人物なのか、あるいは別人なのか、倭の6王と捉えている人もいれば、宋書の記載内容だけに着目している人もいて諸説ある状況だ。一般的には、日本では『宋書』が最初に倭の5王が出てくる歴史書で有名なため、「宋書の倭の5王」として取り扱われているケースが多いと思う。また、宋書では途中の血の繋がりが記載されていないため、ここでの王朝断絶や王朝交代説もある。

 少し考察してみると、『宋書』の記録からは、讃から武まで、一貫して朝貢の記録があり、与えられている官職などもだいたい同じであり、途中で王朝交代を感じさせるような記録は一切ない。

 また、珍という漢字と、彌(弥)という漢字を比べると、彌(弥)という漢字は、倭国の尊や官職名や人物名などでも使用されており、明らかに馴染みが深い。逆に珍の字は珍しい、珍妙、奇妙にも通じる意味もあり、必ずしもプラスの印象だけではない。珍の略式漢字は、「珎」であり、字としても「弥」と似ていて間違え易いという説もある。

 このため、私は、珍が元となった原本の資料からの転写間違いと、子の済との繋がりが記載漏れであることに気づき、『梁書』では、彌(弥)であり、済がその跡継ぎの子である事を明記したと思っている。

よって、この本連載では、以下の倭国の5王だったと捉えておく。

 
 (珍)  讃の弟
     弥(珍)の息子
     済の息子
     興の弟

 記録にある年代では、421年〜502年頃の時代となり、5世紀頃の初めから6世紀の初め頃の出来事となる。約80年間で約3世代相当で、5人の王のため、1人当たり約15年間の統治のため、非常にリアリティもあると思う。(ちなみに、5世紀に存在したと思われる日本の雄略天皇は、日本書紀などでは、享年124歳となっており逆にリアリティがありません。)

 倭(ワ、あるいはイ)は一般的には、国名と捉えられていますが、例えば、倭王讃とは、倭が姓で名が讃のように、当時の王族の姓が倭だったという説があります。そして、後に和風の諱が考えられたと思われます。

□驚きの役職名と人名

 ここで、個人的に1番驚くべきと思うのは、以下の情報だ。何か違和感というか、お気づきにならないだろうか。

・王の名が讃、弥(珍)、済、興、武(漢字一文字)
・讃が、司馬(シバ)の曹達(ソウタツ)を使者に
・弥(珍)が、自身の臣下の(ズイ)に

 上記の国はどこか?、もちろん全て倭国についての記録だ。しかしながら、もし国名が記載されてなければ、誰も倭国(当時の日本国)のことだとは思わないと思う。どう考えても、まるで、中国の三国史に登場する武将のような名前だ。そして、「司馬」というのも実は中国の官職の中での最高位を表す「三公」の中の1つの役職であり、軍事の長官を意味している。

 このことからも、当時の倭国は、中国をお手本として模写して真似しており、またその中国の律令制の役職なども既に導入していることが伺える。渡来人が配下にいたり、渡来人の子孫が名前をそのまま継続して使っていたり、あるいは倭人があえて中国風の名前を真似して名乗ったりしていたと思う。また、中国風の律令制を導入し、中国の気に入られるように頻繁に朝貢し、中国の真似をして朝鮮半島を支配域に起き、中国から高い位を貰えるように働きかけと、まさに中国に目を向け、常に意識した情報収集や政治を行っていたと考えられる。これは、古来からの国政の一般的な常識となる地政学の観点からも、近くの朝鮮半島とは敵対して争い、領土の拡大を図りつつ、遠くの大国の中国と仲良く、従いということで、大変理にかなった政策である。

□倭の5王の官位について

 倭の5王の官位についてまとめると以下のようになる。自らほしい官位を求めてみたり、自称してみたりと、ここでもしたたかな外交が見て取れる。

 
官職が授与された記載はあるが、官位の記載は無し
(おそらくは、安東将軍倭国王)

弥(珍) 
自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を求める
安東将軍倭国王


安東将軍倭国王

使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王へ


安東将軍倭国王


自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する

使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王

鎮東大将軍(征東将軍の意味)へ

征東大将軍へ(502年)

 ここで最も注目すべきことは、倭国側では、朝鮮半島の南部の国々も倭国の管轄地域だという認識であり、中国側も、百済を除いては、その支配地域の影響範囲だと認めている事だ。済の時代に初めて朝鮮半島六ヶ国を束ねる大将軍となり、武の時代には、さらに上位の征東大将軍までに昇格している。

 ここで、中国から倭国に対して「百済」の支配が毎回必ず認められないのは、当時の百済も中国に対して朝貢している記録があり、中国の直接的な支配地域だと考えていたり、百済の自国の領土や自主性も認めていたからだと考えられている。当然なのだか、朝貢は、本来、中国からの自国の保証を図るためのものであり、ここで他国に、その国の勢力圏や支配地であることを認めたのでは、何の意味で中国に朝貢しているのかが分からなくなってしまう。実際に、中国に朝貢している高句麗や百済には、倭国同様に同じような官位が別に与えられている。

(中国の朝貢に関しては、前シリーズの『魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その14 中国への朝貢と年代』を参照のこと )

 本題とは少し外れますが、現在の日本では、この時代に朝鮮半島の南部も倭国だった、あるいは、倭国の影響下にあった、倭国からの出先機関のような地域があった等とは教育や解釈がされていないと思います。以前は、1970年代くらいまでは、任那は当時の日本国の支配地域のような通説があり、このような歴史解釈が日本の通説だったようです。今の学校の教科書がどうなっているかは把握していませんが、私の子供時代の歴史の教科書では、当時の朝鮮半島南端の任那は日本国の一部だったように習った記憶があります。

 実際に現存する3世紀頃から5世紀頃について書かれた当時の日本や朝鮮半島や中国の歴史書や碑文などの記録では、3カ国の歴史書が共に明らかに朝鮮半島南部地域への倭国の関与や影響力を伝えています。朝鮮半島の高句麗、新羅、百済のこの時代の歴史書である『三国史記 倭人伝』の中には、倭国が侵略してきたので撃退した、倭国との王族間での婚姻、倭国が百済・新羅を破り臣民とした、倭国へ太子を人質に差し出した、倭国が国境にたびたび侵入、倭国が攻めてきて城を囲む、倭国への使者や朝貢などについての記載もあります。

 現代社会では、このあたりの解釈に関しては、隣国への配慮があり、もはや歴史という学問分野の話しだけではなく、政治的に取り扱われる非常にデリケートな国際問題となってしまっているようです。しかしながら、当然ですが、政治は政治上の問題、歴史は歴史上のテーマとして、正しい歴史が追求されて事実が明らかになるように、また、理性的、論理的に自由に歴史の考察や議論が出来るようになると良いなと思っています。

□倭の5王と歴代天皇との比定

 さて、倭の5王とは一体何者なのでしょうか、まず第一に、『日本書紀』及び、日本の歴代天皇の名前には、『魏志倭人伝』の卑弥呼と同じく、『宋書』の倭の5王の名前も、実は全く登場しません。そのため、必ずといっていいほど、倭の5王は、日本の歴代天皇の誰なのかという考察が行われ、天皇との比定が行なわれています。諸説あり、確定はしていませんが、だいたい以下のような説があります。

 讃   応神天皇、人徳天皇、履中天皇
 珍(弥)  反正天皇、応神天皇
 済   人徳天皇、允恭天皇
 興   安康天皇
 武   雄略天皇

 雄略天皇の名前は『日本書紀』には「大迫瀬幼(おおはつせわかたける)」との記載があり、このタケルが武に相当するため、武は雄略天皇というのが、今の日本の歴史の通説になっています。また、『日本書紀』では、雄略天皇は、日本各地の豪族を攻めて屈服させ、反抗期な乱者達を徹底的に討伐したり、皇位を継ぐために肉親を容赦なく殺害し、気に入らないとすぐに人を処刑したりもしたため、「大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)」とも記載されています。天皇のことをここまで悪く書き残すというのは、数少ないケースではあり、異例の天皇とも言えます。この軍事力の強さ、性格の荒々しさが、「武」に通じるとして、雄略天皇が武という根拠にもなっているようです。武の兄が興のため、雄略天皇の兄の安康天皇が興となり、この二人までは比定が確実視されています。果たして本当でしょうか。

 仮に、ワカタケルのタケルなので中国側には武と名乗ったのであれば、その他の4人も同じ理屈で名前に繋がりがあるはずだと思いますが、他の4人にはそれが見当たらず、雄略天皇のみとなります。となると、いかにも無理やりというか、たまたまというか、こじつけを感じてしまいます。そもそも、日本の天皇が漢字一文字で名前を名乗った例は他にありませんし、この時代の朝鮮半島の国々の王の名なども漢字一文字では記録されてはいません。

 まず最初に、わずか80年間の記録で、間にも細かい朝貢の記録があり、ここまで分かりやすい血の繋がりまで記載されているにも関わらず、なぜ日本側の記録と比較しても簡単に特定出来ないのか、それには、分かりやすい理由があります。

 実は、条件にピッタリと一致する天皇家の系図がどの時代にも見当たらない、該当する天皇が存在しないから、となります。一人目からみて、その弟、その息子、その息子、その弟という5代で過ごした天皇の時代が系図上に存在しないのです(珍と済との血の繋がりが不明だから、そこは何でも良しと自由に考えても同様)。そのため、半ばこじつけたり、ちょっと強引な解釈をしたり、途中にいるはずの天皇を飛ばしたりして辻褄を合わせようとするなどで、様々な説がある形となっています。

 実は、1番確実視されている雄略天皇にしても、『古事記』や『日本書紀』などでは、479年や489年には死亡しており、その後の502年の征東大将軍への昇格の記録とは辻褄が合わない状態です。

 それでも、502年は、実際は朝貢してないが中国側が雄略天皇の死を知らずに官職が贈られただけや、死後に追悼の官位が授けられただけや、雄略天皇の死亡時期を日本書紀が間違えていてまだ雄略天皇は生きていたなどの理由が考えられており、雄略天皇の名前のタケルが武のことを表し、武力行使の荒々しい王が武を表しているとして、雄略天皇を武に比定して、そこから逆算して、歴代天皇を当てはめているような状態です。もちろん、官職は武が生きていて使者が朝貢したからこそ授けらるものであり、502年には雄略天皇は生きていないのだから、つまり武は雄略天皇ではない、比定が間違いだという説もあります。

 もう1つ個人的に不思議なことは、同じ漢字を持つ武を「武烈天皇」と比定する説は聞かないことです。武烈天皇は、507年に死去したとされており、502年に征東大将軍になっている武とは、なんと年代もピッタリ合っています。この天皇名は、8世紀頃の後の時代に名付けらた名ではありますが、『日本書紀』では、武烈天皇は、これまた異例の記載内容で、荒々しく、暴力的な振る舞いで、悪行が甚だしい旨が記載されており(ただし、『古事記』には、悪い振る舞いの記載は一切無し)、ちょうど雄略天皇と武力的な荒々しいイメージが重なります。それにも関わらす武は武烈天皇とは比定されてはいません。

 おそらく、武烈天皇は在位が8年とされており、502年は年代が丁度合いますが、そうすると今度は、478年の朝貢が辻褄が合わなくなるからだとは思います。あるいは、武烈天皇が暴力的で残虐行為があり荒々しいのは、次の継体天皇が即位したことへの正当性を印象付けるための『日本書紀』の捏造という説もあり、その辺りが影響しているかもと考えられます。

 次になぜ倭の5王が『日本書紀』や『古事記』に登場しないのか、その考えられる理由を探ってみたいと思います。

□古事記、日本書紀には登場しない人物名の謎

 ここでは、最大の謎である中国側の正史には登場する「倭の5王」が、日本側の歴史書には、一切登場しない理由について考察する。可能性として思い付いたのは以下のケースとなる。

①中国や朝鮮半島諸国を真似した対外向け国王名だった
 当時の中国や朝鮮半島の国々の王の姓が漢字一文字のケースが多かったため、これを真似して、自分達の王の名前も漢字一文字に、倭国であることと合わせると、倭讃や倭武のように漢字で2文字の名前にして説明した。
 →中国や朝鮮半島諸国の真似した国際社会用の名前を採用

 ⇒ヤマト政権の流れで捉えると、後の日本側の歴史書にこれらの名前の記録や、対外向けの名前があった事などが一切記録に無いというのが不思議だと思う。ヤマト政権では無いと考えると、特に矛盾は無いと思う。

②仮名を名乗る事で他国からの呪術による呪いを回避
 倭人の心の中には、言霊信仰や、呪術信仰があり、自身の名前や呼び名を伝えてしまうと、相手から特定されるため、その名前への呪詛を用いて、災いの呪いをかけられてしまう。呪い殺されてしまうリスクを防ぐため、あえて対外的には、存在しないデタラメな架空の名前を伝えた。
 →呪いへの回避作戦、王に対する防衛策

 ⇒そのような信仰、思考も既にあったとは思うが、そもそも呼び名は複数あり、親や家族だけが知るような本当の名前は、外部には隠されていると思う。呪術対策は盛り込み済みで、対外的に名乗る名前はあり、その名前を用いていたと思う。いわゆる、本名となる諱・忌み名(いみな)と、通称となる字(あざな)だ。(諱と字についての解説は、謎の古墳時代を読み解く その9 蘇我宗家一族の滅亡の謎に迫る 前編 馬子についてをご参照ください。 )

③近畿の大和勢力とは異なる国、倭国の国王名だった
 中国側の資料に書かれている通りで、当時の倭国の王の名前が正しく記載されており、中国に朝貢に来てやりとりしていた倭国が、後の『日本書紀』を残したヤマト政権、畿内の勢力とは別に存在していた。中国の資料には、当時の倭国が伝えた内容が正確に記録されていた。
 →このときの倭国は、まだヤマト政権の畿内とは別だった

 ⇒通説とは大きく異なる。が、論理的な矛盾は無い。実はこれだと、全ての事に対して論理的な説明が可能となる。

④複数の名前があり、たまたま日本側には未記録だった
 当時の貴人は、幼少時から複数の呼び名や言い方があるのが普通であり、中国側にはその中で1番短い分かりやすい名前を名乗っただけ。そして、またまたその漢字一文字の呼び名が、日本側の記録には残って無かった。
 →日本の記録上から失われた名前があった

 ⇒他に漢字一文字の名前を持つ天皇はいないのと、たまたま、この5人の王の別名だけが記録から漏れたような偶然は無いと思う。なので、そうではないはず。

⑤中国への過去の朝貢の記録を無くしたかった
 日本国としては、中国や朝鮮半島とは、今後は対等な関係で付き合って行きたいという方針転換があり、過去に中国に朝貢して従っていた記録を無かったことにしたかった。
 →過去の朝貢時代を黒歴史として抹消

 ⇒後の遣隋使、遣唐使の記録があるため矛盾する。この矛盾を解消する考え方としては、遣隋使以降は、日本は中国の皇帝と日本の天皇とで、中国と対等な関係を目指した外交に切り替えたため、中国の臣下となっていた当時の記録は無くしたという解釈がある。一般的な通説でもある。但し、この考え方でも疑問は残り、王の名前、歴代天皇との比定などで、全ての辻褄が合うわけではない。

⑥中国側が勝手に呼び名を付けて記録した
 倭国側からは倭名を伝えたが、中国側でその名前が長くて分かりにくかったから、勝手に書きやすく、呼びやすい一文字で表現する事にした。中国側で倭国の王の名前を決めていた。
 →中国側が王の呼び名を名付けた

 ⇒他国を含め中国側が、朝貢国の王名を決めていた時代や、そういった事例・記録は残っていない。他の時代の正史には和名の長い名前も中国の歴史書には全て記載されている。なので、そうではないはず。

 上記の奇数は出来るだけ現代人目線で、逆に偶数は古代人目線で考えてみた案となる。個人的には、①や③が1番納得感があるわけだか、もちろん、どれが正しいかは、断定は出来ない。(なお、『日本書紀』、『古事記』からの考察については、いずれ別途行いたいと考えています。)

 ここであえて強調して伝えたいのは、「隣国の中国の歴史の公式な記録に、従来の日本の記録とは全く異なる王の名前が5代にも渡り登場している。しかもその時代に相当する可能性のある日本の天皇と照らし合わせてみても諸説ありすんなりと確定出来ないような状態だ。それでも、従来の日本の記録だけを信じて良いのだろうか。中国の記録をそのままには受け止めずに、日本の記録に照らし合わせて考察して行くべきなのだろうか。」という事だ。

□倭国王武の上表文

 名文との評価も高い、倭国王の武の上表文が以下となる。当時の倭国と取り巻く状況、武の思いなどが良く分かると思うため、あえて原文を紹介する。

順帝昇明二年(478年)遣使上表曰

封國偏遠作藩于外 自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國 王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風 雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧 若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功 竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節

詔除使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王

 この原文の全ての訳文は、Webサイト上に公開されている方々や多数の訳文の書籍があるのでそちらをみて頂きたいが、要約すると以下のような内容なる。(主に上記の太字部分を訳しています。)

 「我が国は、遥か遠くにあるが、中国の外夷からの壁となっている。昔から我が先祖は自ら鎧をまとい休む暇もなく戦い、東は毛人の55カ国、西は衆夷の66カ国、北は海を渡り95カ国を従えた。中国への入貢も時節を逃さず必ず行ってきた。私武は愚か者だが、先祖の偉業を継ぎ、中国の天子を崇めてきた。ところが、高句麗は、無体にも私欲による侵略、略奪、殺人を止めようとしない。中国への往来の道もたびたび妨害され、中国に忠節を尽くす美風も失われた。父や兄は、これに憤り、高句麗を撃退しようとしたが、最後の一押しができず勝てなかった。父と兄を失い今まで喪に服していたが、今喪があけたため、武器を整えて、兵士の訓練をして、父と兄の志を果たそうと思う。もし中国皇帝の徳をもって支えて貰えるなら、この強敵を倒し、過去の功績に劣ることはないだろう。私や諸将に三司の位を授けて、忠節に励むようにと」

 なぜ名文なのかの説明は不要だと思うが、謙虚さも礼節も力強さもあり、かつ非常に論理的な文章構成だと思う。中国の盾となり代々忠節に励んでいる様を伝えつつ、先祖の功績を称え、自国の広さを伝え、先祖や父兄を敬い、敵である高句麗の非道を訴え、高句麗による倭国と中国への実害にも触れ、喪にも服していたため高句麗を撃てなかったとし、戦への準備を行うこととし、高句麗との争いを認めて支持して貰いつつ、その証に官職を授与するように促している。三司とは最高位である三公の次の位に位置するような重職の官位である。さらに、諸将(倭国連合国の各国の王や倭国王の直属の配下だと思う)と一緒にという所に邪馬台国時代からの北部九州の倭国連合だったからであることを感じる。実際に済の時代には人数も書かれていて、23人の諸侯と一緒に官位を貰っている。この時代の北部九州の倭国連合が丁度このくらいの数だったとしても違和感は無い。

 当然、この上表文の目的は、高句麗との戦争を認知させて、官職を貰うことだと思うが、見事にその目的を果たし「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」という、先代の兄より上の大将軍になり、この時点で先々代の父が最終的に貰ったのと同じ官職を授けられている。

 個人的には、中国の儒教で最重要視される、五道(五常、五徳、徳行とも言い、仁、義、礼、智、信の順に5つを示す)の徳性が、この倭国、武から表れるような文章内容であるからこそ、中国側にもより響くと思う。当然、そういった基礎知識を持った上で計算されて考えられた武の決意表明の文だと思う。

 私には、この上表文を送った礼儀をわきまえて賢く立派な「倭王武」と、『日本書紀』に書かれている残虐行為や極悪非道な振る舞いの「雄略天皇」が同一人物だとすると、全くイメージが噛み合わない。なにより、雄略天皇が自身の事を愚か者だがと謙遜するとは思えない。雄略天皇は、朝鮮半島にも軍を送って高句麗や新羅との戦をした記録もあるが、そもそも雄略天皇の最大の功績は、日本各地の豪族を制圧して領土を拡大しヤマト政権の支配地域を広げた天皇だ。一方の武は、先祖代々の功績で広がった領土を引き継いだ立場の王だ。人物像も功績も異なるため、私は同一人物とは捉えていない。

 ここで何より気になる記載内容は、「東は毛人の55カ国、西は衆夷の66カ国、北は海を渡り95カ国を従えた」という所ではないかと思う。以下のような疑問が浮かぶ。

・本当に海を超え95カ国も従えたのか
・朝鮮半島を95カ国も従えたら、韓国は丸々日本に
・北部九州中心ならば、西には66カ国もないのでは
・機内中心ならば、北は海を超え中国・ロシアに
・ヤマト政権が、九州から関東まで既に全国支配
・衆夷とは、熊襲や隼人のことか
・毛人とは、関東や東北地方のことか

 ここを見ると、畿内勢力の倭国がヤマト政権として全国支配している、そして遂に朝鮮半島にも支配地域が広がったと考えて解釈するのが、一番説明がしやすく違和感が少ないように思う。ただし、本来、日本の中心の近畿地方から、北といえば、それは韓国や北朝鮮ではなく、北陸地方、東北地方や北海道を意味すると思う。このように、畿内ならば海を超えなくても、北には日本の陸地がある。ここに大きな違和感があり、そして、この時代は、これらの地域はまだヤマト政権統治では無い地域だ。

 このため、元々、中華思想で東側等にいる夷を毛人、西側等にいる夷を衆夷などと呼んでいるだけなので、個人的には、倭国は引き続き北部九州にあり、西とは佐賀や長崎あるいは熊本や宮崎の一部位までのあたりの国々、東とは、福岡県東部や大分県、本州に行っていたとしても中国地方くらいまでだと考えている。もちろん、機内には機内の勢力がありどんどん力を蓄えて巨大な勢力になっていた時期だと思う。そして北部は、実際の支配地域は朝鮮半島南端域の任那や加羅の一部だけであり、他の国々は、倭国に戦で一度負けたため従臣する約束をさせられた国や、同盟関係のような国、倭国が中国に行っている朝貢・従臣と同じく、朝鮮半島の小国へ倭国への朝貢・従臣を求めた関係性だったと思っている。

 このように考えるのが、邪馬台国の頃からの時代の流れと、この時代についての中国側や朝鮮半島側の歴史書と日本側の歴史書との整合性が一番合っていると思う。

 もう1つ付け足すと、北は95カ国で、東の55カ国、西の66カ国よりも数が多い。この北の方が数が多いのも、数が事実だったと考えると、とても意味のある特徴だと思う。北の朝鮮半島南端地域は鉄を産出し、倭人もその鉄を取りに来きていた記録が残されている。倭国にとって、鉄という重要な実利も存在していた。土地を手に入れる以上、他にも様々な知識や産物や人的なメリットもあったと思う。それだけ、海を超えた北の国々に対して思いがあり、力を入れて戦略的に行動した結果だと思う。つまり、北の朝鮮半島が身近にあり、物理的な距離も近かった、だからこそ、魅力的だった、意味があったという事だと思っている。そう、北が目と鼻の先ほどに近いのは、北部九州にある倭国に他ならない。

■次回は、朝鮮半島の三国史記と倭王武のその後の活動について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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