あくびの中心

　「禍福糾纆」という四字熟語がある。出典は『史記』だったか『礼記』だったか覚えていない、「かふくきゅうぼく」と読む。

　「禍」はわざわい、現代日本人の思考力を規定している「Google日本語入力」でもなんとか変換できる。「纆」は縄のこと、「糾」は縄を縒よることを表す。平たく言えば「ｿﾌｧﾐ♭ﾌｧｿｿﾌｧﾐ♭ﾌｧﾐ♭ﾚｼ♭ﾄﾞ人生楽ありゃ苦もあるさ」のこと、御大美輪明宏女史が麗しい鼻母音まじりに囁く「人生プラマイゼロよ」とも言える。

　これを基にしたことわざ「禍福は糾あざなえる縄の如し」の方がまだ膾炙しているかもしれない。どちらにしても、安っぽいセンチメント同情万歳に流されがちな今様いまよう大衆社会では煙たがれそうな抹香臭いものである。

　最近この「禍福糾纆」が頭から離れない。こんな厭世的な語句に取り憑かれているなんていかにも人生うまくいっていないようで、その通りだ。

　とりわけ師走は散々で、わずかな悦ばしい「福」も霞んでしまうほど大小の「禍」に見舞われた。あれもこれも人災ばかり、結句ささやかながら幸福を覚えていた生活も一変してしまっている。

　現代的俗悪のギャラリーかと次から次に新手が現れ、せめていちいち書き留めて笑い飛ばしてやろうにも出来上がるのは文彩冴ゆる諷刺戯画より直情径行筆誅ばかり、冬至ごろダメ押しの「禍」があって、もういいやと全部うっちゃり溜まりに溜まった憤怒幻滅を痛飲ふて寝で溶かしにかかる始末、情けなし。

　9月なかば、根津神社を訪れていた。ツツジが有名で毎春ぶらつきに行くのだが昨年は手一杯で出向けず、その埋め合わせのつもりだった。

　社殿におみくじ箱があって涼みがてら手を突っ込んでみたら、生まれて初めて「凶」を引いた。いざ手にしてみればいかにも凶々まがまがしい。すぐに折り畳んで結んだので、「仕事」やら「待ち人」やら「健康」やら逐一は何ひとつ覚えていない。

　もしやその逐一の通りになったのだろうか、普段から用もないくせ神社をうろついているからか、年明けお祓いにでも行こうかしら、等々と宿酔のうちに考えていた。なにもかも後の祭りではあったが。

　なぜそんな言葉を使えるのか、なぜそうまで愚かでいられるのか、貴様はそれでも人間か。

　いちいちの「禍」で、何度も何度も同じような印象を抱いていた。当事者たちはもちろん別箇の人間、それぞれが異なる「個性individuality」を持つ「個人individual／人間human」であるはずなのに、もれなく醜い「人間性humanity」を共有していた。

　「無知」だ。あの我執も、あの尊大も、あの放恣も、あの幼稚も、あの倨傲も、あの無恥も、あの不遜も、あの慇懃無礼も、ことごとく「無知」の産物だ。どいつもこいつも皮一枚へだてておぞましい臭気を放つ吐瀉物の塊で出来ているようにしか思えなかった。醜い、醜い────

　そうこうするうち晦日みそかの朝、洗い物をしていたら腰に来た。あのグーッと背後から錆びた刃でも差し込まれるような不気味さは何度経験したって慣れるものではない。数年ぶりの腰椎症、まるで「禍」の総決算かのようだった。

　年をまたいで懲りずに近所のさびれた神社へ通いつめた。不如意な体が人目を気にせずリハビリに歩けるのはその周辺くらいだから仕方ない。祟られようと呪われようと今以上は悪くなるものもなかろう、構うものか。

　深呼吸もできない痛苦の中、去年も一昨年も初詣にとそこへ連れ立っていた人との思い出ばかりが頭を巡っていた。それがダメ押しの「禍」、4年を経て別れを告げられたところだった。

　その人が去ったのは、自らの幸福を追求するためだろう。それが「禍」なのは自分だけで、あちらには「福」である。しからば他も同様で、自分にとっては「禍」以外の何物でもない誰彼の下劣きわまる行為言動も、各人には「福」なのではないか。

　禍福は表裏、男女、凹凸のように組み合わさって一体となる。そうして糾われる「縄」とは浮世の謂いいに違いない。「無知」とは、この機微に思い至らずそれぞれを一面的に「禍」としか見られていない自身の視野狭窄にこそあるか──

　「不具は明晰の種」っていつどこ誰の金言だっけ、と自嘲まじりに拝殿へ臨み鈴ノ緒を掴もうとしたら、立ち位置が左に偏っていることに気がついて、こっそり半歩ずれた。

　禍福糾纆、禍福糾纆、──右、左、と石段を踏むたび念仏のように頭の中を渦巻いている。境内を囲う竹藪に切り取られた冬晴れの空は、背後に涯はてしない暗黒を蔵しているとは思えないほど鮮やかに青い。

　「禍」も「福」も見方ひとつなら、「禍」も「福」も本来ない。怒りも嘆きもない、愉悦も歓喜もない。息をして、喰らって、排泄して、寝て、起きて、この人間じんかんを貫いて伸びる一条の縄を淡々と渡るばかりだ。

　そうしてそのうちこの縄から去る。去ったところで縄は変わらず、ただ誰にも彼にもそうして不易の世のならいを見せつけてはぐるぐるぐるぐる…………

　シキソクゼクウ、ショギョウムジョウ、ニンゲンホンライムイチモツ。結局のところ知恵とはここ相対主義にしか行き着かないのだろう。

　ほら誅うて、神前で仏を顧みた不届き者を誅て。我こそは半額シール付き七面鳥モモ肉を喰はんだ口で七日後に臆面もなく餅を堪能した冒瀆の徒なるぞ。さあ天罰覿面てきめん、この足もとに奈落を開くがいい。最後くらいホンモノ﹅﹅﹅﹅の魑魅魍魎と知り合える「福」を授けてくれよな。もしもし？　もしもォし！

「…………」

　あーあ退屈、あくびが出ちゃう。

完

人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

坂口安吾