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自分のなかに、どっちもある。


何か発言や行動をしようとするとき、「あれ?これ前自分で言ってたことと矛盾するな」て思ってやめてしまうことがよくあった。

それは自分の中に常に一本の芯があることを強く認識していたから。人と対面してる時は見えなくなってしまうけれど、いつだってひとりになって落ち着いて帰れば自ずと正解が導き出せるような、そんな芯がある気がしてた。

その芯があってこその私だ!と思っていたから、自分が心から納得して言おうと思った考えでも、矛盾に気づいた時、0.数秒だけ困惑して取り下げてしまっていた。

でも最近は、なるべくそれをしないように心がけている。

その考えや行動が自然と出てきたのなら、冷静に見れば、矛盾に見えて同時に存在可能な考えである可能性が高いから。

それに、人間は初めから矛盾した生き物。

恥ずかしながら自分のことを言うと、私は一人が好きなくせにずっと一人だと病むし、世界規模の問題で頭が満杯になる割に自分の私生活はそれを促す一因となっていることも知っているし、目の前の相手に常にニコニコ接していても心の中では「この人のこういうとこ嫌い」とか思ったりして、さらにそれがその場で言えない自分によくもどかしさを感じていたりする。

多分、私だけじゃない。誰しも自分の中に「いい加減でやだな」「はっきりさせたい」と思っている部分があると思う。中には「自分はなんてカオスな生き物なんだろう」と深く悩んでいる人までいる。

でも、大抵の人は例えば「私ってば食欲が湧くくせに食べたものをう○こで出してしまう」とは悩まない。(悩む人もいるかもしれないけれど)

それは、そもそも生き物には「食べるけど、全部は必要なくて、いらないものは出す」という栄養摂取の仕組みがあると当たり前に知っているからだと思う。

それと同じで、自分の中にある矛盾のように見えるものであっても、実は心や身体の仕組みや気持ち・反応の種類の違い、それらの優先順位などが複雑に絡みあって正しく現れているものなのかもしれない。私の場合、「ある程度人との関わりを必要とするが、一人の時間も多く必要」と言う心の仕組みがあるように。

むしろその仕組みや本当に必要なことに気が付かないまま蓋をすると、自分の身体や心が危ぶまれることになる。食べ物を食べても肝心な「全部が必要なわけではない」に気づかず、「食べたんだから出してはいけない」という信念に従って不要物を出さなかったら病気になるよね。(今更ながらもっといい例えはなかったのか…)

つまり、自分に現れた矛盾した複数の事柄というのは、実は同時に存在が可能であるどころか、自分の心や身体が動いていくにあたって肝心な部分だったり、それを見つけるためのヒントだったりする。

悩みなんて数え切れないほどあるけれど、最近の私の気づきは、私の悩みは大体この「矛盾したように見えるもの=自分にとって肝心な部分(もしくはそれのヒント)」かもしれないということ。

それがあることに気がついたら、自分を責める前に、時間をかけて丁寧に分析したり紐解いていきたいと思っている。


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話が少し変わるけれど、私ははっきりとした答えのない文章が好き。

多くの自己啓発本みたいに、あまりにはっきりした答えが簡潔に記されている文章が続くと、私の目は文字の上をどんどん滑って自分の思考の方に潜っていってしまう。

それよりも筆者の考えを思慮深く綴りながら「ああでもない、こうでもない」と色々な視点から考慮して、最終的に限りなくグレーに近い着地点というか最適解みたいな結論を出していく文章の方が、圧倒的に身近に感じて読みやすい。

その結論は多くの人にとってはパッとしない、「つまらない」ものだったりするのかもしれないけれど、私はその方が共感できるし、手にとるような納得感を得られる。

それはたぶん自分の思考が、自分の気持ちのみならず外部からとり入れられた様々な視点に自然と動かされ(強調したいのは、他者を尊重すべき!と思っているのではなく無意識に他者の声を自分に取り入れてしまう性質があるということ)、時には圧倒さえされながら、常に悩みつつ収束へ向かう…みたいな形をしているからだと思う。

その過程で、ジレンマが発生するのは自然なこと。というかジレンマがあるからこそ一般的で簡潔な結論のその先へ、より深く考えるのだと思う。

自分で言うけれど、この思考の形式やそこから生まれる深い結論って、本当に「つまらない」かな?

私はむしろ、面白いと思っている。

極端に言えば、一つの信念のもとに複数の人々の考えも行動も全て収束するというのは、宗教が既に世の中で重要な役割を果たしてくれている。

私たち一人一人は、別にそうでなくていいんだよ。


私の周りには個性豊かな友達が沢山いる。
その子たち一人一人の、いいとこももちろん好きだけど、悪いとこも含めて好き。

その悪いところは、本人たちも自覚してることが多く、よく相談されたりそういう面が要因で起こった出来事の話をされる。私はそれを聞くたび「ああ、やっぱりこの人好きだなあ」と思う。笑

自分でもわかってるけど、ついやっちゃうって、立派な矛盾だ。そしてその矛盾があるってとても人間らしいし、それがその人らしさの大部分を作っているとすら思う。その人らしさを感じるから「好きだなあ」って思うのかな。

矛盾って、人や物事が持っている面白さでもあるんだよね。

そしてそんな矛盾でできた人間たちが作る世界は、やっぱり矛盾だらけ。驚くこともあれば、自分にとっては信じられないと思うこともある。だけど時には世の中や他人の矛盾した面を見たり聞いたりして、少しほっとすることもあったりする。そうだよね、そうなっちゃうよねって。


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私は、ずっと自分で自分のことが分からなかった。

自分は外向的なのか、内向的なのか?お金を稼ぎたいのか、慎ましい暮らしをしたいのか?綺麗めな服が好きなのか、古着スタイルが好きなのか?世の中を良くしたいのか、自分のために生きたいのか…?

残念ながら、そしてめでたいことに、その全てが私みたいだ。どちらかというとこっち、みたいなのはあっても、場面や時期によって変わってくる。でもどちらかというとどっちなのか、それがいつ・どこでどう変わるかというのは必ずしも人と同じじゃない。そこに私らしさがある。それを詳しく知るのが、私を知るということ。

私は善人なようでいて悪人の顔も持ってるし、繊細なようで鈍感な部分もあるし、完璧なようでいて全然完璧じゃない。だから私の紹介で「いい人で、繊細で、完璧主義です」って説明は合わない。5秒で説明しなさいって言われたらそうなるかも。でも3分で、てなったら違ってくる。3分あったとしても、私のことは説明し切れない。

めんどくさいかな?でもそれってすごく面白くて素敵なこと。単純じゃないってこと。それに気がついたから、実は今、自分のことがちょっと好き。矛盾してる自分が面白くて、結構好き。

 「ありのままでいいんだよ」なんて言われて困ってしまうのは、上記のように「自分はどっちなんだ?」「本当はどうしたいんだ?」と迷ってしまうからだと思う。でも迷うってことはそれだけ複雑だってこと。複雑な分だけ、それはその人の魅力でもある。

…なんて言ってくれる人なんているんだろうか、と思うくらい、世の中は簡潔さを求めてくる。
だけど、私は「ありのまま」と言われたら、こうして悩んでる姿そのものがありのままだから、遠慮せず、なるべく矛盾した姿を表現していきたいなと、今は思っている。



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