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人の体験を読んで胸が苦しくなるのはなぜ?

私は感受性が高く繊細だ。

人の凄惨な体験を読んだり聞いたりして辛い気持ちになることが多々ある。

特に苦手なのが性被害虐待系だ。
この辺を読むと本当に居た堪れない気持ちになり、ずしんと落ち込んでしまうことがある。

二つに共通するのは、力のないものを一方的に痛めつけることになるだろうか。

性被害に関しては、女性としての尊厳の破壊(もちろん男性が被害者の場合もあるが、この記事では女性が被害者の場合を想定して書く)や、信頼していた男性からの突然の裏切りなど。
そのような精神を踏みにじられることに、胸がえぐられたような気分になる。

虐待に関しては、親からの虐待を想定すると、家の中という本来安全であるはずの場所で逃げ場がないことや、家族ということで我慢を強いられること、そもそも幼い頃ならばそれが異常だと気づくことすらできないこと…そういったことにやるせなさを感じる。


最近だと性被害系の話でとてもしんどくなった。
後日、シャワーを浴びながら考え込んでしまった。胸が苦しくなった。涙が出てきた。自分まで生きるのが辛くなった。

自分の体験ではないのに、ここまで胸が苦しくなるのはなぜか?

HSPだから、の一言で片付けるのは簡単だ。

しかし、この感情に名前をつけるとしたら何になるのだろう。

この気もちはなんだろう。

共感?同情?やるせなさ?憐憫?
はたまた偽善?

そのどれもが当てはまるかもしれないし、どれも当てはまらないかもしれない。

そもそも私は男性だし、性被害に遭ったことはない。
それなのにどうして、過剰なまでに。
こんなにも苦しくなるのか。

わからない。


女子高生コ◯クリート詰め殺人事件とか。
注:凄惨な事件なので感受性の高い方は安易に検索しないでください。

あれを知ったのは高校生くらいの時だったかな。
当時も相当胸糞悪く、やるせなさや義憤に駆られた記憶がある。

だが当時は鬱ではなかったし、感受性も今ほど高くなかっただろう。

繊細な心に磨きがかかり、鬱に苦しんでいる現在。
今あの事件の詳細を読もうものならどうなってしまうのか。
想像するだけでも恐ろしい。


他者を思いやり、共感できること自体は悪いことではない。
とても美しいことだと思う。

しかし、それも過剰なレベルになると毒となる。
何でもかんでも負の情報を吸収し、勝手に落ち込んでしまうようでは生きづらいことこの上ない。


抽象的でまとまりのない記事になってしまったが、そんな自分に辟易しているというのが結論だ。


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