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信仰こそが最高のソリューションである。

ここ数年、"信仰"について考える機会が多々あります。私自身は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、母がカトリックということもあり、母の教育の根幹には「カトリックの教え」のようなものがありました。

前記の通り私はカトリックを信仰しているわけではないものの、幼少期にカトリックの教会に連れて行かれ、自分の意思とは関係なく洗礼を受け「パウロ」と言う洗礼名をもらいました。この場合、私もカトリック教徒ということになるのでしょうか。

生まれつき喉や気管支が悪かった私。洗礼を受ける際、母が神父さんにそれを告げると、首のあたりに火のようなものを当てられ、ビスケットだかパンだかよくわからないものを与えられました。

悪いところを治す儀式の様なものなのでしょう。今思えば頭と顔にも火を当てて欲しかったと母を恨む毎日です。

しかし、それからたった数年後。私はマイコプラズマ肺炎で生死の境を彷徨うことになりました。以前同じくマイコプラズマ肺炎で息子(私の兄。次男)を亡くしている母としては、気が気でなかったことだと思います。

ここで、「洗礼の時に火を当てられたから死なずに済んだ」と考えるか、「火を当てられても結局大病をした」と考えるかによって、その人の「信仰するセンス」が問われるのだと思います。

私は後者であり、心の荒んだハードボイルド・ガイなので、あの時当てられた火はなんだったんだと疑うばかりです。


信じるものは救われる」と言う言葉があります。

たまに議論を呼ぶこともあるこの言葉ですが、この言葉に関してAugustinaさんがその解釈を説明してくれています。
(Augustinaさん、勝手に引用してすみません)

私は母がカトリックというだけであり、自分で聖書やカトリックの教えについて勉強をしていないのですが、Augustinaさんによるとどうやらカトリックの考え方では、「信じなくても本当の善人は救われる」という教えのようです。

神の意思に沿って善行を積めば救われると。なるほど、それなら信じるものは救われると言われるより、色々納得できるなぁと思います。

ただ、私の実体験や見聞きした話から考えると、もしかしたらそれだと少し不十分かもしれないな、とも思うのです。勿論、「信じるものは救われる、信じなくても本当の善人は救われる」ということに否定的な気持ちではありません。

私のここ最近の見解としては、「信じなくても本当の善人は救われるかもしれないけれど、信じるものはそれ以上にめちゃくちゃ救われる」なのです。ただし、これは死後の世界の話ではなく、現世のお話。Augustinaさんの仰る信仰や救いとはちょっと違う話になるかもしれません。

私は母から何度も神や預言者の奇跡の話を聞かされて育ちましたが、それらを全く信じておりませんでした。どれも嘘八百の創作としか思えません。信仰心のない私からしたら、ドラゴンボールの方がよっぽど現実味があります。テキトーに聞き流しながらかめはめ波の練習をしていました。

信じないだけならまだしも、何に対しても「神様のお陰」や「神様が見てる」と言う母を疎ましく思い、「そんなわけないじゃん」と、どこかバカにしていたりもしました。

それだけでなく、私が思春期を迎えた頃には、一方的に宗教的倫理観を振りかざして過剰に干渉してくる母のことを、正直言って目障りであるとも思っていました。

母との関係は良好であるとは言えませんでしたが、その一方で感謝もしており、上京してからも病気がちな私のことで気苦労をかけている自覚もあったので、無碍にもできません。

私と母は、よその親子とは違う、なんとなく奇妙なバランスの関係でした。

20代の中頃。母が私の暮らしの査察をしに来た時、母たっての希望により目白にある『東京カテドラル聖マリア大聖堂』に連れていきました。

聖堂には立派なパイプオルガンがあり、建物内は荘厳で静謐な空気が流れていました。信仰心が薄く、毎日七つの大罪を全部犯して暮らしている私は、この様な場に足を踏み入れただけで天罰が下るかもしれないと畏れを抱きつつも、その神聖な雰囲気に興味を抱きました。


ここは「ルルドの洞窟」のモチーフがあることでも有名で、母は「ルルドの洞窟」、「ルルドの泉の奇跡」の話が好きでした。

キリスト教に興味がある人であれば、「ルルドの泉」の話をご存知でしょう。フランスにあるキリスト教の聖地で、その水を飲んだり浴びたりすることで病が治ってしまうという、奇跡の泉です。母は、私にその奇跡の数々を嬉々として語りました。

例えば、事故や病で歩くことができなかった人たちが、泉の水を飲んだり、浴びたりすることで突然歩けるようになる。そんな事が何度も起きており、ルルドの泉は不要になった松葉杖や車椅子で溢れている、と言った具合です。

しかし、私はそんなドラクエのエピソードみたいな話が現実にあるわけないと否定しました。もし本当にあるのなら、世界から医者が絶滅します。世の中の奇病全てが解決します。眉唾を通り越して、もはや眉尿です。

ルルドの泉でシャンプーして出直してこいと母を煽り、全く信じようとしない私に、母は「お前もいずれわかる」と言いました。私は、

(母が早めにカトリックに入門してよかった。カトリックに出会ってなければ、ヤバい何かにハマってた可能性があるな)

と感じていました。


それから数年経ったある日のこと。私の知人のお母様が、不幸にも大病を患ったと聞きました。よその家庭のことなので具体的なことは書けませんが、5年後生存率数%の難しい病気です。

お母様はカトリック信者ではないものの、聖母マリア様の熱心なファンということでした。聞くところによると、熱心なカトリック信者とまではいかない、そういう集いもあるそうです。

家族内では、お嬢様(知人からしたら妹)の結婚式が予定されていたそうで、参加は絶望的ですが、それでもなんとか列席したい、せめて生きてその日を迎えたいと、気丈に闘病生活を送ったそうです。

そんななか、お母様は例の集いの友人からひと瓶の水を受け取りました。それは、「ルルドの聖水」でした。お母様は大変喜びながら毎日少しずつ指先につけては舐め、患部にすり込んでいたそうです。大切に大切に、少しずつ使ったとのことでした。

その結果、周囲の熱心な介護のおかげもあったのでしょうが、お母様は主治医も驚くほどの回復を見せ、なんと病巣が消滅したというのです。主治医も、身内も、誰もが信じられないと口を揃えました。まさに奇跡です。

お母様は元気な姿で娘さんの結婚式にも列席することができ、たくさんの涙と祝福に包まれた式になったとのことでした。

これは、ネットで見た話ではありません。現実に私の知人に起きた話です。私は、ショックを受けました。感動というよりも、衝撃です。

まさにキリスト教の故事のように、目から鱗の様なものが落ちた気分でした。私の考えは、間違いでした。ルルドの泉の奇跡は、あったのです。信じる人は、めちゃくちゃ救われるのです。


プラシーボだなんだと言いたい人もいるでしょう。気持ちはわかります。信じるものは救われる、という事自体、まさにプラシーボと似ています。

しかし、私が同じ状況になったとして、現代医学を覆すほど強力に「瓶に入った水」を信じる事なんて、きっとできません。プラシーボ効果を得られるほど何かを信じ込むことは、私にはできないでしょう。

仮にプラシーボ効果なのだとしても、結局それを起こしたのはルルドの泉の力だったり、神の力なのです。

このことは、信仰心が起こしたひとつの奇跡と言って良い出来事だと思います。

それからまた数年。今度は私の母が、病みまして。

といっても、命に関わるものではありません。メニエールという、激しい目眩を引き起こす病気です。聞き覚えのない人も多いでしょう。私も、「なんだそれ。ティッシュか?それとも洗剤か?」と思ったのを覚えています。

三半規管の病気であり、繰り返し起こる回転性の激しい目眩が主な症状なのですが、この病気の厄介なところは、症状そのものもさることながら「いつ再発するか分からないという恐怖」に心が蝕まれてしまうというところにあります。

母は、元々料理と健康しか取り柄のないメスのセイウチでした。これまで大病をしたことがなかったのに、突然訪れた激しく繰り返す苦しみによって心を蝕まれ、完全に参ってしまっていました。

メニエールの発作は内耳にリンパ液が過剰に溜まってしまうことが原因で起こるようです。素人考えでは「だったらその水を抜いて貰えばいいじゃん」と思うのですが、そう簡単ではない様です。

体の症状は医者に任せるしかありません。しかし、心のケアに関しては素人でも出来ることがあります。

母が健康なセイウチである一方で、私は不健康なトド。幼少期から今日に至るまで、10回近くの入退院を繰り返している、保険会社泣かせの男であり、いわば病気のスペシャリストです。病気の人を励ますのに、これほどうってつけの存在はありません。

私は母に3つの事を意識させました。まずは、笑う事。落ち込んだ気持ちを前向きにさせるのには、笑いの力が重要です。気持ちが落ち込んだままでは、治るものも治りません。私は実体験からそれを知っていました。

次に、自分の体を信じる事。人間には自己治癒力があるため、体の問題は必ず治る。繰り返し体を悪くしている自分が言うのだから間違いない。それを信じる様に伝えました。

最後に、キリスト教を信じる事。私は先日聞いた、ルルドの泉の奇跡の話を母に伝えました。母は、大いに感動し、泣きながら「最近はたしかに祈っていなかった。これは、神様から与えられた乗り越えられる試練だ」と頭を切り替えました。

少しずつ良くなる母。私は更なる後押しとして、母が30年以上も前に世話になったというカトリックのシスターを探し、本人から連絡先を聞いて母から連絡をさせました。シスターも当時のことを覚えていたようで、母は大変感激していました。

これまで散々カトリックの奇跡をバカバカしいと断じていたのに、自分の都合ですっかりそれを利用してしまう私は、多分地獄に落ちることでしょう。


しかし、驚くべきは、信仰心の力です。病気になってからしばらく笑みひとつこぼさず、いつも泣いてばかりいた母が、カトリックと再び向き合うことで加速度的にメンタルが回復し、2年足らずですっかり以前に近い状態まで持ち直しました。

やはり、信仰心とはいとも容易く人を救ってしまうのです。私としては悔しいところですが、信じる人にとって神の力は絶大なのです。

勿論、長兄をはじめ、近所に住む叔母や職場の人、そしてシスターのお陰ということもあり、結局神の力だけでなく、人の力も多いよな、と思うのですが、最近の母はすっかり「良くなったのは神様のお陰」と思う様になりました。人への感謝も忘れてほしくないとは思うのですが、まぁ、それでも救われてくれるのなら万々歳です。

やはり、信じるものはめちゃくちゃ救われるのです。


前述の2名に関しては、カトリックの教義に近い人だったりすることからもAugustinaさんの説明でいうところの、「神様の意思に従って生きてきた人」に近い存在なのだと思います。

しかし、信仰とは神にだけ向けられるものとはかぎりません。人間や、哲学、自然などにも向けられます。

私は、それらを信仰する人にも「現世での救済」が訪れるのではないかな、と思うのです。


カトリック以外でも、何かを強く信じている人は救われるし、何より気持ちが強い。

というのも、不思議と今回の様に"信仰"そのものが人を救っている場面を目にする機会が何度もありました。しかし、今回の話がそうであるように、特に笑いを生む様な内容でもないので、話題に困った時にでもまた紹介させていただきたいと思います。


信じるものはめちゃくちゃ救われるし、幸せになれます。

そうは言っても、何かを信じることは難しく、勇気のいることです。私自身、信仰するに足る何かを未だに見つけることが出来ません。

なかには、信じた結果裏切られた、だから救われてない、というケースもあるでしょう。多分、逆なのです。信じている間は救われていたのです。

偉そうに色々述べましたが、私自身はというと、人から勧められたものを素直に受け入れることが出来ず、意地っ張りで疑り深く、天邪鬼な性格であるため、今後も救済の機会は来ないでしょう。

ソーメン。



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