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別れ際がスマートな男に憧れるけれど、いつだって私は泥まみれ。

恋人から別れを告げられた途端、焦って結婚を持ち出してくる男は意外と多いという。実際に私の友人からもそういう人がいたと聞いたことがある。

失くしてしまいそうにならないと愛情と甘えに気付けず、土壇場になってなにがなんでも繋ぎ止めたくなるというダサ過ぎる男の性(サガ)であろう。

別れに面した男は、いつだって見苦しい。お腹が痛くなって何日も仕事を休んだり、飯も喉を通らなくなって何キロも痩せたりなど、男は女に比べていつまでも終わった恋をズルズルと引きずりがちだ。

そのため、スマートな別れ方が出来る男というのはそれだけで大人だと思うし、はっきり言って憧れる。

私も御多分に洩れず、いつだって泥だらけになってしまう。あの時、別れ際にもっと上手くできていれば、いつか時が彼女の気持ちを修復し、いまと違った未来があったかもしれない。いつまでたっても、そんなことを考えてしまうときがある。

20代前半の頃、私はひとつ年上のTと付き合っていた。Tは、だらしない私をだらしなく甘やかし、休日の午後3時みたいな空気感のぬるい交際を続けていた。

当時の私はバンド活動真っ盛りの頃。固い仕事をせず、楽しいことしかやってないR&B(ろくでなしでバカ)な男だったため、事あるごとに「将来結婚する気は無いよ」と伝えていた。

それは、「浮気をしますよ」と言う宣言でもなければ「あなたに魅力がないのですよ」と言う意味でもなく、「色んなことに対して責任が持てる状況ではないですよ」、「私の人間性的にもきっと幸せな家庭を築けませんよ」と言う、自信のなさからの言葉だった。

そんな私のダサい言動に2年間も付き合ってくれたT。しかし、なにがきっかけだったのか、突然悪い魔法から解けたかのように、急速にTの熱は冷めていった。もしかしたら私がプレゼントした毒キノコみたいなダサいネックレスが原因だったのかもしれない。


勿論私のダメ加減や将来性のなさに危機感を持っただけかもしれないが、そのころ同じ会社の同期の男性の話をよく口にするようになっていたので、もしかしたら「そういうこと」だったのかな、とも思う。

私はTの気持ちがこちらに向いていないことに気付いていたが、気付かないふりをしていた。どうしようもなく好きだったのである。

彼女は気づかないふりをする私に対し、だんだん「嫌って欲しいんだろうな」と思えるような行動を取るようになっていった。


ある日、話があるとTの家に呼び出された。いよいよだな、と覚悟を決めて、仕事終わりに彼女の家に向かう。Tはバツが悪そうに私を招き入れて、渡したいものがあると言った。

突然のプレゼント・フォー・ミー。私は喜んだ。良かった、最近彼女がそっけないと感じたのは、ただの杞憂だったのかもしれない。もしくは、同期の人と上手いこと行かず、こっちに向き直してくれたのかもしれない。これからも一緒にいれるのであれば、それでもいいと思った。

「目を瞑って、手を出して」

と言うT。ワクワクしてそれに従うと、Tは私の手になんだか固く小さいものを渡し、私の手を両手でグッと包み込んだ。

「目を開けていいよ」

という言葉に従い、目を開ける。Tはまだ私の手を握ったままなので、何を渡されたのかわからない。Tは見たこともないような真剣な目をしている。

私が笑いながら「見えないよ」と言うと、スッと手を離して下を向いた。


手を開くと、そこには私の家の合鍵があった。


一瞬、景色がジワリと回転し、世界中から自分以外の全ての生命が消えたような空虚感に襲われた。その後すぐ我に返り、

「これって、そういうことだよね?」

と、聞くと、Tは唇を震わせながらポロポロと涙をこぼし、頷いた。泣きたいのは、こっちの方だった。


私は大きく息を吸って吐き出し、

「わかった。ごめんね」

と答えた。何に対してごめんねと言ったのかは、はっきりと覚えていない。泣かせてしまったことに対してかもしれないし、今までカッコ悪い所ばっかり見せてしまったことに対してなのかもしれない。

気付いていたけれど、言わせてしまってごめん、という気持ちだった気もする。その方がかっこいいから、そういうことにしておこうと思う。


彼女の気持ちが明確にわかった後は、スッキリした気持ちだった。私は不思議と冷静だった。

ただ、言われてしまった以上は仕方がないし、勿論承諾もしたけれど、私の本音は別れたくなかった。自分勝手で申し訳ないけれど、好きだったのだから、こちらとしても仕方がない。

だからといって嫌だ嫌だと泣き喚くわけにもいかない。そんなことでは、離れた気持ちは取り戻せない。私は必死に頭を回転させた。

何か、ここから一発逆転できる言葉はないだろうか。再び彼女の気持ちを取り戻すには、どうすればいいのか。もう話は終わっているので、本来なら、このまま帰るしかない場面である。なにか、とにかくなにか言わなくてはいけない。

私は上擦った声で彼女に言った。


「風呂、借りていい?」


絶対に1番違う言葉である。意味がわからない。やっぱり、全然冷静ではなかった。私は混乱していたようである。

彼女はポカンとしながら、「いいよ」と答えた。


その言葉を聞いて、私はTの家の湯船にお湯を溜めた。

(シャワーじゃなくて、ガッツリ入浴かよ……)

Tは内心驚いていたことだろう。別れ話をした直後に、湯船に浸かってリラックスしようってんだから、当然である。

なにより、私自身、自分の行動に驚いていた。やはり、混乱していたのである。

いつかTwitterやnoteなどで、「彼氏に別れ話を切り出したら、突然ガッツリ入浴された話」という投稿を見つけたら、多分私のことかもしれないので、見ないで欲しい。


お湯が溜まり、いつものようにズボンにつけている家の鍵を外して、彼女から返してもらった鍵をそこにまとめた。それをテーブルの上に置いた後、脱いだ服を浴室の横にある着物入れのカゴに入れて風呂に入った。

いざ風呂に入ってみると、意外と英断だったかもしれないと気づく。本来の流れならあのまま帰るしかなかったが、風呂に入ったことでひとりでじっくり今後のことを考える時間ができた。

なんならこのまま泊まっていけるかもしれない。時間の猶予が生まれたのである。

私はガッツリ入浴をしながら熟考した。絶対にこのまま別れたくない。とはいえ、今からできることは限られている。

見苦しい話だが、やはり情に訴えかけるしかないだろう。彼女自身、さっきは泣いていた。つまり、まだ心は揺らいでいるはずだ。

この2年間は彼女にとっても楽しかった時間であり、このまま捨てるには忍びない気持ちがあったのではないだろうか。

だとすれば、私たちの2年間の中に、きっとヒントがあるはず。私はこれまでのことを思い出し、解決の糸口を探った。

元々、私の一目惚れから始まった関係だった。バイト先にお客さんとして現れた彼女。初めて彼女を見た時は、新宿の汚泥の中に間違えて飛んできたタンポポの綿毛のように感じた。

彼女の周りを覆っているように見える白いオーラは、多分バンドマンの吐き出すタバコの煙だったのだけど、私はどこか柔らかい雰囲気を纏いながらボーッとする彼女を見て一目で恋に落ちてしまった。

少し鷲鼻気味で、かまぼこのような形の目。ホームベース系の輪郭。……書き出してみると可愛く感じないのが不思議だ。バイト仲間からはモグラみたいと言われたけれど、私は顔もすごく可愛いと思っていた。モグラどころか小野真弓に似てたと思う。

何度目かの来店でガチガチになりながら連絡先を渡し、初めてのデートは殺した女の髪の毛で究極の香水を作ると言う、雰囲気も後味も悪い映画だった。私は元々視力が良くなかったのだけど、彼女とのデートで字幕を見るためにメガネをかけ始めた。

普段は酔わないのに何故かキミがいると酔っ払ってしまう、と言い、タコみたいに関節がなくなった彼女を必死で運んだ日のことや、冬の日に彼女が握っている手を上から包むように握り、「どうして私がその繋ぎ方を好きだって知ってるの?!」と驚かれたことなど、沢山のことを思い出し、ヒントを探した。

肘で小突いた時、「ニャー」と言いながら倒れた時は、寒すぎて歯が何本か抜けたし、私のことをかっこいいと言ってくれた時は嬉しかったけど、かっこいいと思う芸能人を聞いた時に「劇団ひとり」と言われた時はがっかりした。

私が左足首につけているミサンガは、以前Tがつけていたものを無理矢理つけられたものだった。浴槽の中で改めて見ると、譲り受けた時のように鮮やかな色をしていなかった。


気が付けば、私は奥歯を噛み締めながら号泣していた。


別れ話をした直後の彼氏が1時間近く風呂から出てこず、声を殺して泣いている。Tからしたら、さぞ怖かったことだろう。自殺しようとしてる、と思われたかもしれない。

いつかTwitterやnoteなどで、「彼氏に別れ話を切り出したら、突然ガッツリ入浴された挙句、風呂の中で嗚咽を漏らされた話」と言う話を見つけたら、それは私のことに違いない。


しばらくして落ち着きを取り戻し、まだ考えがまとまらずに風呂の中で籠城していると、突然裸のTが入ってきた。

狭い浴槽の中、彼女は黙って私に背を向け、体育座りをして湯船に浸かった。

しばらくして、なんだか無性におかしくなり、ふたりでちょっと笑ってしまった。

少し笑った後、また沈黙が始まる。

姿勢を少しずらすたび、水の音が鳴る。



ほくろ。


真っ白でもちもちのせなかと、かみのけ。


たまらず、私はまた泣いてしまった。彼女も、泣いた。


ふたりとも、汗と涙と鼻水でべちゃべちゃ。

少し泣いて、なんておかしな状況なのだと思い、また笑ってしまった。彼女も、笑った。

「ねぇ、このまま付き合えば良いじゃん」

あまりにも良い雰囲気だったので、情に訴えるとかそんなことは忘れてしまい、自然に言葉が出てきた。

なんだか付き合いたての頃に戻ったような雰囲気だった。

彼女は少し黙った後、

「それは、ダメなんだよ」

と言った。おかしな話なのだけれど、なんだか久し振りに彼女の声を聞いた気がした。

今の彼女の声でダメだと言われたなら、ダメなんだろうな、と思った。


私の一方的な一目惚れから始まった関係なので、私達には共通の知り合いがひとりもいない。つまり、風の噂で彼女の結婚の報告を聞くこともなければ、私が突然死んだとて、彼女はそれを知ることもない。

大人になればそういうことも普通になるのだけれど、この時はそれがとても寂しく感じた。


夜、また2人でベッドで泣いた。もうダメなのだとは分かっていたけれど、この期に及んで往生際の悪い私は、

「ゆくゆくは結婚したいと思っていた」

みたいなことを言い出した。なんと、私も数多くいるしょうもない男のひとりだったのである。散々結婚する気はないと言ったのに、ダサすぎる話で目も当てられない。もちろん、彼女はそれでも首を縦に振らなかった。


翌朝を迎え、私はTに、

「絶対に、オレからは連絡しないからね」

と、強がりを言った。「キミからはいつでも連絡して良いんだからね」という言葉の裏返しでもあったのだけど、多分その意図は伝わっていなかっただろう。そうならそうと、はっきり言えば良かったのである。

Tの家から出て、街の景色を目に焼きつけた。私にとって、本来縁もゆかりもなかった土地。彼女との関係が修復されない限り、今後訪れることはないだろう。

満身創痍の心情で職場に着くも、その日は全く何も手につかない状況だった。ただの泥人形。一刻も早く家に帰りたいと思った。

退勤時間を迎え、そそくさと家に帰る。1秒でも早く今日を終わらせたい。その一心で早足気味に歩く。玄関の前に着き、いつも通りズボンにつけている家の鍵を外して鍵を開けようとするが、鍵がない。どこにもない。私は、ハッとした。今以上の地獄はないと思っていたが、どうやらさらに下層があったらしい。


Tの家だ……


そう、風呂に入る前、鍵を外し、そのまま忘れていたのである。私はその場でしゃがみ込み、そのまま死んでしまいたくなった。


「絶対に、オレからは連絡しないからね」


その言葉が、私に重くのしかかる。口にしてから、まだ1日も経っていない。私は己を憎んだ。「ザ・言わなきゃよかった」である。いや、この場合、「ジ・言わなきゃよかった」だ。そんなことはどうでも良い。

彼女は、今頃別れの余韻に浸っているかもしれない。いきなり新しい彼氏と一緒にいる、なんてことはないと思う。ないんじゃないかな。ま、ちょっと覚悟はしておく。

いずれにせよ、絶対に今連絡すべきではないのである。ここで待てば、近い将来奇跡の復活劇があるかもしれない。惜しいことをしたかな、と思っているかも知れない。そうでなかったとしても、こんなにも愛した彼女との別れは、せめて有言実行のまま終わらせたい!!しかし、このままでは家に入れない!!!


「すみません、Tの家に鍵を置いてきてしまいました。明日取りに行きます。荷物受けにいつもの番号で入れておいてくれたら、いない間に取りに行きます。最後までこんな感じでごめん」


世界一カッコ悪いメールである。別れの余韻を味わうことも許さない、Tにとっても残酷なメールを私は送った。

漫画喫茶で時間を潰し、翌朝彼女の住む街と1日ぶりの再会。街からも笑われている気がして居心地が悪い。指定の場所に私の家の鍵が置いてあったが、メールの返信はなかった。


何も言わずに合鍵の返却をするという、彼女からの別れの合図はなんともオシャレでスマートだったと思う。そのまま受け取って、振り返りもせずに潔く帰るのが大人の別れのマナーだった。

もしくは、お風呂でのやりとりの後、泊まらずに鍵を持って帰っていればまだ及第点だっただろう。

それを、なんともグズグズな形で台無しにしてしまった。やっぱり自分は泥だらけにしてしまうなぁと反省するばかりである。

それから数年。仕事終わりで自宅に帰り、靴を脱いだ瞬間、自然に左足首のミサンガが切れた。

未練がましい私は、また何かのきっかけで彼女と繋がりが持てるよう、そのミサンガに願いを込めていたのだが、とうとう願いの重さにミサンガが耐え切れなくなったのかもしれない。

それとも、彼女が幸せな結婚を迎え、ふたりの縁は完全に切れたのだとミサンガが教えてくれたのかもしれない。

少し寂しいけれど、そうだと良いな、と思った。


今、この歳になってTと再会したいかと言われれば、そんなことはない。きっと今のTは当時のTと同じ人間ではないし、逆にいつまで経ってもだらしのない私を見られたくないという気持ちもある。

そのクセ、誠に勝手で一方的な話だけれど、今の彼女に「そうであって欲しい」と望むことがふたつある。

ひとつは、会わなくなってから震災やコロナ禍など、沢山のことがあったけれど、今も健康で幸せに生きていてほしいということ。

そしてもうひとつ。Twitterやnoteなどで「絶対に自分からは連絡しないって言ってきたくせに1日も経たないうちにメールしてきたダサい元カレの話」という内容の投稿をしないでいて欲しい、ということである。




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