津曲つまがり隆志
リカバリーストーリー=回復物語 霧島市でピアサポーター、ソーシャルワーカーとして個人活動中の 53歳津曲隆志 です。 私は2つの困難を乗り越えました。 ただし、症状が重い方には、今から話す内容は、こういう生き方もあるんだくらいで 聞いて下さい。急に無理に変わろうとすると禁断症状やリバンドがあるからです。 今の自分のままでOK。自分にはいつも優しくしてください。 困難の1つ目は、25歳で東京で一人暮らしの時に、統合失調症、うつを発症。 25年間の闘病生活を経て、40歳か
21歳で京都のコンピュータ専門学校を卒業後、東京吉祥寺ある本社に入社しました。 筆記試験は、大阪の事業所で受けたのですが、社員さんに助けられながら 最下位でぎりぎり入社(笑) 研修はとにかく、初めてのことばかりで、気を使い、 社宅(マンションを会社が借り入れ、3LDKに3人の共同生活)に帰り着いたら グタグタでした。 <エピソード1> 一番緊張したのが電話対応です。 私はHSP気質(緊張しやすい、気を使う)で、今まで相手の顔色ばかりを伺って育ってきていたので 電話は顔が
現役の大学受験は大阪体育大学でしたが、私は野球も中途半端だし体も大きない、一般入試で受験したが、飛び抜けて得意分野があるわけでもなく、もちろん筆記試験は全滅(笑)見事に不合格。 浪人を決めたのは、周りもそうだし、自分でも何をすればいいのかわからないのと、親父の学歴が高卒で苦労したということで、半強制的?で2年間の浪人生活でしたが、勿論、勉強嫌いな私が本腰を入れてやるわけがない。 一般の方は、ここで、親が稼いだお金で何を怠けているのだ!と思う人が大半でしょう。いいわけではあるが
家庭教師のおかげで、公立校の普通科になんとか入学したが、相変わらず 勉強はいやいや、物理の東大出の教師に指され、回答できず「わかりません」の答えに「バカか」の一言で唯一理数系はなんとかついてついていけてた?が私がすねてしまい、クラスを理系から文系に変更(笑) 授業中も後ろで将棋をするありさま笑 部活動は「スクールウォーズ」がTVドラマも流行っていて、今までラグビー経験がなかったので迷っていたが、部員数は少ない、部室でタバコの理由でやはり野球部に。 でも、野球部も同級生は3人。
私が周りに合わせる他人軸的生き方、もしくは、体育が得意?3年間ほとんど通知表が5だったのかは、わからんが、田舎者の私も、京都に馴染んできた。(体育の小林先生は、私がすごいプレイをした後、先生を見るとこちらを見て微笑んでくれた😀) 中には、私を認めない先生もいた。 うちの中学はベル着ということ言わなければ、まともに授業前に席につかない生徒が多い学校だった。 島根の田舎ではありえない話だ。 私は、同じクラスで野球部の同僚と廊下で遊んでいた。 ベルが鳴ったので、「席に戻ろう」と言
京都といえば都、老舗の店は、威厳様など他の都道府県から見たとき、よそ者には冷たいという方もいますが、そのような方はごく一部と思います。 私が感じたのは、服装です。私は島根のど田舎から引っ越してきました。 うちの家庭は貧乏でもなく金持ちでもない中間層ですが、衣食住の衣に関しては、両親が鹿児島出身だから?いや、親父が職人がたきだから、道具より技術(技を磨け)を重視するからだと理由だと思いますが、ブランド物など高い商品は買わない主義で、その代わり、食事に関しては、基本的に美味しくて
社宅ということもあり両隣の同じ中学で同学年あった2人は優しく話しかけてくれた。 初めての転校生、挨拶はすごく緊張しました。 早く友達が欲しかった私は、あるグループに話かけられて嬉しかったが、鉄道マニアで写真好きだったので、しばらくして交流が薄れたが、昼休みのソフト野球の交流は続いた。 すぐに、野球部の顧問の檜垣先生のところに入部の申込みをした。 「五厘刈りにしてこい」笑 都会とはいえ、野球部は坊主が当たり前の時代。 私は、五厘刈りにして、野球部に入部。 クラスメイトの野球
小学校入学と同時には親父の工場の近くに社宅ができて、島根県益田市の隣美都町(現益田市)に引っ越しました。 入学のときすごくワクワクしたのをなんとなく覚えています。 教科書がピカピカ輝いていました。 ただ、何故か1,2年生の記憶があまりありません。 1,2年の担任の女性ベテラン寺尾先生が優しかった印象だけ覚えています。 全校生徒100人あまり、第二次ベビーブームもあり1学年20名くらいで一番多い感じです。 3、4年の担任は、女性の森先生、とにかく九九の覚えが悪く苦労したのを覚え
1971年(昭和46年)2月26日午前2時くらいに鹿児島県国分市(現霧島市)で生まれる。 母親が出産のために帰省して私を産んだ。 その頃は、父親が滋賀県草津市の工場で働いていて、本籍はもともと草津市であった。(今の本籍は現住所の霧島市) その頃覚えているのは、工場隣接の社宅で近くで遊んでいた私は、 高さ3メールくらいから小さい川に落ちて、工場のお兄さんに助けられたそうです。土もあり水位もほとんどないところなで大事に至らなかった笑 幼稚園に上がると同時に、親父の転勤で島根県益
素直:なんでも言うことを聞く人ではなく、 何でも自分が感じたことを話、行動し、そして誰からでも何でも学ぶ姿勢 謙虚:どんな人でも礼に始まり、礼に終わる 肩書や有力者だけでなく、子どもに対しても同じ 笑顔:心のそこから微笑む時、人は決してネガティブなことを考えない 世界に笑顔を伝染すれば、世の中から争い事はなくなる <左が自分1人が心がけること、右が相手が必要なこと> 笑う門には福来たる 笑うことを心がけてから幸運、毎日が充実して 幸せだた思えるよう
過去と他人は変えれない 未来と自分は変われる そして、自分が変わることにより 過去の見方も変わり、他人の見方も変わる 更に、他人が変わることもある、そして未来が開ける