自分史② 小学校〜中学1年一学期

小学校入学と同時には親父の工場の近くに社宅ができて、島根県益田市の隣美都町(現益田市)に引っ越しました。
入学のときすごくワクワクしたのをなんとなく覚えています。
教科書がピカピカ輝いていました。
ただ、何故か1,2年生の記憶があまりありません。
1,2年の担任の女性ベテラン寺尾先生が優しかった印象だけ覚えています。
全校生徒100人あまり、第二次ベビーブームもあり1学年20名くらいで一番多い感じです。
3、4年の担任は、女性の森先生、とにかく九九の覚えが悪く苦労したのを覚えています。両親に九九を覚えるおもちゃみたいなもので一生懸命してました。7、8当たりの掛け算が覚えられなくて大変でした。
苦手意識あるのか、現在もその7,8あたりがたまにやばいです笑
ちょっと気まずい話ですが、乾布摩擦が朝にあり、先生の上の下着が妙に気になっていました。今思えば、下着だからこそむしろイヤラシイのではなかったのかと思います笑
5,6年は新人教師男性の岩田健志先生でした。熱血で金八先生の贈る言葉を卒業式に歌ったのを覚えています。先生は、休み時間も時間を作ってくれて一緒にサッカーをしてくれる優しい先生でした。
やはり子供の頃に大人が遊んでくれっるって嬉しいですよね。
私は、自宅で決して勉強を進んでするタイプではありませんでしたが、
テレビ世代なのか、授業中は集中して楽しんで学んでました(勉強ではない)
この出来事が私を学びから勉強(面白くない内容)に変わってしまったのだと思いますが、たしか5年生のときに5段階評価で5を取ったときに、クラスメイトから「お前のせいで5が取れなかった」というのを今でも覚えています。
素直で真面目な私は、それを気にしすぎたのか、後、親は100点をとって当たり前みたいな評価しかしないこともあり、
暗記ものはカンニングをしはじめました。ある国語のテストで隣の女の子の回答をみる癖がついてました。
終わりの会で、そのことが議題になりました。
岩田先生はいい先生なので私が「していません」と言ったら、
信じてくれました。
ここで、私が正直に「すみません」と謝れる勇気があったらなら、
岩田先生は、えこひいきする先生のレッテルを貼られることはなかったでしょう。

スポーツに関しては、邪念が入り、力んでしまうと大きく結果が異なるタイプでした。
もともと、指関節も硬いし、どちらかというとテクニシャンではなく、感覚で覚えてるタイプでした。
スポーツに関しては中学1年の一学期までは勉強と違って楽しんでできたと思います。
岩田先生は、文武両道の方で、すごく尊敬していました。

私も運動に関しては得意な方でした。不器用ながら。
クラス人数が少ないのもあり、掛け持ちで色々な大会にも出させてもらいました。後、詩は2回ほど新聞にのり(弟に関するやつ笑)
小学校最後の公式の野球大会では新聞に載りました。ライン超え(60m〜70mくらいだと)の本塁打を一人だけ達成。高校の最後の試合と一緒でホームランを打ったことに過信し、邪念が生まれ、「もう一本、本塁打だ」と思ってしまい見事に三振でした笑
同じことを高校の最後の試合、最終打席も思ってしまいました。
だから、過信、邪念が出たときには、私は力んで最悪の失敗をしてしまうタイプです笑
6年生では、みんなには悪かったが、集団登校の先頭で、朝の授業が始まる前にサッカーがしたかったので速歩きをしてました。
そのかいあってか、中学1年では400Mリレーの県大会選手にもえらばれました。(先輩たちが速かったからですが笑)
クラスのみんなはどう思ってたかわかりませんが、一つ上の
宮川たかのり君だけは、私をリスペクトしてくれました。
中学のリレーの練習もすごく優しくしてくれました。
宮川さんには、もう一度会ってお礼を言いたいと思っています。

おふくろが、間違ってインフルエンザと間違い学校を1日にだけやすんでしまいましたが、卒業式で准皆勤賞を頂き、接戦の末、健康賞というクラスのMVP賞もいただきました。
今、思えば、カンニングという不正を思うと辞退するべきだったと思います。

初めての英語は新しい教科ということもあり、

教科書を丸暗記するくらい熱心でした。

ただし、テストでnewのeのスペルだけカンニングしてしまいました。

もちろん100点(事実は99点)

英語に関しては2学期から京都に引っ越した為、教科書が変わり挫折(笑)
中学1年夏休み、陸上県大会当日に集中豪雨で中止になり、被災しました。
そして、工場の機械は水に浸かり、そのこともあったのか、
二学期から親父の会社の本社がある京都市に引っ越しました。

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