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自分史⑤中学1年〜中学卒業までエピソード3
私が周りに合わせる他人軸的生き方、もしくは、体育が得意?3年間ほとんど通知表が5だったのかは、わからんが、田舎者の私も、京都に馴染んできた。(体育の小林先生は、私がすごいプレイをした後、先生を見るとこちらを見て微笑んでくれた😀)
中には、私を認めない先生もいた。
うちの中学はベル着ということ言わなければ、まともに授業前に席につかない生徒が多い学校だった。
島根の田舎ではありえない話だ。
私は、
自分史④中学1年〜中学卒業までエピソード2
京都といえば都、老舗の店は、威厳様など他の都道府県から見たとき、よそ者には冷たいという方もいますが、そのような方はごく一部と思います。
私が感じたのは、服装です。私は島根のど田舎から引っ越してきました。
うちの家庭は貧乏でもなく金持ちでもない中間層ですが、衣食住の衣に関しては、両親が鹿児島出身だから?いや、親父が職人がたきだから、道具より技術(技を磨け)を重視するからだと理由だと思いますが、ブラン
自分史③中学1年〜中学卒業までエピソード1
社宅ということもあり両隣の同じ中学で同学年あった2人は優しく話しかけてくれた。
初めての転校生、挨拶はすごく緊張しました。
早く友達が欲しかった私は、あるグループに話かけられて嬉しかったが、鉄道マニアで写真好きだったので、しばらくして交流が薄れたが、昼休みのソフト野球の交流は続いた。
すぐに、野球部の顧問の檜垣先生のところに入部の申込みをした。
「五厘刈りにしてこい」笑
都会とはいえ、野球部は
自分史② 小学校〜中学1年一学期
小学校入学と同時には親父の工場の近くに社宅ができて、島根県益田市の隣美都町(現益田市)に引っ越しました。
入学のときすごくワクワクしたのをなんとなく覚えています。
教科書がピカピカ輝いていました。
ただ、何故か1,2年生の記憶があまりありません。
1,2年の担任の女性ベテラン寺尾先生が優しかった印象だけ覚えています。
全校生徒100人あまり、第二次ベビーブームもあり1学年20名くらいで一番多い感じ
自分史①出生から幼稚園時代
1971年(昭和46年)2月26日午前2時くらいに鹿児島県国分市(現霧島市)で生まれる。
母親が出産のために帰省して私を産んだ。
その頃は、父親が滋賀県草津市の工場で働いていて、本籍はもともと草津市であった。(今の本籍は現住所の霧島市)
その頃覚えているのは、工場隣接の社宅で近くで遊んでいた私は、
高さ3メールくらいから小さい川に落ちて、工場のお兄さんに助けられたそうです。土もあり水位もほとんどな
素直・謙虚・笑顔・感謝・喜び・最後・中立・選択・変化・言葉・結果そして、中立の上に、「思いやり」、愛・・・
素直:なんでも言うことを聞く人ではなく、
何でも自分が感じたことを話、行動し、そして誰からでも何でも学ぶ姿勢
謙虚:どんな人でも礼に始まり、礼に終わる
肩書や有力者だけでなく、子どもに対しても同じ
笑顔:心のそこから微笑む時、人は決してネガティブなことを考えない
世界に笑顔を伝染すれば、世の中から争い事はなくなる
<左が自分1人が心がけること、右が相手が必要なこと>
笑