自分史⑤中学1年〜中学卒業までエピソード3

私が周りに合わせる他人軸的生き方、もしくは、体育が得意?3年間ほとんど通知表が5だったのかは、わからんが、田舎者の私も、京都に馴染んできた。(体育の小林先生は、私がすごいプレイをした後、先生を見るとこちらを見て微笑んでくれた😀)
中には、私を認めない先生もいた。

うちの中学はベル着ということ言わなければ、まともに授業前に席につかない生徒が多い学校だった。
島根の田舎ではありえない話だ。
私は、同じクラスで野球部の同僚と廊下で遊んでいた。
ベルが鳴ったので、「席に戻ろう」と言ったが彼は遊びをやめない。
私は、他人軸?だから、もしくは勇気がないから、そのクラスメイトに合わせ、一緒にいやいや付き合った。
すると、技術家庭科のサシハタ先生に怒られた。
とにかく、私だけ往復ビンタをくらった。
私は、言い訳や後ろに後退するが、往復ビンタは自分が下がるの止めるまで終わらなかった。
こんなに殴られたの初めてだった。
親父には一度だけ、平手打ちを一回くらったことしかなかった私が。

合唱コンクルーで、私が調子に乗って、合唱の委員を立候補して選ばれたのはいいが、自分が何をしたらいいのかわからず、担任の先生任せ笑
でも、私達の学年は、率先して早朝練習をするくらい、みんな頑張っていた。私達のクラスは一番声が出ていたので特別賞をいただけた😀
私が京都に来て良かったことを3つあげるとすれば、
1、都会が見れた。
2、話すことは苦手だが、体を使ってギャグをして笑わすことの楽しさを知った。小学校時代は、ただ、真面目な優等生で、人から笑われるが苦痛な人だったため、京都で人を笑わすことの楽しさを知った。
3、改めて、上には上がいることを知ることが体感できた。

3年の時、12月位っだったか、放課後、クラス数人と中庭の掃除をしていた。2階から2年の不良が唾を落としてきた。(ただし、私も同じ野球部の同僚に皆を真似やっていた、恥ずかしい)
私は、怒って、「降りてこい!」、向こうが「上がってこい」ってやりとして、2年どもが3人位降りてきた。
中には、私は口論になり、突っかかりそうになっていたので、同級生が私を止めてくれた。後ろ振り返り、その場を去ろうとした時、後ろから蹴られ、
そして、私は生まれて初めて、人生で一回きりの相手へ突っかかって行った。相手の後頭部に拳を当てた後、私は冷静であったが、職員室前もあり、先生に止められた、その先生の止めた締め付けの方が痛かったのを覚えている笑
後で担任の先生の部屋に呼ばれ、話の内容はよく覚えてないが、とにかく暴力はいけないとか、そのような話だったと思うが、途中から私の妄想?(笑)が始まり、高校の受験の内定に響かないかとか、不良を殴ったからその親の暴力団が出てきて家に押しかけて来るんじゃないかと怖くなり泣いた笑。担任の先生は私が怖くなって泣いているのを途中からさっして鼻で笑った。
対象的なのは元クラスメイトのベイスターズに行った、波留敏夫は喧嘩をして先生の前で彼も泣いたが、彼の理由はなぜ向こうが悪いに自分が怒られなければならないのだと泣いた。
同じ人間でもこうも考え方が違って泣いた面白いエピソードである。

今の私は、妻子がいません。後、何回死にかけたかわかりません。
私の理想を掲げて行動した時、その暴力団、もしくは権力者が私を脅しに来ても私は腹をくくって、命をかけれます。
先程の愛する対象の妻子が脅されることもありません。
だから私は今は最強である!!

夏に野球部を引退し、正月にもちを食べすぎ、4キロ太ってしまった。
足は更に遅くなり、高校時代はずっと68キロだった。

以上、中学編でした。

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