自分史⑧東京編

21歳で京都のコンピュータ専門学校を卒業後、東京吉祥寺ある本社に入社しました。

筆記試験は、大阪の事業所で受けたのですが、社員さんに助けられながら
最下位でぎりぎり入社(笑)

研修はとにかく、初めてのことばかりで、気を使い、
社宅(マンションを会社が借り入れ、3LDKに3人の共同生活)に帰り着いたら
グタグタでした。

<エピソード1>
一番緊張したのが電話対応です。
私はHSP気質(緊張しやすい、気を使う)で、今まで相手の顔色ばかりを伺って育ってきていたので
電話は顔が見えないので特に緊張したのでしょう。

自分「〇〇コンピューター株式会社です」
相手「〇〇会社の〇〇です、〇〇さんいらっしゃいますか?」

自分「はい、〇〇ですね、今は席を外しており、おらはりません」

極度の緊張で標準語に京都弁が混じった、変な日本語に周りから大爆笑

<エピソード2>
先輩への尊敬討論で、先輩は必ず尊敬するかの討論になりました。
都筑部長は面白がってました笑

先輩だから尊敬すべき派と
先輩だからといって尊敬はできない派
に真二つに割れました。

私は、野球部の経験者もあり、もちろん尊敬ずべきでした笑

今現在の私は条件付きで逆ですね。
先輩が先に働いているからこそ、会社が存続し、新人の私達は入社できたということには
代わりはありませんけど、そのことに対して行動が伴っていないのに
あからさまに先輩ヅラをする人は尊敬の対象にはならないですね。

<エピソード3>
一つ上の先輩達に私達の「お前たち新人グループはめちゃ仲がいいな」とよく言われました。
私が高校時代にキャプテンをした経験からか、みんなのまとめ役になっていました。
必ず私は同僚に声をかけ、京都で学んだ明るさとユーモア(天然も含めて)リーダー的存在でした。研修期間は帰宅時は会社の玄関でみんなを待ち、一緒に駅まで帰りました。

寮での生活は3人暮らしでした。
一人は茨城のアニメ好きの優しくて真面目な清野
もうひとりは大阪のパソコン好きで真面目で頑固な有満くんでした。

有満くんは私の中では伝説です。
入社前に、自分で料理をマスターしており、私達は研修中は晩ごはんの料理は作ってもらいました。
清野くんと交代で後片付けをするなど仲が良かったです。

<エピソード4>
初めての業務は日本航空の予約・発券システムのWindow版 EASY AXESSです。
業務で使えるWindow3.1は私が入社した年度から日本でも開発が始まりました。

Window開発を簡単に開発できるツールがもうすでにありました。

他の新人は開発ツールでプログラムしましたが、私は、その開発ツールで使用するパーツのテキストBOX
(キーボードでの入力されたローマ字をカナに変換できる入力パーツ、カスタムコントロールといいます、リソースかな?)です。
Window cという関数が用意されていて、普通のc言語と併用で開発するプログラムです。
つまりWindowのアプリ画面の中に簡単な小さなWindowアプリを作るみたいな

昔はインターネットがなく、分厚い本で調べないといけない大変な作業でした。
しかし、途中入社で入られた平山さんは独学をされており、よく相談に乗ってもらいながら作業しました。すごくお世話になった方です。もう一度平山さんには会いたいですね。

最初は、順調に仕様に基づきプログラムを作っていましたが、
後付で共通であるテキストボックスに機能追加をしてくれと言われ、
自分のプログラムがわからないくらいに複雑なプログラムになり
バグ対応も研修でお世話になった都筑部長のサポートでなんとか形は仕上げることができました。
最終的には自分の納得いく、わかりやすいプログラミングができなかったのが後悔してます。
追加の機能もはじめから分かっていたら、わかりやすくバグのないプログラミング開発ができたと思っています。

<エピソード4>
次の業務は、私は嘘の経歴で派遣業務をしていました。
さくら銀行のプロジェトマネージャーが見つけてきた、アメリカのWindow開発ツールで
東京ガスのお客様管理システムの開発でした。

まだ、日本語対応されてない、中途半端なWindowsプログラミングツールでした。
研修はあったものの今思えば散々でした(笑)

私は、さくら銀行のコンピューターの詳しい方のもとで、まず、パソコンのネットワーク環境のセッティングを2人でやらせてもらいました。
開発開始の立ち上げから関わっていましたので、
いざ、人員が増えて、開発が始まると、皆さんから質問攻めにあい、自分の担当のプログラムが全然進捗しない状況でした。
それをプロジェクトリーダーが見越して、私の担当プログラムを他の人に引き継ぎ
他の方のc言語の講師役をしました。

あとは共通化委員会的な会議に参加したりと積極的に業務をこなしていましたが
毎日、派遣で知り合ったリーダー的仲間と白木屋で晩ごはん、飲み会、愚痴大会。
出る杭は打たれるじゃないですけど、実践でしか勉強ができなかったのと
恋愛ベタの私が調子に乗ってアドバイスがいけなかったのでしょ、
私は、当時のパワハラ?で徐々に孤立していきました。
そして、その頃から、私の心は虫歯なれていったのでしょう。

私のサラリーマン月給では家賃も払えなくなりアコムに手を出した。
そして、派遣業務で知り合った、契約社員(フリー)の紹介でお給料が倍になることに惹かれてしまい、会社員をやめて、同じ派遣社員になりました。

<エピソード5>
最初は東芝情報システムの派遣でした。
私はWindow開発しか経験がなかったのでその仕事を露木社長は選んでくれました。

でも最初はオラクルだったか?初めてWindows開発ツールでプログラムをしました。
プログラミング中にあることに気づきました。
当時、コンピュターの年号は2桁で表示。
2000年問題です。
リーダーにそのことを告げると、怒り出し無視されました。
私は、自分なりの2000年問題を考慮し問題ないプログラミングしました。
今の開発はどうかは知りませんが、開発納期とお金は決まっており
変更など論外でした。
問題が見つかったらほっとくとあとで時間をお金もかかるのね笑

その、東芝情報システムを去ってしばらくしてから2000年問題がニュースで放映されたのを覚えています。

その開発途中で東芝情報システムの部の打ち上げがあったとき
えらい目にあいました。
オカマの課長に手は握られるはで、まあ色々と。

当時、彼女などいない私は、お給料が倍になり、当時珍しい携帯電話に
ドラマに出てくるような派手なスーツ姿、容姿もそこそこ。
川崎駅で帰りの暗い中、カメラのフラッシュがパシャリ(笑)

このようにいろんな出来事が重なって、東芝情報システムは次のプロジェクトは断り
次の外資系に移ったが
やたらと周りの目が気になるようになり
派遣社員になったがゆえに信頼し、相談する相手もいなく

帰り道に誰かにつけられてる、テレビが自分の話をしている
怖くなり昼夜逆転、会社にいけなくなり
露木社長に診断書が必要と言うことで、近くのクリニックで
当時、分裂症(統合失調症)と診断され、

逃げるように当時両親がいた、兵庫県豊岡市にいきました。

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