自分史③中学1年〜中学卒業までエピソード1

社宅ということもあり両隣の同じ中学で同学年あった2人は優しく話しかけてくれた。

初めての転校生、挨拶はすごく緊張しました。
早く友達が欲しかった私は、あるグループに話かけられて嬉しかったが、鉄道マニアで写真好きだったので、しばらくして交流が薄れたが、昼休みのソフト野球の交流は続いた。

すぐに、野球部の顧問の檜垣先生のところに入部の申込みをした。
「五厘刈りにしてこい」笑
都会とはいえ、野球部は坊主が当たり前の時代。
私は、五厘刈りにして、野球部に入部。
クラスメイトの野球部員に連れて言ってもらい、部室がないので体育館裏ので着替えていた。
3年生は、引退していて、2年生の先輩方に声をかけられ、奥で質問答えながら着替えた。
後で、同学年部員、波留敏夫に「なぜ、先輩方の奥で着替えているんだ」と何も知らない私に対して不満があったが、先輩方の質問に答えていたと誤解はとけた。(後にベイスターズの優勝メンバー2番センターである笑)
波留は、私がスポーツ万能をリスペクト?してくれていたのか、あと2年の時に、同クラスということもあり、野球練習の前に、2人バレー部の出稽古?行っていた仲でもある。

ダービーと言って、川沿いを走る中距離は、1年でだいたい1位を取っていた。しかし短距離は波瑠がNO1だった。プロのときは噂で50Mを5秒台で走っていたとの話。
波瑠は自主的家でも筋トレをする努力家、腕相撲は1回も勝てなっかと思う笑

いいわけではあるが、小学校の6年のときにひとつ上の先輩ピッチャーの投球ホームを真似てから、スローイングが変な癖が付き、ノーコン(ストライクを投げられなくなった)。
自信喪失で投打ともに力も抜けなくなったので中学時代はレギュラーが取れなかった。
ただし、檜垣監督はノンプロ出身で、バンティング理論は檜垣先生のおかげで流し打ちの技術を学んだ。
小学校まではひっぱり専門だった私が、流し打ちが得意になっていたのは檜垣先生のおかげだ。
実は、高校最後の試合は京都テレビで放映されていて、それを見た檜垣先生から直接電話があり、お礼を述べることができた。
高校生とはいえ、伊藤智仁(現ヤクルトピッチンコーチ)から5打数3安打2打点の結果を残せたのは檜垣先生のバッティん理論を信じて高校まで続けた結果だからだ。

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