好きだったとは知らずに
今、もしも親に「もういい加減寝なさい」と叱られたとしても、やめられずにこっそりやり続けていたいこと、それは何ですか?
大の大人には幼稚な質問だが、やめろと言われてもやり続けたい事には欲望と喜びが結びついている。
私は幼いころからすこぶる健康で活発、全身で情報を体得し、じっと座っていられない外遊びっ子だった。
そんな私に手を焼いてか、母からは、週の全てに習い事を詰め込められていたが、それでもどうにかやりくりをして、必ず友達と外で遊ぶことを厭わずにいた。
野生児も同然だったから必然的に読書とは無縁。どこかで聞いた話によると、幼い頃に紫外線に十分に浴びて過ごした子供は視力が良いらしいが、全くその通りだと思う。
当時母親から、私にはまだ難しく感じられた本(しかしそれは一般的には学年に見合った本だったが)を無理矢理あてがわれ、読書は苦痛でしかなかった。
本当は、何度読み返しても飽きない程大好きな絵本は何冊もあったのだが、それでは母親に許されなかったのだ。
徐々に大人になるにつれて、将来に迷ったり恋愛に苦しんだりした時、女友達に話を聞いて貰うのと等しいくらいに本が救ってくれるという体験を、少しずつ重ね始める。
丁度今の娘と同じ年頃、大学三年生になった頃が「自分の人生は自分の足でちゃんと歩むのだ」と心に誓った最初だったかもしれない。
そんな時にふと手にしたのが動物行動学者リチャード・ドーキンス著「利己的な遺伝子」。
真っ赤な表紙が印象的で、とても興味深く感じられて熱心に読んだ。
しかし当時「なんで(お前が分かりもしないのに)そんな本読んでるの」と兄に鼻で笑われ、恥ずかしくて急いで隠したのを覚えている。
得てして母と兄は、私の前向きな気持ちをことごとく挫くタイプで、そうした傲慢な一言にいつも敏感に反応してしまい、心が委縮していた。
しかし今は、本来の自分を隠さなくても良いのだと思えるようになり、興味の赴くままに本を選ぶことができる。
ジュエリー制作の合間、料理をしている間、洗濯機の脱水を待っている間、隙間時間を見つけては読んで考える。
そして、こうやって少し書く。
かつてじっと座っていられない外遊びっ子も、今では老眼鏡をかけて、本を片手にじっと考える。
好きだったとは知らずに過ぎてしまった知欲を満たすかのように、読書に興じ自由に考えを巡らすことができる時間が、今は最高に楽しい。
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