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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』にて(時間とは何か?)

この書物の本番は第五章からです。第五章では、哲学者マルティン・ハイデッガーの退屈論に触れています。人間は、動物とは異なり、環世界に囚われていないから、自由である、という考え方があります。

第六章では、生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが説く環世界に触れて、國分さんの考え方が示されます。人間も環世界を生きているが、環世界間を移動する能力が高いから、自由なのではないかと。環世界間移動能力があるから、環世界に留まれずに退屈するのではないかと。

そこで、私の関心は、本筋から離れて、ユクスキュルの「時間」の考え方に移動しました。人間の環世界における「時間の流れ」が気になります。

時間とは何か?
 時間とは何か? これは古代より哲学者たちが挑んできた難問である。哲学はそれに答えを出せたとも言えるし、出せていないとも言えるだろう。だがこの難問に対し、ユクスキュルは驚くほどあっさりと答えを出すのである。時間とは何か?――時間とは瞬間の連なりである。
 これだけではよく分からない。時間が瞬間の連なりであるのなら、この「瞬間」とは何か? またしてもユクスキュルの答えは驚くほどあっさりしている。ユクスキュルは具体的な数字をもって、この問いに答えるのである。
 彼はこう言う。人間にとっての瞬間を考えることができる。人間にとっての瞬間とは一八分の一秒(約0.056秒)である。……

――p.306 第六章「暇と退屈の人間学」

 映画館のスクリーンには動画が映されている。人や物はなめらかに動いている。しかし、映写機のメカニズムから分かるのは、スクリーン上ではコマの映写と暗転が繰り返されているということである。 実際に映画館で映画が上映されているとき、一コマと一コマの間には、シャッターが閉じる瞬間があるのだ。要するに私たちが映画を見ている間、スクリーンは何度も真っ暗になっている。
 だが、私たちの目には真っ暗のスクリーンは見えない。映画館で見えるのは動いている映像である。なぜかと言うと、各コマの停止とスクリーンの暗転が一八分の一秒以内に行われると、暗い部分は私たちの目には感じられないのである。逆に言えば、それ以上の時間がかかると映像がちらちらする(現在の映画は、一秒間に二四コマのスピードで映像を動かしている)。
 一八分の一秒以内で起こることは人間には感覚できない。したがって、人間にとって一八分の一秒とは、それ以上分割できない最小の時間の器である。人間にとっては一八分の一秒の間に起こる出来事は存在しない。だれも映画を見ている間に真っ暗のスクリーンを目撃などしない。

 しかも驚くべきことに一八分の一秒は視覚のみならず、人間のあらゆる感覚にとって時間の最小の器であるらしい。たとえば、一秒に一八回以上の空気振動は聞き分けられず単一の音として聞こえる。人間の耳では一秒間に一八回以上の振動は捉えられない。
 触覚も同様。棒で皮膚をトントンとつつくと、トントンとつつかれていることが感じられる。ところが、一秒に一八回以上皮膚をつつくと、ずっと棒を押し当てられているような一様な圧迫としてこれが感じられるというのだ。
 人間にとっては一八分の一秒が感覚の限界である。ということはつまり、一八分の一秒という瞬間、「最小の時間の器」、それが連なって人間にとっての時間ができている。人間にとっての時間とは何か? それは一八分の一秒の連なりである。

――pp.307-308 第六章「暇と退屈の人間学」

「時間の流れ」について、問い詰めつつある私の記事が三つあります。

以上、言語学的制約から自由になるために。