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発展する自然科学から求められる新しい形而上学

古代ギリシャの時代から、理想的な対象としてのイデアが哲学や数学において追求をされてきました。それは理性(ロゴス)を生み育て、歴史の中で古びた宗教的価値観を更新する力も人々に与えました。理性に基づいた科学の進展により、昔は想像さえできなかった新しい自然像が、現代では明らかになってきています。古代や中世の人々が信じていたイデアは、当時の人間が狭い範囲で経験をしたことの理想化として、その意識の中に芽生えたものです。しかし多くの新しい経験や科学的事実に触れている現代人にとって、そのイデアや形而上学もアップデートされるべきではないかと、個人的に考えています。

ここでの「イデア」とは、太古の哲学者が言うような「人間の認識に先んじて、理想界に実在するもの」ではなく、そのイデアの存在自体も含めて人間が生み出したものという見方に基づいています。例えば水や他の流体を見て、それらに共通する連続流体のイデアを人間が感じることは、水やその流体の陰に連続流体のイデアが実在するからこそ、そう感じられているというよりも、人間が勝手にそういう連続流体のイメージを機械学習的(すなわち人工知能的、AI的)に作り出したものと捉えています。しかし原子論が確立している現在、完全なる連続流体イデアは、人類にもう必要はありません。連続流体のイデアよりも離散的な原子の集まりのイデアを、人間はアップデートをして感じとるべきなのだろうと考えるわけです。地動説も原子論も相対論も量子力学も知らない昔の哲学者より深い視点を有するはずの現代人の我々は、連続体と捉えていた物質や時間や空間の素朴なイデアを、古びたものとして捨て去るべき時代ではないかと感じているのです。

中学生の頃、数学的なイデアとしての直線や幾何学的対象を友人と議論をしていました。その友人は、

「世界には真実の線分というものは実在しないのに、イデアを論じる価値はあるのか?」

と私に言うのです。例えば下の図のように三角形を書いてみます。

紙に三角形を鉛筆で書けば、必ずその線は有限幅を持つのであり、幅ゼロの極限での理想的な線分を考えても、その「イデア」こそが単なる画に描いた餅ではないかというのが彼の趣旨でした。そのとき幼い私は彼にこう反論をしました。

「いやいや、それは鉛筆で線分を書こうとするから幅が出るのであって、2色以上で面を塗れば、その境界は幅ゼロにできるよね。」

たとえば下の図のように赤と白で面を塗って書いた三角形の辺に幅はないでしょうという意味です。

それに対して「なるほど」と、一旦彼は自論を引っ込めたのでした。でも物理学を生業にする身となって、改めてこの問題を考え直してみると、私が友人に示した反論はもちろん穴だらけだったと分かります。例えば2色の領域で挟まれた線分だって、色素の原子(モニター上ならば発光素子)を使って生成されているのだから、本来は離散的であって、拡大してみれば例えば下のような感じになっているのですから。原子サイズは変更できないため、どうしても三角形はちぎれるし、また真っ直ぐな直線としての三角形の辺も原理的に存在しないのです。

図の赤丸の分布が多少変わっても、同じ三角形であると認識してしまうのは、まさにその背景に三角形のイデアというものが実在しているからだと、古代の哲学者ならば考えるでしょう。また上の3つの図形の背景にも、共通する1つの三角形のイデアが実在していると彼らは思うのでしょう。しかしやっていること自体は、現代の人工知能(AI)が行っているのと同じ程度のことに過ぎません。デジタル機械に過ぎないAIは、多数の異なる対象から共通する1つの三角形を捉える教師無しの作業ができますが、そのときに理想界に実在するとされるその三角形のイデアをAIが参照して判別しているとは、とても考えにくいです。

古代人が素朴に持っていた、連続的なイメージの理想化としての幾何学的イデアと、原子から構成される現実世界の描画とを繋げる極限は、無限操作としても存在せず、その2つの間には大きな溝が永遠に開いたままになっています。「大きさを持たない点や、幅を持たない線分などで構成をされる連続的な幾何学が、自分達が書いた図形の背景に実在をしているイデアであると考えることは、人間にとって馬鹿げている」という友人の主張は実に的を射ていたと、今は考えています。古代の哲学者の想像力の欠如に、たしかに現代人の我々が付き合う必要はないのです。むしろ現代においては、原子論や量子力学に基づいて、代替する新しい「イデア」の概念を構成するべきですし、また相対論に基づいて時間や空間の幾何学の新しい形而上学を作るべきだと思います。

時間や運動の哲学でも、自然科学としての脳科学や認知科学を採り入れないならば、真理探究の学問として空虚なものとなるのではないでしょうか。ベルクソンなどの哲学者は、アインシュタインの相対論を「時間の空間化」に過ぎないとし、意識上に流れる時間の本質を捉えられていないと批判をしたそうです。でも本当に意識の中を継続的に時間が流れているのかどうかは、現代科学の視点からは全く自明ではありません。人間が意識の上で感じている時間の流れも、たとえば麻酔を打たれた途端に中断し、目覚めたときにはタイムスリップのような感覚を持ちます。またミリ秒程度とも言われる脳の活動時間の最小単位の存在を考えれば、残像として時間を連続的に感じているだけとも言えるかもしれません。

たとえば下の図では左の位置に箱があります。

時刻t=0

そして次の図をみると箱は今度は右の位置に書かれています。

時刻t=1

この2つの図を連続して眺めても、箱が左から右へと動いて見える人は少ないかもしれません。しかし普段から相対論に馴染んでいる物理学者の私は、それぞれの図の下のキャプションに「時刻t=0」と「時刻t=1」と書いてあるのに気づくだけで、箱の運動を感じることができます。相対論にどれだけ馴染んでいるかなどの知的な経験量の違いで、図から箱の運動を感じるかどうかは変わってくるのです。また下の図のように、箱の左側に3本の線を書き加えるだけで、箱が右に運動をしていると感じる人は増えるでしょう。残像を思い起こさせるこのマンガ表現でも、マンガに触れてきた長い経験によって、自然に人々は動きを感じるのです。でもマンガ表現を知らない古代人にとっては、そのように見えないでしょう。人は自分の背景知識の文脈の中で、運動とそれに伴う時間を感じているのです。

ですから現代において必要とされる新しい形而上哲学は、物理学や認知科学を含む現代科学の結果をしっかりと正確に吸収したものであろうというのが、私の意見なのです。そういう新しい形而上学を、哲学徒が物理学徒たちとともに作り上げていく未来を熱望しております。


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