フォンノイマン鎖と「意識」
量子力学は、あらゆる素粒子の集まりに共通する物理法則を記述する理論です。でもこの事実を、普段量子力学を使って論文を書いている人々でも真剣に考えたことがあまりないのだろうなと感じさせられることが多いです。そしてこのことが原因の1つとなって、「考えるな!計算せよ!」というレベルの道具主義から脱してないと、哲学者から物理学者が批判をされたりします。
私自身はときに道具主義だと批判をされる操作主義的量子力学の支持者ですが、前世紀に混乱していた概念を淡々と自分のなかで整理をし、本当に深く考え尽くして、やっとその考えに至って、腹落ちができたのでした。特に粒子数や物理的自由度をマクロ化した量子コンピュータや、猫や、人間や、そしてブラックホールなどのマクロ系を過不足なく統一的に、そして矛盾もなく記述するには、フォンノイマンやウィグナーが提唱したコペンハーゲン解釈しかうまくいっていないという実感を持ったからです。
ベル不等式の破れによる局所実在の実験的な否定が確定している現在、私が「現代の量子力学」と強調している内容は、実は1935年頃のフォンノイマンやウィグナーの考え方のリバイバルとも言えるのです。
波動関数を収縮させる観測者の連鎖の最終端に「意識」を導入した、フォンノイマン鎖の話は有名です。この考え方には、量子力学を実在論としてみなさずに、情報理論としてみなす思想の原型があるように感じます。
20世紀の量子力学勃興期には物質中心主義、唯物論が物理業界内部にも強く、「意識」などの客観性のないものを、当時の科学の王様であった物理学の中心に据えることへのアレルギーは、大変大きかったのだろうと思われます。量子力学に対するフォンノイマンやウィグナーの「意識」の概念の導入は、本来は情報理論の登場に繋がる自然な流れであるはずでしたが、当時はひどい反発を呼びました。
ところが局所実在を否定したベル不等式の破れの発見により、意識主体である観測者達と量子系の間をつなぐ情報理論であると納得するのを妨げてきた心理的な壁が、現在では下がってきたとも言えます。このため前世紀に葬られていたフォンノイマンたちの量子力学観が、現代に情報理論として新しく整備された形で蘇るのは、極々自然なことです。
量子力学は操作論的な情報理論であり、この「情報」はどの量子系に関する誰にとっての情報であるかを指定する必要がある概念です。たとえばAさんとBさんとでは、その量子系のある物理量の確率分布について元々持っていた情報にも差があったかもしれないのですから。その場合はAさんにとっての確率分布としての情報と、Bさんにとっての確率分布としての情報は、もちろん異なっても良いのです。ですから、この「誰」、つまり観測の主体である<私>という視点が、情報理論には極々自然に入ってくるのですね。この<私>というものが、まさにフォンノイマン鎖の終端である「意識」なのです。
ただしこの<私>は、実証科学としての量子力学の公理の最小限にしか現れないことにも注意が必要です。この<私>の存在に対して難しいことを考える必要は特になく、「日常的に様々な情報やそれに伴う確率を扱っている自分の意識があるなぁ」と思う程度で十分です。飽くまでひとりひとりの人間の個人的なこの経験則は、自分以外の他人や将来のAIが同様の意識を持つことを論理的に保証をしているわけではありません。しかし他人やAIが「意識」をもった存在であるという前提を、たとえ量子力学の公理系に加えても、量子力学の体系全体は矛盾なく、そのまま成立する点だけが非自明なのです。これについては下記記事もご参照ください。
ですから情報理論としての量子力学は、前世紀に嫌われたフォンノイマンたちの考え方の現代への更新版であるとも、確かに言えるのです。実証科学としての物理学が長い時間をかけて多くの量子現象の知見を溜めてきた結果として、それは現代に生き返ったものなのです。
現在では、実証科学を尊重する姿勢を持つ人は誰でも、この現代的な量子力学を操作論として曖昧さなく、完全に理解できるものになっています。波動関数も正体不明な謎の対象ではありません。量子状態トモグラフィによって実験で構成できる明確な定義が波動関数に成されています。
これについては下記の教科書でも説明をしています。
その波動関数は「情報」としての物理量の確率分布の集まりから明確に構成されます。ですから観測による確率分布の更新として、波動関数はむしろしっかりと収縮をすべき概念なのです。ですから昔「観測問題」と呼ばれたものも、実際には量子力学には存在していません。
当時不人気だったフォンノイマンたちの量子力学観を、物理学者達がそのまま成長させていれば、「観測問題」に対して長い間無駄に悩むこともなかったわけですが、それは飽くまで歴史の「もし」(if)に過ぎません。今となっては、実験結果の蓄積を続けた実証科学としての物理学の発展こそが、この正しい理解を人類に提供したと言うべきなのでしょう。
30年後とも予想をされている量子コンピュータの実用化ですが、その頃には同時にAI技術も平行して成熟をしており、「機械に宿る意識」という問題は、社会としても重要視されている、もしくは既に常識になっていることだろうと思います。「意識の宿った」量子コンピュータ、つまり量子AIを人間が操作をしていることでしょう。そのような時代に量子力学を教える物理教員は、果たしてフォンノイマン鎖やその終端として「意識」というものを避けて通れるのだろうかと、考えています。論理をきちんと組み立てながら、矛盾なく、過不足なく解説できているのだろうかと、訝ってしまうのです。
そもそもフォンノイマンが言う「意識」は、我々の日々の当たり前の経験則に現れるそれにしか過ぎません。我考える故に我ありと、この文章を読んでいる方は皆自分は今自分の「意識」を持っているという経験をしていますよね。それも実験結果の1つとして認めて、それを原理や公理として据えることに対して、何故強く抵抗をするのかが、私には感覚としても分かりません。たとえば「意識」がないときには、情報理論である量子力学をその人は単に使えないというだけのことです。
そもそも我々が行っている科学とは、人間の五感を出発点にして様々な高度な道具や測定機を開発しながら、この世界の情報を収集して、それを解析するものです。すると自分以外の対象の「意識」は科学の俎上には載りません。チューリングテストくらいしか、自分以外の対象に「意識」があるかどうかを判断する手段はなく、そして現実としては、「意識」を持たないAIでもそのテストを簡単に合格できるのですから。つまり厳密には、他の人間を含む外部の対象に「意識」が宿っているかどうかを科学的に確かめる方法は、存在しません。
科学で扱えるのは、外部の対象物に刺激を与えた時に起こる反応に関する情報だけです。その情報をいくら集積しても、その対象に自分と同様な「意識」があるかどうかは答えようがないですよね。ですから、フォンノイマン鎖の終端としての「意識」の存在は、皆さんの個人個人の経験則を考慮して、それを公理化、原理化することしかできないのです。
将来の量子コンピュータも、チューリングテストには合格して、人間のように「意識のある存在」として、社会のなかで普通に振る舞う時代が来るかもしれません。自分自身の脳や体も素粒子の集まりに過ぎないですし、量子コンピュータも同じその素粒子の集まりです。自分には「意識」があるのですから、量子コンピュータにも「意識」があるという感覚が人々の間に生まれても、特に不思議ではないと思われます。そういう時代の操作主義的量子力学ではフォンノイマン鎖をきちんと考え、その終端としての量子AIの「意識」も公理の中に入れているだろうと、私は思っています。
「考えるな!計算せよ!」と、計算手法だけ教える解釈フリー的な量子力学のいかにも浅薄な教え方には、このような量子AIなどの実現により、必ず限界が来ることでしょう。今から情報理論としての量子力学の理論構造を正しく理解しておくことは、量子ネイティブ世代にとって重要なことだろうと思っています。
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