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後醍醐天皇の神風串呂(串哲№226)

💟ご挨拶

串呂哲学研究会 鈴木超世志

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。 
 
ここでは、「後醍醐天皇の神風串呂」を6本をご紹介し、詳しい解説をしています。 

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。




1、後醍醐天皇

後醍醐天皇

神風串呂史観では、後醍醐天皇は、串呂主宰神(皇祖神)の串呂構築計画の青写真に基づき「吉野で崩御され吉野山に葬られた」となります。

串呂主宰神(皇祖神)は、カミカゼクシロによる皇統史をつむぐために、後醍醐天皇御陵と吉野神宮を吉野山に設けられました。

戦争の勝者や、権力者によって隠蔽・破壊・改竄されてない「真の皇統史」が地文に秘められているのです。

後醍醐天皇、諱は尊治(たかはる)。大覚寺統の天皇。両統迭立てつりつにより、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れない後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、討幕運動を行った。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い(建武の乱)に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立ようりつした北朝との間で、南北朝の内乱が勃発ぼっぱつした。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野で崩御した。

『ウィキペディア(Wikipedia)』後醍醐天皇

後醍醐天皇遺詔(現代仮名遣いに改めました。)
主上しゅじょう苦しげなる御息を吐かせ給いて、妻子さいし珍宝ちんぽう及王位きゅうおうい臨命りんみょう終時じゅうじ不随者ふずいしゃ、是れ如来の金言にして、平生へいぜいちんが心に有りし事なれば、秦の穆公ぼくこう三良さんりょううずみ、始皇帝の宝玉を随えし事、ひとつも朕が心に取らず。只生々世々しょうじょうぜぜの妄念ともなるべきは、朝敵をことごとく亡ぼして、四海を泰平せしめんと思う計りなり。朕則ち早世の後ちは、第七の宮を天子の位に即け奉って、賢士けんし忠臣事を謀り、義貞義助が忠功を賞して、子孫不義の行ないなくば、股肱ここうの臣として天下てんがしずむべし。之を思う故に、玉骨ぎょっこつはたとい南山の苔にうずもるとも魂魄こんぱくは常に北闕ほっけつの天を望まんと思う。めいそむき義をかろんぜば、君も継体けいたいの君にあらず、臣も忠烈の臣に非じ。」と、委細いさい綸言りんげんを残されて、左の御手に法華経の五のまきを持たせ給い、右の御手には御剣おんつるぎあんじて、八月十六日の丑のこくに、遂に崩御ほうぎょ成りにけり。(「太平記」先帝崩御の事)

後醍醐天皇遺詔(現代語訳)
主上(後醍醐天皇)は苦しそうな息を吐かれて、「妻子、珍宝および王位は、霊界に持っていくことはできない、これは如来の金言であるが、平生私の心にあったことで、秦の穆公が三良詩を埋め、始皇帝が宝玉を(お墓に)持参したことは、私にはそのような思いは全然ない。ただ生々世々(永遠)に妄念となるであろうことは、朝敵を全て亡ぼして、四海(国内)を泰平せしめんと思うのみである。私の早世の後は、第七の宮を天子の位に即けまつり、賢士忠臣が相談し、(新田)義貞(脇屋)義助の忠功を褒めたたえ、子孫に不義の行いがなければ、股肱の臣として天下を鎮めなさい。こうしたことを思えば、玉骨はたとえ南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天(北にある平安京)を望もうと思う。もしこの命令に背き義を軽視するなら、君も継体の君ではなく、臣も忠烈の臣ではない!」と、委細に綸言を残されて、左手に法華経の五の巻を持たれ、右手を御剣において、八月十六日の丑の刻(午前2時頃)に、遂に崩御なされました。


第4章 後醍醐天皇は誰に譲位したか!
第5章 後醍醐天皇の世嗣よつぎを昭示する串呂


2、後醍醐天皇塔尾陵の神風串呂

後醍醐天皇塔尾陵とうのおのみささぎは、奈良県吉野郡吉野町吉野山1024 、塔尾山とうのおさん椿花院ちんかいん如意輪寺裏山にある。天皇の墓陵としては唯一北向き(北面)の御陵である。

後醍醐天皇塔尾陵
奈良県吉野郡吉野町吉野山

【参照】後醍醐天皇塔尾陵(宮内庁)

三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』に掲載されている後醍醐天皇塔尾陵の神風串呂をご紹介します。

(1)後醍醐天皇の嫡皇孫は三浦(天皇)である

【参照】後醍醐天皇の御名を鑑定する神風串呂 (№15)
【参照】三浦について

三重県北牟婁郡紀北町 三浦

(2)後醍醐天皇の授禅(譲位)を表わす神風串呂

【参照】後醍醐天皇御陵と金崎神宮との神風串呂 (№37)

福井県敦賀市 金ヶ崎町

(3)後醍醐天皇の嫡皇孫三浦は天の岩戸篭り中

【参照】延命長寿法を昭示する神風串呂 (№16)

奈良県吉野郡十津川村 三浦

(4)後村上院の神風串呂

檜尾陵(大阪府河内長野市寺元 観心寺内)

【参照】後村上院(義良)午年皇子説立証の神風串呂(№186)

島根県出雲市 王院山

(5)後醍醐天皇御陵と富士吉田市大明見おおあすみとの神風串呂

後醍醐天皇御陵ごだいごてんのうごりょう」―「一色いっしき」―「牧平まきひら大門だいもん」—「和田わだ」―「大明見おおあすみ

【参照】「大明見」-地文学への招待 №7

富士吉田市大明見(背戸山展望台/グルコミより

(6)元伊勢内宮皇大神社と後醍醐天皇御陵との神風串呂

天照御魂大神 日降ヶ丘 降臨の謎を解く! 新串呂解明11-⛩元伊勢内宮と神武天皇 奉斎 ⛩橿原神宮の神風串呂

西山(🔴西山二串)元伊勢内宮もといせないくう(🟢初二串)位田いでん町-⛩西山(🔴西山二串)神社-⛩高座たかくら神社-日降ヶ丘ひぶりがおか初香台(🟢初二串)夕陽ケ丘ゆうひがおか大和川やまとがわ第一緑地-大和川やまとがわ橿原かしはら神宮御園みその卍如意輪寺後醍醐ごだいご天皇塔尾御陵とおのおのみささぎ

3、吉野神宮の神風串呂

奈良県吉野郡吉野町 吉野神宮

吉野神宮は、後醍醐天皇の御陵同様「北向き」の神社です。元の吉水神社ではなく現在地に新たに建立されたのは、神風串呂構築のためだと言えます。

 吉野神宮(よしのじんぐう)は、奈良県吉野郡吉野町にある神社。祭神は後醍醐天皇。建武中興十五社の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧社名 吉野宮。
 1889年(明治22年)6月22日に、後醍醐天皇を祀る官幣中社・吉野宮の創建が明治天皇の意向で決定した。1892年(明治25年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。1901年(明治34年)8月8日に官幣大社に昇格する。

ウィキペディア(Wikipedia)吉野神宮
奈良県吉野郡吉野町 吉野神宮

(1)吉野神宮と高天原の神風串呂

【参照】吉野神宮の神風串呂(№225)

茨城県鹿嶋市 高天原

(2)吉野神宮と後村上院御陵との神風串呂

【参照】矢田の天王と後村上院御陵との神風串呂(№188)

大阪府河内長野市寺元観心寺(地図マピオン)

4、吉水神社の神風串呂

吉水よしみず神社は、元南朝皇居(後醍醐天皇の行宮あんぐう)で、後村上院御自作の後醍醐天皇像が奉安されています。

ならかん(吉水神社)より転載

(1)吉水神社と三河御津府御所の神風串呂

⛩吉水神社と御津府御所の串呂には、まことに神秘的な事に、愛媛県宇和島市吉田町の「南君なぎみ」が串線していました。

愛媛県宇和島市吉田町南君(地図マピオン)

【参照】三河御津府御所の神風串呂6-吉野町三串‐吉水神社‐南君‐開成‐御成(串哲300号)


💟皆様方の御支援に感謝しています!

読者の皆様方のご支援に感謝しています!三浦芳聖先生の著書を復刻し、地文の住所を新住所に改め、プロのグラフィックデザイナーに依頼して串呂図のCG化を推進しています。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。


🔴神風串呂を学びましょう!


💟串呂文庫

🔴三浦芳聖著「神皇正統家極秘伝 明治天王(睦仁)の神風串呂」復刻版
🟢三浦芳聖著「五皇一体之八幡大明神 三浦芳聖 降誕号」復刻版
🟠三浦芳聖 著「神風串呂神伝」
🟢三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』(デジタル復刻版)
🔴神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(鈴木超世志著)
💟開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道


🟡バックナンバー(総合)

🟠情報拡散のお願い

この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂の紹介記事です。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。

ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。

神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№225)
吉野神宮の神風串呂
🟢次号(№227)
明治天皇の神風串呂一覧

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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串呂哲学研究ノートは、読者の皆様方の財政的ご支援により活動が維持されています。理解しやすい記事作成のために諸般の費用が掛かります。今一層のご支援のほど、何卒よろしくお願いいたします。読者の皆様方のご支援に感謝しています!