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吉野神宮の神風串呂(串呂哲学研究ノート№225)

💟ご挨拶

串呂哲学研究会 鈴木超世志

このオンラインブックは、神皇正統家極秘伝 神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)について記述したものです。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)とは、元伊勢伝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」の事です。

元伊勢クシロは、皇城守護の結界のことだといわれていますが、その結界とは、神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)のことだったのです。

串呂は、極秘で構築されて来たので、そのように言われてきたのです。 地名(地文ちもん)に秘められた天地神明からの啓示を解明する学問が神風串呂しんぷうかんろ(串呂哲学)です。

ここでは、後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮の神風串呂をご紹介しています。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を学ぶことによって、日本が神国である事実を認識し、皇祖神からの神妙なる息吹を体感体得することができるでしょう!

串呂主宰神(伊勢神宮の大神)が、長期間掛け苦心惨憺くしんさんたんの末に構築された神風串呂に学べば、我が国は天佑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。

神風串呂しんぷうかんろ(カミカゼクシロ)を無視もしくは敬遠していると、無秩序な群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国時代(120年以上)に無辜むこの民が味わった塗炭とたんの苦しみを、国際的な規模で再体験することになるのではないかと心配しています。


1、吉野神宮


吉野神宮(奈良県吉野郡吉野町吉野山)

 吉野神宮(よしのじんぐう)は、奈良県吉野郡吉野町にある神社。祭神は後醍醐天皇。建武中興十五社の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。旧社名 吉野宮。
 1889年(明治22年)6月22日に、後醍醐天皇を祀る官幣中社・吉野宮の創建が明治天皇の意向で決定した。1892年(明治25年)に社殿が竣工して、吉水神社から後醍醐天皇像を移して遷座祭が斎行された。1901年(明治34年)8月8日に官幣大社に昇格する。

ウィキペディア(Wikipedia)吉野神宮

2、串呂哲学の理解を助ける予備知識

始めての方は、下記の記事を参照してください。

3、吉野神宮と高天原の神風串呂

吉野神宮(奈良県吉野郡吉野町吉野山)(地図マピオン)

三浦芳聖は後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮と愛知県豊川市萩町の寓居(三浦芳聖と家族の疎開先)とを串呂すると下記のようになると述べています。

吉野神宮(奈良県吉野郡吉野町吉野山)-萩村寓居(三浦芳聖と家族の疎開先・愛知県豊川市萩町上近久)-高天原(茨城県鹿嶋市)

(三浦芳聖著『神界伝法-姓名鑑定秘法』1955年)

【地文のみ掲載】
吉野神宮-萩村寓居(三浦芳聖と家族の疎開先)-高天原

【地文の解釈】(地文に地図がリンクしています。)
(1)吉野神宮(よしのじんぐう、奈良県吉野郡吉野町吉野山)
後醍醐天皇を祭神とする神宮。建武中興十五社の一社。

(2)萩村寓居(はぎむらぐうきょ、愛知県豊川市萩町上近久)
三浦芳聖が昭和20年(1945)1月3日より昭和25年(1950)8月13日までの5ヶ年半住んでいた仮寓地。

昭和20(1945)年1月3日の米軍機(B29)による名古屋大空襲で、名古屋市昭和区御所町にあった三浦芳聖が経営する「中部国民道場兼自宅」は、丸焼けと成り灰燼に帰した。

この日、愛知県碧海郡明治村和泉(現在の安城市和泉町)での大政翼賛会の練成中、三浦芳聖は、霊感神示により空爆を予知して「中部国民道場」へ駆けつけた。

しかし、火炎に包まれた道場の二階から辛くも持ち出すことの出来たのは、天津神・国津神・祖霊舎のお社(やしろ)と頭山満が揮毫した「忠節」の掛軸だけで、あとは一物も残さず灰燼に帰したと云う。

そのため、三浦芳聖は妻と4人の子供を伴い、遠祖・松良天皇の先蹤せんしょうに倣って愛知県宝飯郡萩村上近久に疎開した。

【参照】三浦芳聖の降誕・仮寓・晩年の住所を貫く神風串呂(№42)
正善-天神-大門-天王町-三浦芳聖降誕地-萩村寓居-三浦芳聖晩年の住所

【参照】皇大神宮内宮と萩村寓居の神風串呂 (№104)
皇大神宮内宮-御堂山-萩村寓居-高松-聖岳-聖天-御幸ヶ原町-入定

愛知県豊川市萩町上近久(地図マピオン)

(3)高天原(たかまがはら、茨城県鹿嶋市)
鹿島神宮の存在する茨城県鹿嶋市にある地名で、江戸時代以前は鹿島神宮の境内で、本殿もここにあったようだ。

高天原(たかまがはら、たかあまはら、たかあまのはら、たかのあまはら、たかまのはら)は、『古事記』に含まれる日本神話および祝詞において、天照大御神を主宰神とした天津神が住んでいるとされた場所のことで、有名な岩戸の段も高天原が舞台である。

『ウィキペディア(Wikipedia)』高天原
茨城県鹿嶋市(地図マピオン)

(4)この串呂の解釈と串呂哲学的考察

戦後、神国再建のため萩村寓居で神道祭祀や禊祓いの行に専念する三浦芳聖に、高天原(神界)より吉野神宮の祭神、後醍醐天皇がやって来られ、様々な霊示があったことを昭示する神風串呂です。

昭和20年(1945)10月下旬から、芳聖は、愛知県豊川市萩町の寓居に於て、早朝6時から夜11時まで、大祓神勅奉唱の祭祀と山陰川の清流での禊祓いに打込んでいました。

これは、「大祓詞を奏上する時、天津祝詞(太祝詞)に天壌無窮の神勅や斎鏡斎穂の神勅を九回唱える神道祭祀で、約一時間ほど掛かる」を一日8回実施していました。

此処での、祭祀中に、神界から芳聖に様々な霊示があり、この時期は、上記の神風串呂があるせいか、後醍醐天皇が毎日のように御降臨になられて、色々なことを教えて下さったそうであります。

最近の研究で、高天原は関東にあったとする著書が出版されています。
【参照】田中英道『高天原は関東にあった 日本神話と考古学を再考する』
【参照】田中英道『日本の起源は日高見国にあった』
【参照】田中英道『天孫降臨とは何だったのか』

4、吉野神宮と後村上院御陵との神風串呂

三浦芳聖は後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮と大阪府河内長野市寺元観心寺の後村上院御陵とを串呂すると下記のようになると述べています。

天王-大松-勢力-日生-宮-馬瀬-後村上院御陵-高天町-⛩吉野神宮-御園-天神山

後醍醐天皇の皇子・義良親王は四緑木星午年の大物であり、宮であり、星であり、かなり勢力を持っていた吉野朝(南朝副統)の天王であったことを、⛩吉野神宮の祭神・後醍醐天皇が立証している。

【参照】矢田の天王と後村上院御陵との神風串呂(№188)


🔴バックナンバー(総合)

🟡情報拡散のお願い

 この記事に到着された貴方様とのご縁に感謝しています。これは皇祖神・天照大御神から地上に派遣された神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖が解明した神風串呂や三浦芳聖伝の紹介記事のバックナンバーです。

三浦芳聖が解明した神風串呂には、日本民族の進むべき道が、明確に示されています。日本民族の危急存亡の時に当たり、一人でも多くの方に読んで頂けるよう、この情報を拡散下さいますよう、宜しくお願い致します。

串呂主宰神は、なぜ、長期間かけて神風串呂を構築し、このように神皇正統の天皇を顕彰されるのか!この一点を徹底的に講究しますと、神風串呂の要諦が理解でき、今我々は、何を第一とすべきかが分かります。ここに日本民族の存亡が掛かっているのです。真実に目覚めましょう!

2千年以上の長年月を掛け神風串呂を構築された、串呂主宰神・天照大御神様のご苦心と、生涯を掛けて神風串呂を解明された三浦芳聖師のご努力が、日本国と日本国民の皆様の幸せの為に生かされますよう願ってやみません。
神風串呂は、神界から日本民族への目に見えるメッセージ(啓示)です。

神風串呂と神風串呂に昭示されている「神皇正統家」は日本民族の宝です!さらに研究を進めましょう!

一人でも多くの方に、神風串呂の存在をシェアして頂きますよう宜しくお願いします。

神風串呂を主宰しておられる神様は、天照大御神様ですので、串呂の存在を一人でも多くの方々にお知らせすると、天照大御神様がとてもお喜びになられます。

出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。

🟡前号(№224)
🟢次号(№226)

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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。

串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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