【日記】小島信夫の「小説作法」が刊行された

 小島信夫の文章の書き方、倫理というのを保坂和志から教わって、直接教わったわけではなく本で読んで知って、それから憧れというか一種の理想の点の一つとなって未だにその文章の書き方は、自分も文章を書くときの指針として未だに頭の片隅にある。小島信夫は、わかりやすくその文章の書き方について、一つの本にしたりして体系的に語ったことは、おそらくない。ものすごく長い本を、しかもたくさん書いていて、そのほとんどを読めば、大体の所はわかるかもしれない。それは、文章の書き方をどこかで触れているのに出会うとかではなく、実際にどう文章を書いているのか、その文章を読んで解読するといった形での理解である。これは、全体として受容するにはそうしなければならないのだが、なかなか出来るものではない。
 そんな中で、おそらくそのエッセンスを凝縮するような形で、保坂和志が選んだ、刊行されている評論の中でも書き手に与するもの、それから臨場感のある形で語りとして出ている、晩年の講演録などを集めて編んだこの本、「小説作法」が刊行されたので、今の人の言い方で言えば、「助かる」ということになるのではないかと思う。
 ここから取り掛かった人には、果たして通じるものがあるかどうかは保証できない。

 最初のごく短い一篇、これが全体を象徴していると思う。ほんの数ページのものだ。けれども、僕はこのたった一篇のエッセイのようなものに出会って、書くことの倫理を書き換えられ、以後自分の書くことの実践に常に付きまとうことになった。
 それは「一つのセンテンスと次のセンテンス」である。
 ある文章を書く。そして、それを継いで次の文章を書く。もう、書くことの原理、書いていることの楽しさ、コア、歯車の一つ、それがそれによって規定される。ある文章を書き、次にそれに続く言葉を書く。そこに飛躍があるかどうか。あるいは、並列するようにあるのか。今ある次元が次にどう歪むのか。それにかかっている、ということを言っている。
 重要なのは、というか、ここが信じられるかどうかにかかっているのだが、そこには、書かれた内容というものは、一切関わっていない。
 いや、書かれる内容というものが、ある文章を書き、その次の文章を書くということの為に存在している。
 いま、あえて「一つのセンテンスと次のセンテンス」にはそんな風には書いていない、自分の中で長年醸造した、この文章が変化し果てたその果ての自分の中にあるこの文章を引き出してきて、ここに書きつけた。そこまで、ラディカルと言っていいか、ラディカルなことを小島信夫は主張しているわけではない。しかし、そのようなものが始まり得る、いわば遺伝子のような、初動の力のみを決定するバネの力、それが枝分かれしてたとえばバネの力で動く時計が動いているような、そんなものがここには存在すると言っていいのではないか。
 このたった三ページそこらのエッセイの内容があまりに重要であると保坂和志は位置づけていて、それだから劈頭第一に持って来た、実は僕はそういう案内がある前に、小島信夫のエッセイを自力で掘っている時に唐突にこのエッセイに出会ったのでいたく驚いて感動したのだが、それらの間に通る、文章のある技術、ある側面というのはあり、皆その周りを駆けて楽しんでいると言った方が良いか。

 ここに書いてあるような倫理は、なかなか徹底して行えない。自分も、常にそういったことを考えながら文章を書けるわけではない。しかし、そういう、単に文章の力だけで書かれたようなものを読むと、ものすごい力とドライブを感じることが出来る。それで感じなければ、事後的に読んで判断はできない。そういう、マニュアル化できない技術の一つである。それを感じることのできる本は、この本しかないし、もう一つ別の技術を紹介した、もう一冊しか、書き方を説明して価値のある本を僕は知らない。

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